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器用にも片手でドライヤーを扱い、濡れた髪を乾かして、洗面所を後にする。台所前の廊下を通ろうとした時、彼は部屋の明かりが点いている事に気付いて、中を覗き込んだ。
「あ、十条くん。今お風呂出たとこ?」
冷蔵庫から麦茶の入ったボトルを取り出しながら、渡瀬が首を傾ける。十条九が頷くと、自らのグラスの横に、彼女はもう一つのグラスを並べた。
「それにしても驚いたなぁ。十条くん、何も言わないんだもん」
「……家に帰る、って話?」
十条九の問いに、渡瀬は肩をすくめて見せる。彼が弁解の言葉を吐こうとすると、それを遮るように、彼女は麦茶を注いだグラスを差し出した。
「……ありがとう」
「うん」
そのやり取りを後に、会話が途切れる。冷蔵庫が低く唸る音だけが部屋を満たす中、二人は顔も合わせず、並んでシンクに寄りかかりながら、グラスへと口を付けていた。
「叔父さんたちとは、まだ連絡ついてないんでしょ?」
空になったグラスを流しに置きながら、渡瀬が問い掛ける。
「お父さんも言ってたけどさ。落ち着くまで、ここにいていいんだよ?」
穏やかな口調で、彼を思いやる言葉が投げ掛けられる。それが、ひどく胸を突くもののように感じられて、十条九は自身の感情を誤魔化すように、グラスの中身を飲みほした。
「それでも俺は、戻らないといけないと思うんだ。ちゃんと、現実に向き合わないと……俺はいつまでも、踏ん切りがつかないままになる」
「……そう」
十条九の返答を聞いた渡瀬は、それ以上、彼を引き留める言葉を口にしなかった。彼女はぼんやりと宙空を眺めながら、自らの指を弄んでいた。
「病院、何時から?」
「午後の3時。……どうして?」
そんな事を尋ねられる理由が分からず、不思議に思いながら彼女へと顔を向ける。すると、彼女は何故か不満げに口を尖らせた。
「ついて行こうと思ったの。一人で行ったら……何ていうか、また……十条くん、無理しそうな気がしてさ」
彼女の目が一瞬、何かを思い返したように、憂いを帯びる。それが以前、病院で朝陽の死を告げられた時の事だと気付くと、十条九は慌てて口を開いた。
「そこまで、迷惑はかけられない……」
「そうじゃないよ」
十条九の言葉に被せるようにして、彼女はそれを遮る。「そうじゃない」ともう一度繰り返してから、渡瀬は十条九に顔を向けた。
「私が十条くんの事、放っておけないだけなんだ。それに、迷惑だなんて思ってないから」
そう言ってから、彼女ははにかむ。それを見て、十条九はようやく納得した。彼女の厚意に、打算などない。ただ本当に、純粋に、彼女は困っている知人を捨て置けないだけなのだ。
「……そうか」
彼女はきっと、誰に対しても優しく接する。困っていれば、手を差し伸べようとする。厚意を向ける相手を、選んだりしない。それをどこかで察していたからこそ、十条九は彼女との会話に、安心感を覚えていたのだろう。
「委員長は、世話焼きだな」
今だって、自分の分のアイスを冷蔵庫から取り出すついでに、もう一本、十条九の分を取り出している。その上、右手が使えない十条九の代わりに、その包装を破いているという、徹底ぶりだった。
「その上、どうしようもないお人好しだ」
「はいはい、自覚してますよぉ、だ」
不服そうに頬を膨らませながら、渡瀬は十条九に向かってアイスを差し出す。それを受け取ろうとした、瞬間だった。
「ありが──むぐぅ!?」
礼を言いかけた口に、突如、冷たいオレンジ味が突っ込まれる。訳も分からず目を白黒とさせていると、自分のアイスを咥えながら、渡瀬は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「また『委員長』って呼んだでしょ。聞き逃さないからね」
あたふたとする十条九の姿に耐えられず、渡瀬は笑い出す。冷たい口の中とは対照的に、段々と温度を上げていく頬に我慢が出来ず、十条九はそれを悟られぬよう、顔を逸らしていた。
「あ、そうそう」
一頻り笑った後、渡瀬は何かを思い出したように、ポケットから携帯電話を取り出す。その画面を傾けて見せながら、彼女は続けた。
「一応連絡先教えといて?私、学校が終わってから病院に迎えに行くけど、入れ違いになったら嫌だからさ」
「あ、うん」
口でアイスを咥えたまま、十条九もまた、自分の携帯電話を取り出す。しかし、彼は『その先』を知らなかった。
「えっと……どうすればいい、んだっけ?」
差し出された渡瀬の携帯電話に目を落としながら、十条九は尋ねる。社交性皆無の十条九に、他人と連絡先を交換した経験などなかったのだ。
「画面見せて。えっとね……」
十条九の画面を覗き込みながら、彼女はそれを操作し、説明する。自ずと近寄ったその距離に、十条九が落ち着いて話を聞けていない事など知らず、渡瀬は一通りの作業を終わらせていた。
「はい、これでオッケー。試しにメッセージ送ってみるね」
身内以外の連絡先が初めて追加された自身の携帯電話を、十条九は不思議そうに眺める。その画面に、「ちゃんと届いてる?」という絵文字付きのメッセージが届くと、彼はたどたどしい手付きで、「ありがとう」と、たった五文字の返信をしたのだった。




