第2話:砂時計の足音と、退屈を纏う死神
「サラ……サラ……」
不意に。
俺の狂騒を、冷や水で断ち切るような異音が、背後から鼓膜を打った。
足音だ。
だが、靴底が地面を叩く音ではない。
それはまるで、巨大な砂時計がひっくり返り、細かなガラスの砂が滑り落ちるような、乾ききった、そして極めて規則的な音だった。
「サラ……サラ……」
一歩近づくごとに、周囲の空気が急速に冷えていく。
溶けたプラスチックの悪臭が消え、代わりに、星の死骸を嗅がされているような、絶対零度の虚無の匂いが漂い始めた。
俺は笑いを止め、ゆっくりと振り返った。
過飽和なネオンピンクの視界のど真ん中に、それは『空いた穴』のように存在していた。
黒。
ただの黒ではない。光そのものを吸い込み、決して反射しない、深い漆黒のローブ。
その表面には、宇宙空間の星屑のように、銀色の微小な粒子が明滅しながら流れている。
ローブが動くたびに、空間そのものがそこだけ切り取られたような錯覚を覚えた。
足元は液状化した地面のはずなのに、その存在は全く沈み込んでいない。
「サラ……サラ……」と音を立てながら、水面を滑るようにこちらへ向かってくる。
身長は、俺より頭二つ分は高い。
深く被られたフードの奥には、顔と呼べるものは存在しなかった。
ただ、果てしなく続く暗黒の深淵があるだけ。
しかし、その深淵の中に、二つの『眼』が浮かんでいた。
ゴォォォォッ……。
それは、真っ赤に燃え盛る焔だった。
ただの炎ではない。右の瞳の炎の中には、無数の『数字』が浮かび上がっている。
0から9までのアラビア数字が、まるで狂ったスロットマシンのように、目にも留まらぬ超高速で回転し続けているのだ。
カシャカシャカシャカシャ、という微かな機械音が、炎の奥から聞こえてくる。
そして、左の瞳。
そこにあるのは、冷酷なデジタル表示の『タイマー』だった。
赤き焔の中で、ただひたすらにカウントダウンを刻み続ける数字。
時折、その数字の羅列がバチッと火花を散らし、空間に一瞬の歪みを生み出している。
「お前は……誰だ」
俺の喉から、掠れた声が出た。
恐怖ではない。これは、未知の現象に対する純粋な警戒だ。
俺の優れた脳が、目の前の存在を「人間ではない何か」と即座に判定し、警鐘を鳴らしている。
影は答えない。
代わりに、右のローブの袖口から、何かが滑り出た。
刃渡りだけで2メートルはあろうかという、巨大な大鎌。
その刃は、周囲の極彩色を反射せず、どす黒い錆と、凝固した血のような赤黒い斑点に覆われている。
しかし最も異様なのは、その刃の表面から、まるで霧のように、さらさらと銀色の『砂』が零れ落ち続けていることだった。
床に落ちた砂は、プラスチックの泥に触れる前に、スッと虚空に溶けて消えていく。
ローブの影は、その巨大な鎌の柄を、無造作に放り出した。
ガチンッ。
あり得ない音がした。
鎌は地面に落ちることはなく、虚空の何もない空間に、斜め45度の角度で突き刺さったのだ。
物理法則など最初から存在しないと言わんばかりに、巨大な質量を持つはずの鎌が、空中に固定されている。
そして、影の手が、フードの縁に添えられた。
生々しい肉色をした、人間の指先。
しかし、その指の先から続くのは、肉の一切ない、真っ白な白骨の手の甲だった。
不気味な骨と肉のキメラの手が、ゆっくりと下ろされる。
同時に、影の足元から音が鳴った。
***
——コン。
白骨の指先で、自らの見えない靴底を叩くような、乾いた音。
その音が響いた瞬間。
周囲で五秒ごとに崩壊と再構築を繰り返していた空間のノイズが、ピタリと止まった。
うごめいていた壁も、燻る手形の煙も、すべてが一時停止のボタンを押されたかのように、完全に静止したのだ。
静寂。
絞首台で感じたものより、さらに深く、重い、絶対的な沈黙の重圧。
俺の鼓膜を打つのは、空中に固定された大鎌の刃から零れ落ちる「サラ……サラ……」という時間の砂の音と。
目の前の影の、左目のタイマーが時を刻む、無機質な鼓動だけ。
『…………』
影は、俺を見下ろしていた。
燃える双眸が、俺の全身を舐め回すように観察している。
右目の高速回転するスロットの数字が、俺と目が合った瞬間、ピタリと停止した。
「999999——」
夥しい桁のカンストしたような数字が、赤黒い炎の中で固定される。
そして、フードの奥の深淵から、声が響いた。
『……あぁ。また、このパターンか』
それは、予想を裏切るほどに、滑らかで、知性を感じさせる声だった。
だが、その声の底には、泥沼のように深く、重い『倦怠感』がへばりついていた。
怒りでも、憎しみでも、神聖なる裁きの意志でもない。
ただひたすらに、永遠の時間を生きる者が抱える、圧倒的な退屈。
『神に勝った、システムのバグを突いた……。君たちのような"自称・天才"の魂がここに落ちてくると、判で押したように同じセリフを吐く。君で、ちょうど四万二千百十二人目だよ。桐生、崇くん』
「……お前、俺の名を」
『右目を見ろ。君の罪業の数値だ。君が自分を神の代行者だと信じ込もうが、ただの劣等感の塊だろうが、そんなことは私の知ったことではない。だが、この数字が示している通り、君の魂は酷く重く、そして……ひどく、ありふれている』
ありふれている、だと?
俺のプライドの最も脆い部分を、その声は残酷なほど正確に抉り取った。
「ふざけるなッ! 俺をその辺の雑魚どもと一緒にするな! 俺は完全犯罪を成し遂げ……」
『成し遂げて、今、死刑になってここにいるわけだが?』
死神は、空中に固定された大鎌の柄に、気怠げに寄りかかった。
物理法則を無視したその姿勢のまま、白骨と肉が混ざり合った指先で、トントン、と自らのこめかみあたりを叩く。
『ここはね、「境目」だ。天国でも地獄でもない。君のような、強い執着と肥大化した自意識を持った魂が、自分の未練を風景として出力してしまう、ただの仮置き場。「執着区画」と呼ばれる、ひどく趣味の悪い場所さ。君の足元のその安っぽいプラスチックの色も、壁の女の手形も、すべて君自身の脳みその中身が垂れ流しになっているだけだ。見苦しいことこの上ない』
「俺の、中身……?」
『そう。君が心の底で、女たちを安いプラスチックの玩具程度にしか思っていなかった証拠。そして同時に、その玩具にすら怯え、足元をすくわれることを恐れている証拠だ』
死神は、ふう、と大げさにため息をついた。
その息は白い冷気となって極彩色の空間に広がり、触れたそばからプラスチックの壁を凍りつかせていく。
パキパキと、空間が凍てつく音が響く。
『さて、業務だ。私は君を裁きはしない。そんな面倒なことは私の仕事じゃない。私の仕事は、君のような退屈な魂が、自分自身の矛盾と向き合い、壊れていく様を観察すること……いや、君たちを三途の川へ叩き落とすことだ』
死神の左目のタイマーが、チカチカと点滅を始めた。
右目のスロットが再び高速回転を始め、赤い炎がフードから溢れ出しそうに燃え盛る。
『さあ、桐生くん。君の卓越した知能とやらで、この永遠の退屈から、私を少しでも楽しませてくれるかい?』
死神が、骨の指をパチンと鳴らした。
その音を合図に、静止していた極彩色の空間が、鼓膜を破るような轟音と共に、一斉に崩壊を始めた。




