第4話:氷の棘 ~嘘が口内を内側から引き裂く~
俺のすべてが否定されていた。
俺が人生を懸けて築き上げた「神」としての自己像が、ただの「惨めな劣等感の塊」として、血のインクで曝け出されている。
受け入れられるはずがなかった。
俺が、あの凡人どもと同じか、それ以下の存在だと言うのか?
女どもに怯え、虚勢を張り、弱い者を見つけては刃物で切り刻むことでしか勃起すらできない、哀れな去勢者だと?
「認めない……絶対に認めないぞ!!」
黒曜石の床に、俺の絶叫が反響した。
全身の血が沸騰し、視界が真っ赤に染まる。自尊心を粉々にされた怒りが、恐怖と屈辱を完全に塗りつぶしていた。
俺は、眼前の虚空に向けて、いや、この世界のすべてに向けて吠えた。
「違う! 俺は神の代行者として奴らを救済したんだ! 俺の行いは、至高の芸術だァァッ!」
怒号を張り上げた、まさにその瞬間だった。
――ピタリ、と。
空間のすべての音が、死滅した。
床を這う霧のシュルシュルという音も、頭上のバサバサという紙の音も、数字の鎖が鳴るジャラジャラという音も。
完全なる、真空のような無音。
鼓膜が内側から押し破られそうになるほどの、重く、圧迫感のある沈黙。
その無音の底で。
パキリ。
口の奥深く、舌の裏側の付け根のあたりで、微かに霜が張るような硬質な音が鳴った。
なんだ?
違和感を覚える間もなかった。次の瞬間、圧倒的で暴力的な冷気が、口腔内のすべてを支配した。
パキパキパキッ!
急激な温度低下によって、口の中の水分が瞬時に凍結していく音。
そして。
ズブッ……! グチュ……ッ!
「あ……? ぐ……ぁ……ッ!?」
舌の裏側の肉が、内側から強引に引き裂かれた。
鋭利な何かが、柔らかい舌の筋肉と神経の束をすり潰しながら、口蓋へ向かって突き出してきたのだ。
それは、透明で、残酷なほどに鋭い『氷の棘』だった。
「が……あァァァァ……ッ!」
言葉にならない絶叫が漏れる。
だが、痛みに耐えかねて口を大きく開け、呼気を吐き出したことが、さらなる引き金となった。
『嘘』と『自己欺瞞』を吐き出し続ける限り、この罰は終わらない。
メキメキ……ッ! グチュ、ジュルッ。
氷の棘は、俺の悲鳴を養分にするかのように瞬時に枝分かれし、恐ろしい速度で増殖を始めた。
太い氷の柱が舌を完全に貫通し、上顎の肉に深々と突き刺さる。
「ご、ぼ……ッ!」
口から溢れ出した鮮血が、凍りつく暇もなく黒曜石の床へとボトボトと粘り気のある音を立てて落ちていく。
痛い。痛い痛い痛い痛い痛いッ!!
これまでの人生で味わったことのない、脳髄を直接バーナーで焼かれているかのような、狂おしいほどの激痛。
俺が女どもの腹を割いたとき、奴らはこんな痛みを感じていたというのか?
いや、違う、俺の芸術はもっと崇高で……。
その、無意識の自己正当化の思考が頭をよぎった瞬間だった。
ジョリ……ッ!
氷の棘がさらに鋭く、長く成長し、俺の頬の内側の肉を削り取りながら、唇を突き破って外の世界へと顔を出した。
「あ……う、あ……」
口を閉じることも、言葉を発することもできない。
突き出した氷の表面を、俺自身の血と、粘度の高い唾液が赤く染めながら滴り落ちる。
呼吸をするたびに、氷の刃が口腔内の肉を削り取る「ジョリ……ジョリ……」という悍ましい音が、頭蓋骨の内部で直接鳴り響く。
内側から顔面を破壊される恐怖と、絶え間ない激痛に、俺の自我は音を立てて崩壊し始めていた。
***
俺は痛みに耐えきれず、膝から崩れ落ちた。
黒曜石の極寒の床に手をつき、四つん這いになりながら、血と涎と胃液を撒き散らす。
鏡のような漆黒の床に、俺の口から滴る血が、赤い斑点となっていくつも咲いていく。
口の中は無数の氷の刃で埋め尽くされ、俺の舌はもはや原型を留めないほどにズタズタの挽肉と化していた。
息を吸おうとするだけで、氷結するような痛みが喉の奥から肺へと駆け抜け、全身の神経を痙攣させる。
ヒュー……ヒュー……。
氷の隙間から漏れ出る、自分の惨めで情けない呼吸音だけが、やけに大きく耳に届いた。
視界が涙と苦痛でドロドロに歪む中、俺の目の前に、黒い影がゆっくりと近づいてくる。
サラ……サラ……。
砂時計の足音。
死神だ。
奴は、四つん這いで血の池に這いつくばる俺を、ただ静かに見下ろしている。
その手元、身の丈を超える黒い大鎌の刃から、無慈悲に、そして規則正しく時間の砂がこぼれ落ちている。
ザザ……ザザ……。
砂が空中に溶けていくその音が、俺という存在の価値が、一秒ごとに削り取られ、無に帰していく音のように聞こえた。
死神の白骨の右手が、ローブの袖口からゆっくりと持ち上がる。
骨だけの無機質な指先に、突如として、銀糸で編み込まれた精緻なレース模様の手袋が、フワリと蜃気楼のように出現して肉を覆った。
それは、ひどく優雅で、あまりにも人間臭い、劇場の観客のような仕草だった。
死神は、その銀糸の手袋でそっと自身のフードの口元を覆う。
赤い焔の双眸が、歓喜に打ち震えるように三日月型に細められた。
「……ククッ」
肩を震わせ、影の奥から、歪みきった愉悦の嗤い声が漏れた。
「美しいねぇ」
死神の甘く、そして氷のように冷たい言葉が、引き裂かれた俺の脳髄に直接突き刺さる。
「自らを神と嘯き、他者の命を奪うことでしか己の輪郭を保てなかった。その実、誰よりも他者の目に怯え、拒絶を恐れていた。その肥大化しきった見苦しい劣等感が、今、お前のその口を、お前自身の嘘で塞いでいる」
「が……あ……ぁ……っ……」
抗議しようと喉を鳴らすが、声帯は血の池に沈み、舌は氷の彫刻に貫かれ、ただ無様な血の泡を吹くことしかできない。
「見事だよ、桐生崇。お前の今のその姿……」
死神は、芝居がかった手つきで、床を這いずる俺を指差した。
「まるで、劣等感が極彩色のドレスを着て、自らの血の海でワルツを踊っているようだ」
頭上で、再びバサバサバサッと巨大な本が捲られる音が鳴り響く。
周囲の液体金属の本棚が、俺の醜態を嘲笑うかのようにグニャグニャと激しく波打ち、空をうねる数字の鎖がジャラジャラと狂ったようにうねり始めた。
俺は、自分がこの世界の王でも、神でも、至高の芸術家でもないことを、細胞の隅々まで徹底的に思い知らされていた。
ただの、みすぼらしい、滑稽な、嘘で塗り固められた痛みに這いつくばるだけの肉の塊。
口内を貫く氷の暴力的な冷たさと、絶え間なく滴る血の生温かさ。
床を這う霧のシュルシュルという音に混じって、死神のくぐもった嗤い声が、永遠に続くかのように『沈黙の図書館』の空間全体に反響し続けていた。




