168.どうぞ、なさって?
「いやぁ、人生とはわからんものですな!」
「本当に! エルガが、あのシュミット辺境伯家とご縁を結ぶなんて!」
朝食の後、私たちは男爵夫妻と一緒に、広間でお茶をすることになった。
その中心で、男爵夫妻は今日も終始上機嫌だった。
夫人は朝からお酒を口にしているのだろう。ほんのりと頬が赤く、微かにアルコールの匂いを纏っている。
テーブルには豪華なお茶菓子が並べられ、使用人たちも忙しなく働いていた。
その顔には、疲労が伺える。きっと、ろくに休みも与えられていないのだろう。もしかしたら、お給料すら……。
「ミルコ様には、ぜひこの屋敷を継いでいただかねばなりませんな」
「ええ、うちにはほんの少し借金がありますけれど。でも、シュッミット家からしたら、微々たるものですわ」
男爵の言葉に、夫人が嬉しそうに頷く。
ほんの少しの借金――。
それが決して〝少し〟ではないことは、ここにいる全員が知っている。
それなのに、夫妻は悪びれる様子もなく、ただ夢見心地で笑っている。
今はまだ、そのときではない――。
そう判断しているのだろう。レオさんをはじめ、誰も口を挟まない。
けれど、リックさんは今にも立ち上がりそうなほど怒りを押し殺していて、ヨティさんにもいつもの笑顔がない。
レオさんとミルコさんは、さすがというべきか。怒りを抑え、冷静さを保っている。
「でも――」
そんな空気を読まず、夫人が再び口を開く。
「エルガも、やっと役に立つときが来たわね」
「え……?」
思わず、声が漏れた。
だって、エルガさんはこれまでもずっと、この家のために働き、仕送りをしてきたのに。
「可愛げのない子だったけど……こんなにいい相手を捕まえるなら、育ててやった甲斐があるわ」
「育てて、やった……?」
実の娘に、どうしてそんな言い方ができるのかしら……。
エルガさんは声も出せずにいるのか、その場で固まってしまっている。
どうか、もうそれ以上しゃべらないで欲しい。お願いだから、これ以上エルガさんを傷つけないで――。
そんな私の願いは、夫人には伝わらない。
「これからも私たちに感謝して、一生尽くしてちょうだいね?」
夫人は、ずいっと身を乗り出し、エルガさんの顔のすぐそばで囁いた。
俯いたエルガさんの肩が、小さく震えている。
「それがあなたの役目よ、エルガ」
「あの、そんな言い方って――」
たまらず、私が声を上げてしまった。
だけど、そのとき。
バシャ――!
「……っ!」
「ごめんなさい、お母様。手が滑りました」
「……え?」
エルガさんのお茶が、夫人の顔にかかった。
夫人は、一瞬なにが起きたのかわからないというような顔を見せた。
……エルガさんが、自分のお茶を母親にかけたのだ。それはもう、見事なかけっぷりだった。
「な、なにするのよ……エルガ……!?」
その背後で、使用人の誰かが堪えきれずに「ぷっ」と吹き出した。心なしか、拍手の音が聞こえてくる。
「ちょっと! 今、笑ったのは誰!? 首にするわよ!?」
すぐさま怒鳴り声を上げる夫人に、使用人たちは皆びくりと肩を揺らした。
けれど――。
「どうぞなさって? どうせ、ろくに給料も払っていないのでしょうから。こんな家、解放してあげたほうが彼女たちも幸せだわ」
「……はあ?」
「ど、どうしたんだ……エルガ」
これまでおとなしくしていたエルガさんの豹変っぷりに、夫人は混乱し、男爵は明らかに動揺している。
「これ……ドレスの弁償代です」
エルガさんはそう言って財布からお金を取り出し、テーブルの上に置いた。
それを見た夫人の顔色が、さっと変わる。一瞬で機嫌が直ったようだ。
「でも、私が払うのは――これで最後です」
「え――?」
「ちなみに私が副団長――ミルコ・シュミット様と婚約しているというのは、嘘です」
「「は?」」
にっこりと笑ってそう告げるエルガさんに、男爵夫妻の声が綺麗に重なった。
「な、なにを言っているの……エルガ……」
「彼らは、私をあなたたちから守るために、この嘘に付き合ってくれただけです。残念でしたね」
「なんだって!?」
男爵夫妻は、驚愕に目を見開いた。
エルガさんが、ついにキレた……。
私はレオさんたちと一緒に、その様子を静かに見守った。
「嘘……でしょう、エルガ!? 嘘だと言いなさい……!!」
夫人は引きつった笑みを浮かべながら、冗談だと言って欲しいかのように首を振る。
「わかった……! 昨夜、あなたがミルコ様を怒らせたのね!? そうなんでしょう!?」
「いいえ。最初から結婚の約束もしていなければ、私たちはそういう仲でもありません」
エルガさんははっきりと言い切った。
否定せず、静かに話を聞いているミルコさんの様子に、夫妻の表情がみるみる曇っていく。
「私はもう、あなたたちの言いなりにはなりません」
「……っ、なんなのよ、この役立たず!」
自分の口で、はっきりと気持ちを伝えたエルガさん。
その直後、夫人の甲高い声が広間に響いた。
「やっぱりあんたなんか、さっさと売ってしまえばよかった!!」
あまりに酷い。いくら腹が立ったからといって、実の娘にそんなことを言うなんて。
「あんまりです――」
さすがに黙っていられず、私が口を開いたけれど。
「いい加減にしろ」
低く、けれどはっきりとした強い声が、その場に落ちた。
――怒っている。
ミルコさんが。ミルコさんの、短く重い一言が、その場の空気を凍らせた。





