第8話:因果応報の『複式簿記』――死神の指先で潰される、遅すぎた悔恨の肉腫
バサッ。
ページが捲られた瞬間、空気の質が変わった。
じめじめとした、人間の脂汗のような不快な湿度が闇の中に立ち込める。
見開かれた左右のページには、水無月雫を死に追いやった者たち――加害者たちの『未来の死の予定』が、虫の群れのようにびっしりと書き込まれていた。
チリチリ、ジャラジャラ……。
ページの上で、無数の黒い『数字の鎖』が蠢いている。
それは彼らの寿命、病歴、そして最後に訪れる死の瞬間までのカウントダウンを物理的に具現化したものだ。
鎖同士が擦れ合い、微小な金属音を立てて這い回っている。
死神は、それらの鎖を大鎌の刃先でいじりながら、赤い眼を細めた。
「さて、因果応報のお時間だ。……人間が大好きなお伽噺さ」
右のページ。
いじめの主犯格だった少女のデータ。
彼女の鎖は、最初は太く、黄金色に輝いている。社会的な成功、結婚、裕福な生活。
しかし、その中盤から突然、鎖はどす黒く錆びつき、細く千切れそうになっている。
「原因不明の病。全身の筋肉が少しずつ固まり、最後は呼吸もできなくなって緩慢に死ぬ。……ああ、素晴らしい絶望だ。ベッドの上で、自分の身体が自分のものでなくなっていく恐怖を、何年も味わうことになる」
左のページ。周辺の加担者たち。
「こっちは飲酒運転の車に撥ねられて即死。こっちは投資詐欺に遭って自死。こっちは……ああ、なんの変哲もなく老衰か」
死神は、肉色の指先で、老衰で死ぬ予定の者の鎖をピンッと弾いた。
キィン、という澄んだ音が鳴り、鎖の位置が少しだけズレる。
「人間はね、こういうのを見て『罰が下った』と喜ぶ。因果応報。自分が正しかったと証明されたような気になって、安心するんだ」
死神の口調には、底知れぬ冷笑が混じっていた。
「でもね、馬鹿馬鹿しい。これはただの会計処理だ。宇宙の複式簿記さ」
彼は大鎌をデスクに置き、両手を広げた。
「誰かが極端な不幸を背負って死んだら、システム全体のバランスが崩れる。だから、その帳尻を合わせるために、適当に関係者に不幸を割り振って数字を整えているだけ。そこに『罰』なんていう高尚な意味はない。貸し借りのバランス取り。意味なんて、後から人間が勝手にラベルを貼り付けているだけさ」
死神は、主犯格の少女のページの上に浮かび上がってきた、赤黒い蕾に目を留めた。
『悔恨の蓮』の蕾だ。
数十年後、病のベッドの上で、少女がふと、かつて自分が追い詰めた「水無月雫」のことを思い出し、一瞬だけ抱く後悔の念。
それが、醜い肉腫のような蕾となってページに寄生している。
「後悔、ね」
死神は、その肉色の親指と人差し指で、赤黒い蕾を無造作に摘んだ。
そして、ためらいもなく――プチッ。
グチャッ、という生々しい破裂音とともに、蕾が潰れた。
中から、どす黒い汁が飛び散り、帳簿のページに汚いシミを作る。
そのシミの黒い液面から、瞬きほどの短い時間、映像が浮かび上がった。
消毒液の匂い。ヒュー、ヒューという気管支の鳴る音。
チューブだらけの顔から、一筋の涙がこぼれ落ちる少女の絶望の表情。
『……ごめん、なさい……』
掠れた悲鳴。
「遅いよ」
死神は冷酷に呟くと、指先に付いた黒い汁を、大鎌の刃になすりつけて拭い取った。
シミから浮かび上がった映像は、すぐにノイズとなって滲み、跡形もなく消え去った。
「彼女はもう、君の謝罪なんて欲しがっていない。君の存在すら、彼女の筏の重りの一部に過ぎないんだから」
バタンッ!
死神は、全てを終わらせるように、乱暴に帳簿を閉じた。
***
帳簿を閉じると、黒曜石のデスクは霧のように溶解し、闇の世界が徐々に晴れていった。
視界が開ける。
死神は今、窓も扉もない《境目》の片隅、切り立った絶壁の縁に立っていた。
星屑のローブが、冷たい風に煽られて大きく翻る。
足元からは、相変わらず、しゃら……しゃら……と砂時計の規則的な音が零れ落ちている。
ここからは、境目の世界を一望することができた。
視界が広がっていく。
遥か遠くで、灰色の廊下の『呼吸する壁』が、誰かの絶望のため息に合わせて、すぅ……はぁ……と生々しく膨張と収縮を繰り返している。
別の方向では、図書館の奥の『逆流する滝』が、新たな魂の抱えた未練を、ごうごうと天井に向かって吸い上げている。
足元の深淵の底では、『影の市場』の赤黒いランタンが明滅し、魂たちがチリン、チリンと音を立てながら、互いの記憶や感情を売り買いする喧騒が、微かなノイズとなって昇ってくる。
生と死が溶け合い、理屈と狂気が混在する、永遠の吹き溜まり。
死神は、分厚い帳簿を小脇に抱え、赤い炎の眼球を、さらに遠く――七色の水銀がうねる『感情の海』の水平線へと向けた。
水平線の彼方。
光の世界へと続くのか、完全なる闇へと落ちるのか、それとも虚無に溶けるのか。
その行き先は、死神の目にも見えないようになっている。
「静かな場所なんて、どこにもない」
死神は、誰に聞かせるでもなく、風に向かって呟いた。
その声は、かつてなく穏やかで、ほんの僅かだけ、人間臭い響きを帯びていた。
「ノイズを消すことはできない。悲しみも、痛みも、怒りも、生きている限り――いや、死んでからでさえ、魂にこびりついて離れない」
死神は大鎌を肩に担ぎ直し、空いた手でフードの縁を少しだけ押し上げた。
「ただ、その騒ぎの中で立ち止まり、一つ一つの痛みに名前をつける余裕がある場所。そこが結果的に、人間にとっての『静かな場所』と呼ばれるだけだ」
ざばぁっ……、どろり。
遠くから、感情の波音が届く。
「生きていても、死んでいても、人間はいつも途中だ。完璧な完成品なんて、誰の手にも届かない」
死神の視線の先。
七色の水銀の海、その果てしなく遠い川霧の向こう側に、小さな、本当に小さなシルエットが見えた。
それは、自らの足に刺さるガラス片の痛みに耐えながら、胸に抱いた温かい木箱の記憶を守り抜き、一本のオールを握りしめて立つ、一人の少女の影。
水無月雫が、最終的にどうやって自分自身の「静かな場所」を定義し直し、どの対岸へ向かって漕ぎ出したのか。
あるいは、途中で力尽きて沈んだのか。
それを語る言葉は、この世界には用意されていない。
死神は背を向けた。
これ以上、彼女を見送る必要はない。彼の仕事は、魂の揺らぎを観測するプロセスまでだ。
「さあて、次はどんな退屈しのぎが来るかな」
しゃら、しゃら。
大鎌から零れる砂の音とともに、死神の漆黒のローブが、暗闇の中に音もなく溶けていく。
逆流する水音、壁の呼吸、市場の喧騒、そして七色の波音。
それらが幾重にも重なり、やがて一つの響きとなって、どこまでも続いていく。
結末を告げる声はない。
ただ、何かが始まりかけている気配だけが、静かに残された。
やがてその気配すらも、音の奥へと沈んでいく。
――
暗闇の底で、かすかな波が揺れた。
それがどこへ向かうものなのかを、知る者はもういない。
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