149.聖女の侍女
「――やはり弟は臆病者だ。あんな小さな魔物に怯えるとは」
翌朝早く。まだ日が昇る前に、俺は一人身支度を整えた。
「ミルコや聖女には頼れない。異常気象をもたらしている魔物の正体はわかったのだから、あとは俺一人で十分だ」
俺は過去にこの雪山で、もっと大きく狂暴な魔物を幾度も討伐してきた。
「あんな小さな子ぎつね如き、魔法にさえかからなければ問題ない……!」
確かに俺は奴の魔法で幻覚を見た。
父もミルコも俺を認め、次期辺境伯となる夢を――。
「いや、夢ではない……間もなく現実となることだ。恐れることはなにもない」
特別な力を持ちながら、この地を去った弟。
父はいつも、ミルコのことを評価していた。
次期当主は俺だというのに――。
「あら? フリードリヒ様」
「……!」
出発前に調理場の前を通った俺に、女が声をかけてきた。
「随分早いですね」
「君は――」
確か、エルガといったか。聖女の侍女で、昨日スープを用意してくれた女だ。
今朝もこんなに早く起きて、朝食の準備をしようとしていたのか。朝早いのに、身なりもしっかりと整えられている。
「君こそ、随分早いな」
「私にできることはこれくらいですから」
嫌味なく淡々と答えるその顔には、笑顔すら浮かんでいた。
こんな場所でも怯えることなく、堂々とした佇まいだが、健気でいじらしい女だ。こういう女は嫌いじゃない。むしろ次期辺境伯である俺に相応しいのは、こういう女だ。
「見たところ君も貴族の令嬢だろう? 君の家は、なにか事情でも抱えているのか?」
聖女の侍女だからといって、こんな危険な土地にまでついてくるとは。おそらく結婚もまだなのだろう。
「高位貴族の家の生まれではないのだろうが……借金でもあるのか?」
「……」
「俺が力になってやろうか」
「え?」
辺境伯家の跡取りである俺に、下位貴族の女を妻に迎えることは難しい。だが、俺にはまだ決まった相手がいない。
聖女の侍女を務めた女なら、俺との結婚も不可能ではない。
俺は父に、そろそろ結婚相手を決めろと急かされている。
だから、声をかけたのだが――。
「せっかくのお話ですが、結構です」
「なに?」
「自分の家のことは、自分の力でどうにかします。ですので、あなたの力はいりません」
「……っ」
この俺の申し出を、あっさり断るとは……!
なんて可愛げのない女なんだ。少し〝いい〟と思ったが、とんだ見当違いだった。
「そうか。ではせいぜい苦労するんだな」
無能な聖女に仕えていては、苦労するのが目に見えている。
俺の申し出を断ったこと、後悔するがいい……!
腹立たしい気持ちを堪えて踵を返したとき。勢い余った俺の身体が、台にぶつかり、そこからなにかがカラン――と音を立てて落ちた。
「あ……!」
「ん?」
落ちたのは、石だった。
「これは、魔石か?」
何気なく気になり、手を伸ばす。しかし、俺よりも先に彼女が魔石を拾い上げ、大切そうに胸に抱いた。
「……それは」
だが、既に俺は見てしまった。それは確かに、見覚えのある魔石だった。
「なぜ君がその魔石を持っている!?」
「これは私の祖母にもらったお守りですが?」
「いや、それは私の祖父の魔石だ!」
「え……?」
「俺がその魔石を見間違えるはずがない。それは祖父が先代の聖女にもらった、護衛の魔石だ!」
「そんな……」
「失くしたと聞いていたが、まさか君の祖母が――」
「まさか!」
この女の祖母が、祖父から魔石を奪った。一瞬そう思ったが、それは考えにくい。
普通の女が、王族の護衛を務めていた優秀な祖父から魔石を奪うことなど、できるはずがないのだ。
「祖母は、この魔石をある方からもらったと言っていました」
「もらった?」
「詳しいことは聞いておりません」
「では、祖父が君の祖母に魔石をあげたというのか」
「……そういうことかと」
「信じられん」
なぜだ。なぜ、祖父が聖女にもらった大切な魔石をなんでもない女に渡す?
……特別な女だったということか?
「祖父は君の祖母にその魔石を渡したせいで、命を落としたのだ」
「え……?」
「なぜ祖父はこの魔石を手放したんだ! 説明しろ!!」
「……っ、そんなこと、わかりません!」
興奮のあまり彼女の肩を掴み、問いただしてしまった。
しかし、彼女は本当になにも知らないようだ。
なにも知らずに、これまで聖女の護衛として、ミルコのそばでこの魔石を持ち続けていたというのか。
ミルコは、それを知っているのか……?
「……ちょうどいい、俺はこれから魔物討伐に行く。魔石を渡せ」
「で、ですが、シベルやみんなと一緒のほうが……!」
「あいつらには頼れない。その魔石は本来俺が手にするはずのものだった。渡せ!」
「……一人で行くなんて、危険です」
「では君も一緒に来るか?」
「え……」
「どうしても魔石を手放したくないというのなら、その魔石を持って俺と一緒に来い」
俺の問いに、エルガは一瞬の間を置きつつも、視線を逸らさずに答えた。
「……では、一言シベルに置き手紙を書かせてください」
「なんと書くつもりだ」
「彼女たちが心配しないよう、本当に一言書くだけです」
「……いいだろう」
その場で、本当に一言だけ紙に書き記すと、エルガは身支度を整え、俺に続いて外に出た。
「行きましょう」
「ああ」
――見ていろよ、ミルコ。
おまえがこれまでどれだけ生ぬるいところで生きてきたのか、この数年、俺がどんな思いでこの地を守ってきたのか――思い知らせてやる。





