第1話:絞首台の落下と、極彩色の目覚め
自らを「神」と嘯き、他者の命を弄んだ連続殺人鬼。
彼が死刑執行の果てに堕ちたのは、天国でも地獄でもない、死神が管理する奇妙な『境目』でした。
肥大化したプライドと狂気が、絶対的なルールの前でどのように砕け散っていくのか——。
少しばかりダークで理不尽な、死後の世界へのご案内です。
「——それでは、執行に移行する」
どこか遠くで、事務的な声が響いた。
マイクを通したようなくぐもった音声が、灰色のコンクリート壁に吸い込まれていく。
コツ、コツ、コツ。
看守たちの硬い革靴の音が、背後で規則的に鳴っている。
俺の両脇を固める屈強な男たちの、荒く、緊張を孕んだ呼吸音が耳障りだった。
彼らの心拍数が上がっているのが匂いでわかる。馬鹿げている。これから死ぬのは俺なのに、なぜ殺す側の人間が怯えているのだ。
俺の足元は、分厚い布で覆われている。
目隠しをされ、手錠と拘束具で完全に自由を奪われた身体。
それでも、足の裏に伝わる踏み板の感触だけは、異常なほど鮮明だった。
冷たく、滑らかな金属の継ぎ目。これが、生と死を隔てる境界線。
「主よ、この者の魂に憐れみを……」
教誨師の震える声が、うわ言のように頭上から降り注ぐ。
カサカサと聖書のページをめくる乾いた音がした。
俺は目隠しの裏側で、音を立てずに嗤った。
憐れみ? 魂?
そんなものは存在しない。
俺がこの手で解体してきた七人の女たち。彼女らが絶望の淵で神に祈る姿を、俺は特等席で見てきた。
祈りは届かない。奇跡は起きない。
肉体はただの物質であり、生命は電気信号の明滅に過ぎない。俺の極めて優れた知能と論理が、それを証明し尽くした。
ザリッ。
硬く編み込まれた麻縄の輪が、頭から被せられる。
太く、ごわついた繊維が、頸動脈の上の薄い皮膚を無遠慮に擦った。
耳のすぐ下、頸椎の隙間に、巨大な結び目がピタリと収まる。
看守の震える指先が俺のうなじに触れ、慌てて引っ込められる気配がした。
静寂。
いや、完全な静寂ではない。
空調の低い唸り。誰かが無意識に唾を飲み込む「ゴクリ」という水音。
そして、俺自身の胸の奥で、ドクン、ドクンと、やけに正確なリズムを刻む心臓の鼓動。
恐怖はない。あるのは、この凡庸な儀式に対する果てしない退屈だけだ。
社会という名の愚鈍なシステムが、俺という規格外の存在を処理しきれず、物理的な破壊によって無かったことにしようとしている。それこそが、俺の知能が彼らを凌駕したという何よりの証左ではないか。
俺は息を深く吸い込んだ。
拘置所特有の、埃と消毒液が混ざった無機質な匂い。
これが、現世で最後に味わう空気だ。
その直後だった。
——ガコンッ!!!!
爆発音のような重低音が、足元から全身の骨格を突き抜けた。
重力を支えていた床が、世界そのものが裏返るように、完全に消失する。
胃袋が喉元までせり上がる強烈な浮遊感。
空気を掻き抱こうとする本能。
だが、落下は一瞬で終わった。
——メキッ、ゴキャァッ。
自らの体内から響き渡る、生々しい破裂音。
頭蓋骨と頸椎が強制的に引き剥がされ、太い神経の束がブチブチと千切れる絶叫のような音響。
激痛を感じる暇さえなかった。
首への凄まじい衝撃が脳を激しく揺さぶり、意識という名のヒューズが瞬時に焼き切れた。
光も、音も、重力も。
すべてが、ぷつりと途絶えた。
***
完全なる無。
それは、温度すら存在しない、絶対的な暗黒の空間だった。
俺は思考の海を漂っていた。
肉体という重い檻から解放され、純粋な意識体となったような感覚。
「やはりな」
声帯を持たない俺の意識が、暗闇の中で自嘲する。
地獄の業火に焼かれることも、血の池に沈められることもない。
宗教が説くような陳腐な死後の世界など存在しなかったのだ。
俺はただ、大いなる無へと還元されていく。物質的な死とは、意識の完全な消滅ではなく、このような情報空間への移行に過ぎなかったのだ。
俺の仮説は正しかった。俺の勝利だ。
そう確信した、次の瞬間。
——ジジジ……ジジ、ジジジジッ。
鼓膜の裏側、脳髄のど真ん中から、耳障りなノイズが滲み出してきた。
寿命を迎える寸前の、狂った蛍光灯が発するような低周波の電気音。
それは無音の空間に亀裂を入れ、寄生虫のように這い回り、俺の意識を強制的に揺さぶり起こそうとしていた。
「なんだ……?」
暗闇に、ヒビが入る。
そこから漏れ出したのは、光。
いや、光と呼ぶにはあまりにも暴力的で、おぞましい『色彩』だった。
視界が、内側から弾け飛んだ。
「ぐっ、あああああッ!」
失われたはずの眼球が、網膜が、焼かれるような激痛に悲鳴を上げる。
暗闇に慣れきった意識に叩き込まれたのは、過飽和なネオンピンクと、毒々しいイエロー。
二つの原色が、油膜のようにドロドロと混ざり合い、渦を巻きながら無限に広がっている。
「なんだ、ここは……ッ!」
視覚だけではない。触覚が、嗅覚が、急激な速度で再構築されていく。
足の裏に、べっとりとした不快な感触があった。
見下ろすと、そこは地面ではなかった。
熱でドロドロに溶け、半ば液状化したプラスチックの海だ。蛍光ピンクの泥沼のようなそれに、俺の靴が踝まで沈み込んでいる。
鼻腔を突くのは、化学物質が焦げたような、ツンとした合成樹脂の悪臭。
空気が重く、ひどく湿っている。息を吸い込むたびに、肺の中にピンク色の粘液がへばりつくような錯覚を覚えた。
顔を上げる。
周囲は、迷宮のように入り組んだ壁で覆われていた。
壁もまた、黄色とピンクが混ざった溶けたプラスチックのような質感で、脈打つようにゆっくりと蠕動している。
その時だった。
ザザッ……バリッ。
空間全体が、突如として激しくノイズを走らせた。
目の前で脈打っていた壁が、地面が、空が。
数万の粗い四角形、ピクセルのモザイク状にパキパキと砕け散ったのだ。
極彩色のブロックが宙に浮き、無秩序に回転し、そして——。
ズォン。
たった今とは微妙に異なる配置で、再びドロドロの壁と地面として再構築された。
「……は?」
俺は己の目を疑った。
だが、現象は一度きりではなかった。
五秒。
心の中で五つ数えるたびに、空間は「ザザッ」という不快なノイズと共にモザイク状に崩壊し、再び歪な形で再構築される。
まるで、処理能力の限界を超えてバグを起こし続けている、出来損ないの仮想現実(VR)空間に放り込まれたかのようだった。
「ふ、ふざけるな……」
俺は溶けた地面から足を引っこ抜き、よろめきながら壁に近づいた。
再構築を繰り返すその壁の表面に、何かがある。
「これは……」
壁の奥底に、無数の『手形』が埋まっていた。
苦悶に指を曲げ、壁を内側から突き破ろうとしているかのような、生々しい人間の手形。
それらは一つ残らず真っ黒に焦げ付いており、指先からジリジリと黒い煙を上げて燻っている。
「シュー……シュー……」
手形から立ち昇る煙が、怨嗟の囁きのような音を立てている。
俺は一歩、後ずさった。
その手形は、やけに小さく、華奢だった。
女の手だ。
脳裏に、俺が絞め殺した七人目の女の顔がフラッシュバックした。
命乞いをし、泣き叫び、最後は俺の腕を力任せに掻き毟った、あの惨めな指先。
「……あはっ」
俺の口から、渇いた笑みが漏れた。
「あははははっ! なんだこれは! 幻覚か? 脳の死滅に伴う、最後の夢か!」
俺は両手を広げ、狂いかけた空に向かって叫んだ。
モザイク状に砕けては戻るネオンカラーの空に向けて。
「やはり、裁きなど存在しない! 針の山も、エンマ大王もいない! あるのはこの、バグったプログラムのようなガラクタの空間だけだ! 俺は勝った! 神に、社会に、倫理という名の妄想に、俺の知性が打ち勝ったんだッ!!」
俺の高笑いが、溶けたプラスチックの迷宮に反響する。
自身の卓越した論理が証明された歓喜。罪悪感など微塵もない。あるのは、凡人どもを見下す圧倒的な優越感だけだった。
俺の笑い声は、燻る手形の煙を散らし、極彩色の空間を支配した。
——かに思えた。




