第6話:七つの結晶と引き換えに得た、果てなき浮遊地獄
死神が差し出した手に乗っていたのは、紙の束ではなかった。
それは、白く、奇妙な形をした小さな板状のものだった。
受け取って目を凝らすと、俺の背筋に微かな悪寒が走った。
それは、無数の『人間の歯』をパズルのように隙間なく並べ、接着剤のような粘液で固めて作られた、名刺大の薄い板だった。
前歯、犬歯、奥歯。様々な形と大きさの歯が、表面で奇妙な模様を描いている。歯の根元にはまだ赤黒い血肉が微かにこびりついており、それ自体が微かな熱を帯びて脈打っているように感じられた。
「……これが、チケットだと?」
「そうだ。それを持っていれば、君は次のステージへと『浮上』できる。光の世界か、それとも君の望む新たな舞台か……。それは君次第だ」
俺は七つの絶望の結晶を死神の掌に落とし、代わりにその歯のチケットをひったくるように奪い取った。
掌に伝わる、歯の硬質な感触と、生々しい熱。
だが、そんな気味の悪さよりも、俺の胸を満たしたのは圧倒的な『勝利への確信』だった。
ハハッ。
やはり俺の考えは正しかった。
この世界は、ただのゲームだ。罪だの罰だの、馬鹿げた倫理観に縛られている奴らが、あそこで一生小銭を擦り合わせていればいい。俺は俺の哲学と狡猾さで、この死神すらも出し抜き、特権を手に入れたのだ。
「悪いな、案内人。お前も退屈な仕事をしているようだが、俺は一足先に抜けさせてもらうぜ」
俺は歯のチケットを高く掲げ、周囲の顔のない亡霊たちを見下した。
「見ろ! 俺こそが勝者だ! 選ばれた人間なんだよ!」
俺の高笑いが、脈打つ肉壁に反響する。
ハァ……ハァ……という壁の呼吸音が、まるで俺の勝利を称える歓声のように聞こえた。
死神は、俺のその姿を静かに見つめていた。
両手をだらりと下げ、深々と被ったフードをわずかに持ち上げる。
その赤い双眸には、取引に応じた商人としての愛想の良さは微塵もなかった。
そこにあったのは、純粋な、そして底知れぬほどに残酷な『愉悦』の光だった。
死神の右目で止まっていた数字のスロットが、再び高速で回転し始める。ジジジジジッ、という電気的なノイズが脳を焦がす。
「……実に、いい取引だったよ」
死神が、ゆっくりと首を傾げた。
「君のような魂こそ、私がこの世界を管理する最大の娯楽だ」
その言葉の真意を測りかねた、まさにその瞬間だった。
——ゴリュッ。
俺の胃袋が、信じられないほどの力で内側から握り潰されたような、猛烈な吐き気が襲ってきた。
「……ッ!?」
咄嗟に口元を押さえるが、吐瀉物が出るわけではない。内臓全体が、喉の奥に向かって無理やり引き摺り上げられるような、物理的な方向の狂い。
周囲の景色が、ぐらりと傾いた。
いや、傾いたのは景色ではない。俺自身だ。
ふと下を見ると、俺の履いていた革靴の底が、黒い地面から数センチ、浮き上がっていた。
「な……んだ……?」
戸惑う暇もなかった。
フワリ、どころではない。
凄まじい引力が、俺の身体を『上』に向かって引っ張り始めたのだ。
「う、おおおおッ!?」
慌てて空中で手足をジタバタと動かすが、掴むものは何もない。
先程まで感じていた自らの体重が完全に消失し、まるで空気よりも軽いガス風船にでもなったかのように、俺の身体は薄暗い虚空へと急速に浮上していく。
ヒュッ……! ヒュルルルッ……!!
俺の足が虚しく空を蹴るたび、風切り音だけが耳元で虚しく鳴り響く。
「な、なんだこれは!? どういうことだ!!」
パニックに陥りながら、俺は眼下に遠ざかっていく死神に向かって絶叫した。
***
「教えてあげよう」
死神の声は、物理的な距離を無視して、俺の頭蓋骨の真ん中に直接響き渡った。
「この『境目』の物理法則は、君のいた現世とは少々異なる。現世では、重い罪を背負った者は地に沈み、地獄の底へと落ちていくと信じられているね?」
俺の身体は、肉壁の挟間を猛スピードで上昇し続ける。
ハァ、ハァと呼吸する壁の顔たちが、俺を嘲笑うように通り過ぎていく。
「だが、ここでは逆だ。他者の命を奪い、尊厳を踏みにじり、己の欲望のままに生きた重罪人……他者から奪うことでしか自分を満たせなかった『空っぽ』な魂ほど、その存在は限りなく軽くなる」
「違う! 俺は満たされていた! 俺は至高の芸術を……ッ!」
「だから、地に足をつけることすら許されない」
死神の冷酷な言葉が、俺の言い訳を完全に遮断した。
「重罪ほど、軽く浮遊し、永遠に地に足がつかなくなる。君が誇らしげに差し出したその『絶望の結晶』こそが、君の魂がいかに中身のない、浮ついた残骸であるかの証明だったのだよ」
「嘘だ! 騙したな、あのチケットは……!」
俺は必死に右手に握りしめた『人間の歯のチケット』を見た。
だが、そのチケットはもはやチケットの形を成していなかった。
ボロボロと崩れ落ちた人間の歯が、ただの砂となって指の隙間からサラサラと零れ落ちていく。
「脱出ゲーム? 救済? ククッ……」
下界から、死神の肩を震わせる笑い声が聞こえた。
「君のその滑稽なまでに肥大化した自尊心が、自ら重力を手放したのだ。君の行き着く先は光の世界ではない。己の罪の軽さに耐えきれず、どこまでも上へ、永遠の虚無へと放り出されるだけの旅だ」
ヒュウゥゥゥゥッ……!!
浮上の速度はさらに増していく。
もはや上下の感覚すら喪失し、三半規管が完全に狂い果てる。
周囲の赤紫色の肉壁が途切れ、その先には、果てのない真っ黒な空間だけが口を開けて待っていた。
何かに掴まろうと腕を伸ばすが、指先は空を切るだけ。
地に足がついていないということが、これほどまでに根源的な恐怖を引き起こすとは知らなかった。
自分の存在が、この宇宙から完全に切り離され、塵芥として捨てられる感覚。
七人の女を殺した時の全能感など、微塵も残っていなかった。ただ、果てしない落下――いや、上昇の恐怖に、俺は赤ん坊のように泣き叫ぶことしかできなかった。
「たすけて……助けてくれぇえええええッ!!」
完全に俺の姿が虚空の闇に吸い込まれようとした、その最後の瞬間。
鼓膜のすぐ裏側で、ぞっとするような甲高い声が聞こえた。
それは死神の声ではなかった。
俺が一番初めに路地裏で腹を裂いた、あの女の、泣き叫ぶような命乞いの声。
死神が、その女の声を寸分違わず真似て、ねっとりと囁いたのだ。
『——さようなら、可哀想な神様』
その嘲るような囁きを最後に、俺の意識は、果てのない真っ暗な浮遊地獄の中へと完全に飲み込まれていった。
耳に残るのは、自らの足が虚空を蹴り続ける、ヒュッ……ヒュッ……という、惨めで無意味な風切り音だけだった。




