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「え?アクタガワ?作家の?」
冷しゃぶへと箸を伸ばしながら、渡瀬の質問へと、その父親が首を傾げる。
「うん。うちにはないよね?」
「そうだなぁ……二人とも本読まないからなぁ。十条くんは、そういうの読むのかい?」
その日の夜、十条九は再び、彼らと共に食卓を囲んでいた。十条九が自宅へと戻らなかった件について、渡瀬の父親が特に言及をしてくる事はなかった。あまつさえ彼へ歓待を示してくる有様だった。
「ええ、まあ……」
食卓の話題は、どういう訳か先日に続き、十条九の読書に関する事だった。
「ああ、でも昔、母さんから本を借りて読んだ事はあったっけなぁ」
不意に、思い出したように、渡瀬の父親が口にする。それを聞いて、彼女は意外そうな表情を浮かべた。
「え、本当?それ、初耳なんだけど」
「そりゃ、まだ母さんと付き合う前の話だからなぁ」
過去へと思いを馳せるように、彼は腕を組みながら目を閉じる。その話に些かの興味を引かれたようで、渡瀬は好奇心を忍ばせた表情で、父へと問い掛けた。
「お母さん、どんな本読んでたの?」
「……タイトル忘れちゃった。中身もかなりうろ覚えだなぁ……確か、猫の出てくる話だったんだけど」
眉間に皺を寄せながら、渡瀬の父親は考え込む。
「猫?『吾輩は猫である』、とか?」
「いや……っていうか、流石に父さんもそれくらいは分かるよ」
いくらかのやり取りの後、二人の目が十条九に向けられる。それが、回答を期待する視線だと気付くと、彼も自分の知識を探り始めた。
「作者は分かりますか?猫を取り扱った本だと……内田百聞、谷崎潤一郎……」
「いや、海外の本だった気がする。えっと……主人公が猫で……ああ、違うか。主人公の男の子が猫になって、雌猫と一緒に旅する話だったような……」
それを聞くと、十条九は納得したように「それなら」と声を上げる。
「ひょっとして、『ジェニイ』ですか?ポール・ギャリコの」
「あ、たぶんそれだと思う!ジェニイって、雌猫の名前だよね?」
十条九の回答に、渡瀬の父親は「そうそう」と頷く。渡瀬は両手を合わせながら、感嘆の声を漏らしていた。
「すごーい。今ので分かっちゃうんだね。しかも作者まで」
「まあ、読んだ事ある本だから」
褒められて、悪い気はしなかった。故に十条九は、いつもよりも饒舌に話し出す。
「白猫に変わってしまった主人公の少年は、身内からの冷遇を受けて、住んでいた場所を追われてしまう。人間たちから邪険にされ、他の猫からも酷い扱いを受ける中、ジェニイという優しい黒猫に出会う。二匹の旅路や、恋模様を描いた話で……」
あらすじを語る中、十条九は渡瀬が、上機嫌そうに微笑んでいる事に気付く。理由を聞くと、彼女は「やっぱり、本の話してる時の十条くんは活き活きしてるなぁ、って」と、笑いかけた。
「その本、学校の図書室にあるかな?」
気恥ずかしさから顔を背けようとしていた十条九に、渡瀬は問い掛ける。それを無視する事も出来ず、十条九は渋々と、彼女の方へと視線を戻した。
「いや……確か、学校にはなかったんだ。だから俺、市の図書館で借りたはず……」
「そうなんだ。じゃあさ、十条くん」
過去の記憶を探りながら、麦茶の入ったグラスを傾けていた十条九は、不意に呼ばれた自分の名前に、顔を上げる。
「明日、一緒に行ってみよっか。図書館」
瞬間、言われている事が理解出来ず、十条九は硬直する。徐々にその意味が頭へと浸透すると、彼は慌てたあまり、飲みかけていた麦茶を気管に流し入れてしまった。
「ちょっと、大丈夫?」
咽て咳き込む十条九を見て、渡瀬が心配そうに顔を覗き込む。片手を上げながら、十条九は「平気だ」とそれを制した。
「何でもない。ただ、その、何と言うか……」
今さらではあるのだが十条九は、男女二人して特定の場所へと出掛ける経験に乏しい。否、ほぼ皆無と言っていいだろう。故に、渡瀬の発言に何らかの他意がないと分かっていても、彼はその程度で、不要な意識をしてしまうのだ。
「十条くんも読む本を探せるし、私も……お母さんがどんな本を読んでたのか、知りたいしさ」
不意にその語調が穏やかになり、十条九は何事かと、渡瀬に視線を向ける。その先で、彼女は何かを懐かしむように、目を細めていた。それが何故か、どういう理由かをどことなく察してしまい、十条九は掛けるべき言葉を探していた。
「うん。まあ、夕飯が遅くならなければいいんじゃないかな」
何気ない風を装って言いながら、彼女の父親はビールを呷る。その目が一瞬、チラリと自分に向けられた事に気付くと、十条九は困ったように、後頭を掻いた。
「……学校終わったら連絡してくれ」
降参を示すように、十条九は告げる。すると、渡瀬はキョトンとした顔で、首を傾げた。
「いいの?」
「まあ……俺も、新しく入庫した本に興味あるし。その、ついでなら……」
「よかった!やっぱり、詳しい人がいると心強いからさ」
口ごもる十条九の言葉を遮りながら、渡瀬は声を弾ませた。
「ありがとね、十条くん」
妙な流れになったとは思いつつも、さして悪い気はせず、十条九は、屈託のない顔で笑う渡瀬を眺めていた。




