第5話:影の市場 ~脈打つ肉壁と石膏の彫像~
舌を貫き、頭蓋骨の裏側まで達しようとしていたあの絶望的な氷の激痛は、暗転と共に嘘のように消え去っていた。
だが、口腔内には確かに、肉が削げ、血が凍りついた時の悍ましい幻痛だけがべっとりとこびりついている。俺は口の中に溜まった鉄錆の匂いのする唾液を吐き捨て、ゆっくりと顔を上げた。
先程までの、俺の尊厳をズタズタに引き裂いたあの『沈黙の図書館』の荘厳な冷気はない。
代わりに全身に纏わりついてきたのは、腐りかけた内臓の中に閉じ込められたような、ひどく生温かく、湿り気を帯びた重い空気だった。
「……ハァ……。……ハァ……」
暗闇の奥から、規則正しい喘鳴が聞こえてくる。
気管支に痰が絡んだ巨獣が、苦しげに息をしているような重低音。
その音は、俺を囲む四方の『壁』から発せられていた。
薄暗い赤紫色の光に照らされたその空間は、どこまでも続く巨大な路地裏のようだった。だが、建物を形成しているのはレンガでもコンクリートでもない。
それは、ブヨブヨと脈打つ赤黒い『肉』だった。
「……ハァ……。……ハァ……」
壁全体が、まるで巨大な肺臓のように膨張と収縮を繰り返している。その表面には血管のような青黒い管が網の目のように張り巡らされ、壁が息を吐き出すたびに、そこからねっとりとした粘液が滲み出していた。
さらに俺の視界を歪ませたのは、その肉壁の表面に無数に浮かび上がっている『顔』だった。
苦悶に歪み、声にならない悲鳴を上げる人間の顔が、レリーフのように壁と一体化し、蠢いている。彼らの口元がわずかに動くたび、粘り気のある囁き声が重なり合い、空間全体に不気味な残響を生み出していた。
「ここは、『影の市場』だ」
背後から、砂時計をひっくり返したようなサラ……サラ……という乾いた足音と共に、死神の冷たい声が響いた。
振り返ると、漆黒のローブを纏った死神が、身の丈ほどある大鎌を杖のように突いて立っていた。深いフードの奥で燃える赤い焔の双眸が、ひどく退屈そうに周囲の光景を舐め回している。
「魂たちが、自らの存在を削り合い、無意味な取引を続ける場所さ。……さあ、君もとっておきの『財産』を持っているのだろう?」
死神の言葉に促されるように視線を前へ向けると、薄暗い肉壁の狭間に、無数の人影が蠢いているのが見えた。
彼らには、明確な顔がなかった。目も鼻も口ものっぺりと削ぎ落とされた亡霊たちが、ボロ布を纏い、背中を丸めて何事かを熱心に交渉している。
チャリ……。ジャリ……。
耳障りな摩擦音が、あちこちから聞こえてきた。
それは硬貨が触れ合う音に似ていたが、もっと脆く、不快な音だった。ガラスの破片を擦り合わせているような、あるいは、人間の歯をすり潰しているような音。
目を凝らすと、亡霊たちの手の中にあるのは、くすんだ光を放つ奇妙な結晶体だった。
「己の寿命、感情、そして記憶……。生前に執着していたものを結晶化させ、互いに交換し合っているのさ」
死神が、俺の疑問に答えるように囁く。
「彼らは狂ったように取引を続ける。自分が手放したものの価値すら忘れ、ただ『何かを得た』という空虚な優越感に浸るためにね」
その時、近くで取引をしていた亡霊の一人が、甲高い声で叫んだ。
「違う! これは本物の愛の記憶だ! 騙していない!」
その瞬間だった。
ピキッ、と。
亡霊の足元から、白いひび割れが走った。
「あ……? 違う、俺は嘘など……!」
亡霊の言い訳は、最後まで続かなかった。足元から這い上がってきた真っ白な石灰の波が、一瞬にして亡霊の全身を飲み込んだのだ。
ボロボロの衣服も、のっぺらぼうの顔も、すべてが純白の石膏へと変質し、硬直し、完全に動きを止めた。
「ああ、言い忘れていたが」
死神が、銀糸のレース手袋で口元を覆いながらククッと嗤う。
「ここでは『嘘』をつくと体が石膏化する。己を偽り続けた魂が行き着く、見事な彫像だと思わないか?」
俺は沈黙のまま、その石膏像を見つめた。
なるほど。ここは地獄などではない。明確な『ルール』が存在する空間だ。
図書館での屈辱的な記憶は、俺の脳の奥底へ即座に押し込められた。俺の狡猾な頭脳は、この異常な状況を瞬時に分析し、一つの結論を弾き出していた。
(これは、ゲームだ)
そうだ。神も裁きも存在しない。ここは単なる、ルールが特殊なだけのゲーム盤だ。
この世界の法則を見抜き、適切な『対価』を支払えば、あの漆黒のローブを纏った案内人を出し抜き、光の射す現世、あるいはそれに等しい場所へ抜け出せるはずだ。
凡人どもには不可能だろう。だが、選ばれた存在である俺には、そのための『最強の手札』がある。
***
俺は自身の胸の奥深くに意識を沈めた。
すると、手のひらの中に、ひんやりとした重みを感じた。
視線を落とす。そこには、七つの歪な形をした結晶体が握られていた。
それぞれが、赤黒く、あるいは毒々しい青緑色に発光し、脈を打っている。
これこそが、俺が生前に被害者たちから奪い取った『絶望の瞬間の記憶』だ。
ただの記憶ではない。
路地裏でナイフを突きつけられた時の、瞳孔が極限まで見開かれたあの女の顔。
命乞いをしながら、自らの血の温かさに絶望していく過程。
尊厳を完全に破壊され、肉の塊へと変わっていく瞬間の、この世で最も美しい芸術的瞬間。
俺はその一つを指先で摘み上げ、うっとりと眺めた。
市場の亡霊たちが取引しているような、愛だの未練だのというくだらない、濁った結晶とはわけが違う。俺の作品は、純度百パーセントの恐怖と絶望でできている。これほどの『価値』を持つ貨幣は、この市場のどこを探しても存在しないだろう。
ハァ……。ハァ……。
周囲の肉壁が、俺の手の中にある結晶の放つ瘴気に反応したのか、ひときわ大きく喘鳴を漏らした。
壁に浮かぶ無数の顔たちが、俺の手元を見て狂おしいほどに顔を歪め、よだれを垂らすような不快な摩擦音を立てている。
俺は口元を歪め、確信に満ちた笑みを浮かべた。
勝てる。
この狂った世界を管理しているらしい、あの生意気な死神すらも、俺のこの『極上の対価』の前にはひれ伏すはずだ。
「おい、案内人」
俺は振り返り、死神を真っ直ぐに見据えた。
「お前たちも、結局は取引で動いているんだろう? このくだらない市場を管理しているのも、対価を回収するためだ」
俺の声は、以前の自信を取り戻し、傲慢に響いていた。
死神は大鎌の柄に寄りかかったまま、フードの奥の赤い双眸を細めた。
右目で高速回転していた数字の羅列が、ピタリと止まる。
「……ほう? 君は、私と取引をしたいと?」
「そうだ。俺はこの掃き溜めのような場所に長居するつもりはない。俺のような優れた頭脳と芸術性を持つ人間は、もっと相応しいステージに行くべきだ。光の世界へ抜けるための『救済チケット』……お前がこっそり密売していることは、推測がついている」
俺の言葉に、周囲の亡霊たちがピタリと動きを止めた。
チャリ、ジャリという硬貨の擦れ音が消え、肉壁のハァハァという重い呼吸音だけが、空間に不気味に響き渡る。
「……面白いねぇ」
死神が、骨の擦れ合うような低い声で喉を鳴らした。
「確かに、私は抜け道のチケットを持っている。だが、それを得るためには、君自身の魂の最も重い部分、存在の根幹を支払う必要があるが?」
「これを見ろ」
俺は両手を広げ、七つの絶望の結晶を死神の目の前に突き出した。
結晶はドクドクと不気味に脈打ちながら、周囲の薄暗い空気を赤黒く染め上げている。
「俺が創り上げた、至高の芸術だ。ただの未練や後悔なんかじゃない。他者の命を完全に支配し、蹂躙した瞬間の、純度百パーセントの魂の輝きだ。これ以上の『価値』がこの世界にあるか?」
俺は全く嘘をついていなかった。
これは俺にとって、何よりも誇るべき偉業であり、最大の資産だったからだ。
だからこそ、俺の足元から石灰化の波が這い上がってくることはなかった。俺の自己正当化は、狂気の領域で完全に真実として成立していた。
死神はゆっくりと近づき、顔を近づけてその結晶を見つめた。
フードの奥で、赤い焔がチロチロと揺れる。
「……他者の絶望を、己の存在価値の証明として差し出すか。しかも、微塵の罪悪感もなしに」
死神の口調は、ひどく弾んでいた。まるで、何百年ぶりに極上の見世物を見つけた観客のように。
「いいだろう」
死神は、銀糸の手袋に包まれた手を懐へと差し入れた。
「君のその『驕り』と『残酷さ』の結晶、確かに受け取ろう。それに見合うだけの、特等席へのチケットを君にやろう」




