第7話:神を騙った殺人鬼が、初めて「本物の暴力」に泣き叫ぶ
果てのない真っ暗な虚無の中を、俺の身体はどこまでも「上」へと落ち続けていた。
鼓膜を打ち据えるヒュウゥゥゥゥッという暴力的な風切り音と、もはや自分が上を向いているのか下を向いているのかすら分からない、三半規管が完全に破壊された猛烈な吐き気。
手足をジタバタと振り回しても、掴むものは何もない。
このまま永遠に、俺という存在は虚空の塵として放り出され続けるのか。
そう絶望に染まりかけた、まさにその瞬間だった。
——ドンッ!!
「……が、ぼァッ!?」
突如として、背中全体に強烈な衝撃が走った。
浮上していたはずの重力が唐突に反転し、俺の身体は硬く冷たい岩肌へと、信じられないほどの速度で叩きつけられたのだ。
肺の中の空気が一滴残らず絞り出され、背骨が幾つか軋みを上げて悲鳴を上げる。
「あ……、が……、はぁ……ッ」
全身を貫く激痛に、息を吸うことすらままならない。
口の中からどろりとした血の塊を吐き出しながら、俺は痙攣する手足をどうにか動かし、冷たい地面に這いつくばったままゆっくりと顔を上げた。
そこには、俺の狂いかけた脳髄にすら「ここが終着点である」と理解させるほどの、圧倒的で異常な光景が広がっていた。
眼前に広がるのは、果てしなく続く海。
いや、それを海と呼んでいいのかすら分からない。
最初、それは極彩色に輝いていた。七色の虹を液状にしてぶちまけたような、鮮やかすぎる水面。
だが、俺が這いずりながらその岸辺へと近づくにつれ、空間の色彩が急速に『吸い取られて』いくのだ。
まるで古いテレビのコンセントを引き抜いたかのように、周囲の景色からサーッと色が消え失せていく。
鮮やかな赤は黒ずんだ鉄色に。
毒々しい緑は沈んだ鉛色に。
数歩近づくたびに、空間の彩度が強制的に剥奪され、最終的に残ったのは、のっぺりとした冷酷な銀色の世界だった。
それは、水銀の海だった。
ジャキン……。シャラン……。
波が岸辺の岩に打ち寄せるたび、水の音はしなかった。
代わりに鼓膜を劈くのは、極低温に冷やされた水銀の波頭が、空気に触れた瞬間に鋭利なガラスの破片となって硬化し、ぶつかり合って砕け散る音だ。
ジャキン、シャララン。
美しく、そして残酷なその冷徹な摩擦音が、どこまでも続く無機質な岸辺に反響している。
俺は息を呑み、震える視線を岸辺の足元へと落とした。
そこには、血と泥を捏ね合わせたような、毒々しい赤黒い色をした蓮の花が群生していた。
『悔恨の蓮』。
この世界で唯一色を残したその不気味な植物からは、死後数週間が経過した腐乱死体のような甘ったるい悪臭が漂い、一枚一枚の分厚い花びらの表面には、見えない極小の文字がびっしりと呪いのように刻み込まれている。
さらに海面を見渡すと、水銀の波の間に間に、半ば錆びつき、崩壊しかけた巨大な時計の歯車がいくつも沈んでいるのが見えた。
ギギ……ギギギ……。
それは何の意味も持たず、ただ過去の時間を挽き潰すかのように、重苦しい水銀の抵抗を受けながらゆっくりと無意味な回転を続けている。
色彩を奪う冷徹な海。ガラスが砕ける波音。腐臭を放つ花と、半壊した時間。
あまりにも陰鬱で、絶望的で、逃げ場のない光景。
俺は全身の震えを抑えきれず、自分の両腕をきつく抱きしめた。
俺は選ばれた存在だ。あの女どもに芸術的な死を与えた神の代行者だ。
そう心の中で何度も唱えようとした。だが、目の前に広がるこの圧倒的な『死の静寂』の前に、俺の貧弱な自己正当化は、水面を這う霧のように容易く掻き消されていく。
***
「渡らなきゃ、ならない……」
血の混じった唾液を飲み込みながら、俺は乾いた唇を震わせて呟いた。
本能が、そう告げていた。
この岸辺に留まり続ければ、いずれ俺の精神はこの冷たい水銀の空気に完全に溶解し、あの無意味に回転し続ける歯車の錆の一部になってしまう。
向こう岸へ。対岸へ行かなければ。
俺は這うようにして水際へと近づいた。
死神は以前、こう言っていなかったか? 『自らの人間性が具現化した筏で川を渡る』と。
俺のような至高の芸術家の人間性ならば、さぞかし頑強で、荘厳な船が用意されているはずだ。
そう期待して岩陰を覗き込んだ俺の目に飛び込んできたのは、信じがたいものだった。
「……嘘だろ」
そこにあったのは、船と呼べるような代物ではなかった。
長さ二メートル、幅一メートルほどの、ただの粗末な長方形の板。
だが、問題はその材質だった。
板の表面には、無数の『鋭利なガラス片』が、刃の先端を上に向けてぎっしりと、隙間なく敷き詰められていた。
それは、波打ち際で砕け散る水銀の破片よりもさらに鋭く、ノコギリの歯のように凶悪な角度で反り返っている。
足を乗せる隙間など、一ミリたりとも存在しない。
もしこの上に乗れば、靴底は瞬時に切り裂かれ、足の裏の肉は骨に達するまで削ぎ落とされるだろう。這い蹲ってしがみつけば、腹も、胸も、顔面も、千の刃によってズタズタの挽肉に変えられる。
「これが……俺の、筏だと……?」
俺は愕然とし、後ずさった。
他者を傷つけ、踏み躙り、その痛みを顧みるどころか己の優越感の餌にしてきた。他人の血を流させることしか知らなかった俺の『利己心』だけで構成された、俺自身の魂の鏡。
これに乗って、あの水銀の海を渡れというのか?
不可能だ。こんなものに乗れば、対岸に着く前に血液をすべて失って死ぬ。いや、ここではすでに死んでいるのだから、永遠に消えることのない苦痛を味わいながら水銀の底へ沈むだけだ。
「ふざけるな……ふざけるなッ! 誰がこんなものに乗るか!!」
俺は恐怖と絶望に駆られ、ガラスの筏に向かって石を投げつけた。
カシャンッ! と虚しい音を立てて石が弾き飛ばされる。
どうすればいい。別の道はないのか。
狂ったように周囲を見渡した、その時だった。
——ガリ……ガリガリガリ……。
背後の、色を失った分厚い霧の奥から、地鳴りのような重低音が響いてきた。
——ズリリ……ジャリッ……ズズズ……。
俺は心臓を鷲掴みにされたように硬直した。
それは、極太の、人間の胴体ほどもある『鉄鎖』が、硬い黒曜石の岩肌を容赦無く削り取りながら引きずられてくる音だった。
圧倒的な、質量の音。
一歩、また一歩と近づいてくるその気配は、これまで俺が弄んできたような、無力で弱い女たちのものではない。
本物の、純粋な『暴力』の結晶が、そこまで迫っている。
「ひ……」
喉の奥で、カエルの潰れたような情けない音が鳴った。
逃げなければ。
だが、後ろには水銀の海。前からは、その音が迫ってくる。
霧が、ねっとりと左右に割れた。
現れたのは、沈黙の船頭などという生易しい存在ではなかった。
見上げるほどの巨体。
頭部は、白骨化した巨大な牛の頭蓋骨。その虚ろな眼窩の奥では、地獄の業火のような赤黒い炎がチロチロと揺らめいている。
そして、その肥大化した筋肉の塊のような黒い胴体からは、人間の腕ではなく、黒々とした剛毛に覆われた『巨大な蜘蛛の脚』が八本、異様な関節の曲がり方で生え、岩肌をカサカサと不気味な音を立てて這い回っていた。
『鬼』だ。
七人の命を奪い、その痛みを芸術と嘯いた俺の、その果てしなく重い罪業の腐臭が、この最下層の番人を地の底から引きずり出したのだ。
鬼の節くれだった蜘蛛の脚の先端が、真っ赤に焼け焦げた極太の鉄鎖を握りしめている。
鎖からはジュウジュウと陽炎が立ち上り、周囲の空間を熱で歪ませている。
「あ……あ、あ、ああァァッ……!」
俺の口から、意志とは無関係に悲鳴が漏れた。
神だの、芸術だの、そんな虚飾のメッキが一瞬で剥がれ落ちる。
俺は、ただ弱い者を痛めつけることでしか自分の存在を保てなかった、惨めなクズだ。
自分よりも圧倒的に強く、一切の慈悲を持たず、言葉すら通じない『純粋な暴力』を前にして、俺の細胞のすべてが絶望に支配された。
鬼が、牛の頭蓋骨をわずかに傾け、俺を見下ろした。
そして、赤熱した鉄鎖が、ヒュオォォォッ! と空気を引き裂きながら、生き物のように俺の首へと向かって放たれた。
「やめろォォォォォォォォォッ!!」
生まれて初めて味わう「真の恐怖」に顔を醜く歪め、俺は喉が裂けるほどの絶叫を上げた。




