第3話:『沈黙の図書館』と、血のインクで綴られる人生の原稿
狂ったように明滅を繰り返していた過飽和なネオンピンクと毒々しいイエローの迷宮が、唐突に背後でシャッターを下ろすように消え去った。
弾け飛ぶような光の残像が網膜から引き剥がされると同時に、むせ返るような冷気が俺の全身を包み込んだ。
足元に広がるのは、磨き上げられた巨大な黒曜石の床だった。果てしなく続くその漆黒の鏡面には、俺自身の姿がくっきりと、ひどくちっぽけな染みのように映り込んでいる。
「……ここは、なんだ」
呟いた声は、空気を震わせる前に冷たい闇へと吸い込まれ、一切の反響を持たなかった。
足を踏み出す。カツン、という硬質な音が響くべきはずが、靴底からは何の音もしない。代わりに、俺の鼓膜を撫で上げるように奇妙な音が這い上がってきた。
シュルシュル……シュルシュル……。
視線を落とすと、黒曜石の床を舐めるように、乳白色の霧が生き物のような意思を持って這い回っていた。霧の束が交差し、絡み合い、まるで無数の白い蛇が床一面を這いずり回っているかのような、不快な摩擦音。
それが俺の足首にまとわりつくたび、氷水に浸されたような錯覚を覚え、思わず身震いした。
――バサ……バサバサバサッ!
唐突に、頭上遥か高みから、巨大な鳥が羽ばたくような乾いた音が降ってきた。
見上げると、そこには天井など存在しなかった。果てのない虚空に向かって、液体金属のようにドロドロと波打つ巨大な本棚の塔が、螺旋を描きながら無数に伸びている。
鉛色のスライムのような本棚の表面には、書物とも呼べない四角い塊が埋没しては浮上し、そのたびに、見えない巨大な手が乱暴にページを捲るような「バサバサ」という音が、空間のあちこちで連続して鳴り響いている。
さらにその上空、乳白色の霧よりはるか高い漆黒の空間を、青白い蛍光を放つ無数の数字が、重たい鎖となって蛇行していた。
ジャラ……ジャララ……。
数式でもない、ただの羅列。それが金属の鎖が擦れ合うような冷徹な音を立てて、空中で交差しては解け、終わりのない渦を巻いている。
「ようこそ、『沈黙の図書館』へ」
数歩先を歩いていた漆黒のローブが、振り返らずに言った。
深淵そのものを切り取ったかのようなそのローブの裾は、黒曜石の床に触れることなくわずかに浮遊している。
だが、奇妙なことに、死神が一歩を踏み出すたびに、靴底から鳴るべき物理的な足音ではなく、サラ……サラ……という、砂時計をひっくり返したような乾いた砂の落ちる音が、俺の三半規管を直接揺さぶってきた。
シュルシュルと這う霧の音、バサバサと捲られる紙の羽ばたき、空を蠢く数字の鎖のジャラジャラという冷たい残響。そして、死神の刻むサラサラという砂時計の足音。
それらすべてが不協和音となって重なり合い、俺の心臓の鼓動を、ドクン、ドクン、と不快なほどに早めていく。
俺は桐生崇。七人の女どもを間引き、この世に真の美をもたらした至高の芸術家であり、選ばれた人間だ。
あの極彩色の狂った空間から、この静謐で荘厳な――そしてどこか気味が悪い――場所へ案内されたということは、やはり俺の「偉業」が正当に評価されるプロセスなのだろう。
そうに違いない。神も裁きも存在しないのなら、俺の知能と哲学がこの世界でも絶対であるはずだ。
「ここは、魂が自らの輪郭を確かめるための場所だ」
死神が、宙に浮いたまま斜めに立てかけた大鎌に寄りかかるようにして、ひどく退屈そうに首を傾げた。フードの奥で燃える赤い焔の双眸のうち、右目でスロットのように回転する夥しい桁の数字が、ジジジ……と微かな機械音を立てている。
「君のような『選ばれし者』の、その輝かしい軌跡を鑑賞させてもらおうじゃないか」
その言葉には、明らかな嘲笑の色が混じっていた。
だが、俺の肥大化した自尊心は、それを「賞賛の前の前戯」だと都合よく解釈していた。
***
霧が渦を巻きながら道を空けた空間の中央に、ぽつんと、異物のようにそれが置かれていた。
豪奢な真鍮の装飾が施された、巨大な書見台。
その上には、分厚く束ねられた古びた羊皮紙の束が鎮座している。
「君の、人生の原稿だ」
死神の白骨の指先が、それを指し示す。
近づくにつれ、羊皮紙から漂ってくる匂いが鼻腔を突いた。古い紙の埃っぽい匂いではない。鉄錆と、腐敗しきっていない生肉の匂い。血の匂いだ。
俺は書見台の前に立ち、原稿に目を落とした。
そこには、俺の人生のすべてが克明に記されていた。幼少期の記憶、見下してきた同級生たちの顔、そして何より――俺が「芸術」と呼んだ、あの七つの偉業の記録。
『第一の作品。深夜の路地裏。怯える女の瞳に映る絶望の美しさ。桐生崇のナイフは、彼女の凡庸な肉体を切り裂き、永遠の芸術へと昇華させた』
その一文を読んだ瞬間、俺の胸に誇らしい高揚感が込み上げた。
そうだ。俺はただの殺人鬼ではない。美の探求者であり、神の代行者だった。
女どもは俺に感謝すべきなのだ。あんな薄汚い日常の中で朽ち果てるより、俺のナイフによって完璧な死を与えられたのだから。
しかし。
次の行へ視線を移そうとした瞬間、紙面を走っていた漆黒の文字が、ジワジワと赤黒く変色し始めた。
プツ……プツ……。
まるでインクが煮え滾っているかのような小さな破裂音が、耳元で鳴った。
なんだ、これは?
俺が怪訝に思い顔を近づけた瞬間、原稿の文字が生き物のように蠢き、分解され、別の言葉へと組み替わっていく。
赤いインクはまるで新鮮な血のように生々しく滲み、羊皮紙の繊維を赤く染め上げていった。
『偉大なる救済』という言葉が、溶けるように消える。
そして、その上に血のインクで新たな文字が自動的に刻まれていく。カリカリカリッ、という見えないペンの音が、頭蓋骨の裏側を引っ掻く。
『女に拒絶されることへの、底知れぬ恐怖』
は? なんだこれは。俺が? 恐怖だと?
息を呑む俺の目の前で、書き換えはさらに加速していく。
『第一の被害者。彼女のすれ違いざまの無関心な眼差しに、桐生崇は自らの男根の矮小さを突きつけられたと感じた。彼女の美しさを破壊することでしか、自身の惨めな劣等感を埋め合わせることはできなかった』
「ふざけるなッ!」
俺は怒声と共に、原稿を力任せに払い落とそうと腕を振るった。
だが、俺の指先は空気を撫でるように羊皮紙をすり抜け、触れることすらできない。物理的な干渉が不可能なのだ。
バサバサバサバサッ!!
頭上遥か高みで、巨大な本が捲られる音が暴風のように激しさを増した。俺の動揺と怒りに呼応しているかのように。
原稿の書き換えは止まらない。血のインクは次々と、俺が脳の最奥に厳重に鍵をかけて封印していた、汚泥のような本音と醜悪な真実を暴き出していく。
『神の代行者という妄想は、自らを特別だと思い込まなければ発狂してしまう、脆弱な精神の防衛機制に過ぎない。彼の殺人は芸術などではなく、母親からすら愛されなかった惨めな少年の、滑稽で血生臭い癇癪である』
「違う……違う! 俺は、俺は選ばれた存在だ! 奴らは俺を見下していた! だから罰を与えてやったんだ!」
言葉にすればするほど、それが「矮小な八つ当たり」であったことを自白しているようなものだった。
周囲を囲む液体金属の本棚が、俺の醜態を嘲笑うかのようにグニャグニャと形を歪ませる。
ジャラララッ! と空をうねる数字の鎖が、耳障りな不協和音を立てて渦を巻いた。
「……実に美しい筆致だ。無意識の底では、君は自分がいかに空っぽでちっぽけな存在か、これほど正確にスケッチしていたんだね」
背後から、死神の声が響いた。
振り向くと、死神は大鎌の柄に顎を乗せ、赤い焔の目を細めていた。大鎌の刃から、サラサラとこぼれ落ちる時間の砂。その音が、俺の命と自尊心が削り取られていくカウントダウンのように聞こえた。




