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孤ノ影闘記 / Anti-Nexus  作者: 鰓鰐
第4章 禍殃―Childhood’s End―
50/58

〈12〉

―12―



濡れたアスファルトの匂いが充満した風を切りながら、バイクが進む。アパートを後にし、本部への帰路に就いてから、二人の間には一切の会話がなかった。ただ無言で夜道を駆る甲鐘と同様に、十条九は口を閉ざしたまま、彼女の背を眺めていた。


交差点の信号が変わるのを確認して、甲鐘はバイクを止める。横断歩道を渡る歩行者に何気なく視線を向けていた彼女は、手に傘をぶら下げた母子が並んで歩いている姿を見て、目を細めていた。


「……甲鐘さん。どうして、ここまでしてくれたんですか」


ふと、同じ物を眺めていた十条九が、彼女の背に問い掛ける。すぐには答えず、甲鐘はここではない場所に思いを馳せるように、空を見上げていた。


「私の両親は、私が17の時に亡くなった」


信号の色が変わり、甲鐘は再びバイクを走らせる。その合間に、彼女はそう切り出した。


「その時に、しておけばよかったと思った事を、キミに促しただけだ」


「迷惑だったか」と問い掛ける甲鐘の言葉を、十条九は否定した。その返答を聞くと、甲鐘はバイクを走らせたまま、話を続ける。


「私の母はロシア人でな。当時は向こうの士官学校に通っていたんだ。基本的には寄宿生活だが、月に一度、家に帰る機会があった。ちょうど、その日だったんだ……私が、初めて吸血鬼を目にしたのは」


ヘルメットの下で、甲鐘は眉をひそめる。


「子供だった。家に帰ると、見知らぬ子供がいたんだよ。何食わぬ顔で。まるでそれが当然みたいに、ダイニングの椅子に腰掛けていた。そして……その足元に、私の両親が転がっていた。状況なんて、まるで理解出来なかった。ただ、倒れている両親と、口の周りを血で汚したそいつを見て……とにかく私は、そいつを排除すべき対象として認識した。だが……私はあいつに、歯が立たなかった。子供だからと、油断したわけじゃない。そんな思考もない程に、私は逆上していたからな。単に、六年間鍛えた程度の私の力量は、子供の吸血鬼にさえ、及んでいなかったんだよ。気付いた時には、私はそいつに組み伏せられていた。そして……」


嫌なことでも思い出したように、甲鐘は顔をしかめる。それまでハンドルを握っていた彼女の右手は、自らの首筋を静かに撫でていた。


「……駆けつけたロシア支局のICSA隊員に助けられて、一命を取り留めた。だが……両親はもう、手遅れだった。血を吸われた二人は、隊員達が駆け付けた時にはすでに吸血鬼になっていたんだ。私は、吸血鬼として理性を失くした二人が、ICSAの隊員に首を刎ね飛ばされる瞬間を、この目で見たよ」


「……二人を襲った吸血鬼は、どうなったんですか?」


十条九が尋ねると、甲鐘は首を横に振った。


「逃げられたよ。いや……そう言うと語弊があるな。隊員達と交戦していたあいつは、どういう訳か唐突に、その場を後にしたんだ。それこそ、遊ぶ事に飽きた子供みたいに、な」


答えながら、彼女はハンドルを握る手に力をこめる。


「だから余計に、現状を受け入れられなかった。自分への無力感もあったが、あの吸血鬼がのうのうと生き延びて、私の両親だけが殺された事実を、容易には認められなかったんだ。私もキミと同じようにICSAに保護されたが、私の場合は立ち戻るまでに、時間をかけ過ぎた。数日経ってようやく頭が働くようになってから私は、父母の遺品がほぼ全て、情報操作の為に抹消された事を聞かされたんだよ」


自嘲だろうか、甲鐘は小さく息を漏らす。彼女の語る境遇を聞いて、十条九は、甲鐘が自らのために行動を起こしてくれた理由を理解する。しかし、どこか物悲しい甲鐘の様相に、彼は声をかける事が出来なかった。


「そうなると、もう怒りの感情しか残っていなくてな。何もかもが許せず、私は戦いに身を投じる事を決した。吸血鬼と戦い続けていれば、いつか両親を襲った奴を、殺す機会にも恵まれるかもしれない。そんな確証もない理由が、それでも私には、生きる気力だった。それから私はICSAに拾われ、何の因果か父の故郷である日本に送られ、こうして、その支局に配属されている」


十条九が彼女の話に耳を傾けている合間に、二人を乗せたバイクは、気付けばとある建物の地下駐車場を進んでいた。その駐車スペースの一つにバイクを停車させると、彼女はエンジンを切る。それと同時に、薄暗い地下には静寂が訪れた。


「私はきっと、両親の仇を殺すまで、何があっても武器を下ろせないと思う。私が選んだのは、そういう道だ」


振り返る事なく、彼女はバイクに跨ったまま、言葉を溢す。


「まるで、呪いだな」


ヘルメットを外す前に、甲鐘彩夏は小さな声で呟いた。



二人がバイクを降りるのを見計らったタイミングで、何者かの足音が近づいてくる。視線を向ければそこに、隊員と思しき一人の男性が、甲鐘へと敬礼をしていた。


「甲鐘隊長、局長がお呼びです」


「ああ、分かってる」


何を言われるのか予測していたのだろう、甲鐘は即答する。それから彼女は、振り返って十条九へと視線を向けた。


「悪いが、医療班のところに連れて行ってやってくれないか。応急処置は受けた後だが、その後すぐ私が連れ出したせいで、精密検査はまだなんだ」


甲鐘の申し出に、隊員が頷こうとする。だが、十条九の「待ってください」という一言が、それを遮った。


「俺も、甲鐘さんに同行させてくれませんか」


その発言の意図が分からず、甲鐘は一瞬押し黙る。だが、十条九の目がいつになく真剣さを帯びているのを見て取ると、同行を許可した。


いくらかの会話を交わした後で、二人はさらに地下へと向かうため、エレベーターへと乗り込んだ。ドアが閉まり、二人を乗せた箱はさらに地下へと沈んでいく。甲鐘は腕組みをしながら、壁へともたれかかっていた。


「……甲鐘さん」


沈黙を破り、その背へと声をかける。


「ありがとうございました。本当に……」


その言葉に、甲鐘は一瞬だけ振り返る。だが、「ああ」と一言だけを返すと、難しそうな表情の顔を、すぐに前へと向けてしまった。


最下層までたどり着いて、彼らは人通りのない廊下を抜け、その最奥にある部屋の前へと辿り着く。甲鐘が部屋の扉を叩くと、入室を許可する声が中から返ってきた。


「失礼します」


足を踏み入れると、部屋の主は自らの席に腰掛けたまま、二人へと視線だけを寄越した。両壁に一面の昆虫標本が並べられた異質な部屋の奥、珠王局長は自らのデスクの前を、片手で指し示した。


「こちらへ」


眼鏡の奥に鋭い眼光を湛えながら告げられ、二人はそれに従い、彼の眼前に足を運ぶ。甲鐘が開口一番謝罪の言葉を口にし、頭を下げようとすると、局長は片手でそれを制した。


「事情は、オペレーターから聞いている。それに関して、君が頭を下げる必要はないよ」


その言と共に、局長は憐憫の視線を十条九へと向ける。


「お母様のことは、悔やんでも悔やみきれないだろうが……それでも、君が無事でよかった」


十条九は何も答えず、微かに細めた目で、視線を逸らしただけだった。それを哀傷の表れと判断したらしく、局長は尚も彼を憐れむ言葉を選んでいた。


「身体的にも、精神的にも、君には休息が必要だろう。今回の出来事について、現場にいた一人である君からも話を聞きたいところではあるが……今日のところは、早く帰って休んだ方がいい。医療班での診察を受けたら、すぐに車を出させる。だから……私に話があってここに来たのなら、それを早急に済ませるとしよう」


何かを見抜くように、局長は最後の一言を付け加えた。既に、おおよその考えを読まれている事を察すると、十条九は口を開いた。


「一つ、頼みたい事があって来ました」


そう切り出した十条九に、局長は無言のまま頷いて、先を促す。浅く息をした後、十条九は言葉を続けた。



「俺を、ICSAに入隊させてください」



発せられた言葉に、甲鐘が眉をひそめる。局長の方はある程度予想していたのか、変わらない表情で十条九を黙視していた。


「十条、キミは自分が何を言っているのか……」


「戦闘員でも、歩哨でも、諜報員でも何でも構いません。俺を、ICSAに入れてください。お願いします」


甲鐘の言葉を遮りながら、彼は頭を下げる。だが、珠王局長は首をゆっくりと横に振った。


「駄目だ、認められない」


局長は静かに拒絶すると、顔を上げた十条九を見つめる。十条九が反論の言葉を口にしようとすると、彼はそれよりも先に口を開いた。


「君は、朝陽さんまで同じ目に遭わせるつもりかい?」


その言葉に、十条九は何も返す事が出来なかった。


「彼女にとって、君は唯一残された家族だ。君が自らの命を危険に曝す事が、どういう意味を持つか……それは、全てを失った君だからこそ、分かる事ではないかな?」


ひどく冷静な表情で、局長は事実を突きつけてくる。十条九はわずかに狼狽えそうになりながらも、それでも口を開いた。


「もう、無理なんです。限界なんです。自分が納得出来るだけの事をしなければ……行動を起こさなければ、俺はもう、生きていけない。自分に、生きている資格があると、思えなくなる」


その訴えは、あまりに切実だった。何度となく地獄のような現実を突き付けられ、その度に望んでいたわけでもなく生き延びてきた彼は、必死とも思える形相で、そう告げた。


「……復讐とも、また少し違うのかな」


局長の目が一瞬、十条九の隣に立っている甲鐘へと向けられる。物言いたげな視線に、彼女はわずかに目を伏せた。


「君がえて危険な目に遭う必要はないだろう。我々の庇護下にある限り、君の安全は保証される。世に蔓延(はびこ)っている吸血鬼も、君の仇も、我々が必ず駆逐する。私には、君自身が戦う事が、命を投げ出す事が、生き延びてきた君の贖罪になるとは思えない」


ため息混じりに言いながら、かぶりを振る。局長は眼鏡のブリッジを指で押し上げると、その奥にある鋭い双眸そうぼうで、十条九を射抜いた。


「……78名だ」


局長の発した言葉に、十条九は説明を求めるように顔を上げる。


「君が今日対峙した吸血鬼、『トーマ』と呼ばれる個体たった一人に、今まで殺された隊員の数だよ。無論、その全員が数年に渡る過酷な訓練を耐え抜き、技術を身に付けた者たちだ。何度となく戦場を生き抜いて、それだけの人を救ってきた者たちだ。それが意味するところを、分からない訳ではないだろう」


告げられた事実に、十条九は歯を食い縛る。こちらを気遣うように、(さと)すように口にされたその言葉は、「お前には無理だ」という絶対的な真実を、緩やかに突きつけているのだ。


「繰り返し言うようだが、君が危険に身を曝す必要はない。それでも君が何もせずにいられないと言うのなら、戦う事以外で吸血鬼に抗う方法を、選べないだろうか。例えば……君なら、朝陽さんの力になる事も、出来るはずだ」


「……それは、どういう意味ですか?」


唐突な申し出を受け、十条九は眉をひそめながら聞き返す。


「君も知っている通り、彼女の体には『女王』の能力が備わっている。これは、彼女にとっても、我々にとっても、早急に解析する必要のある事柄だと言っていい」


『女王』の力を狙い、飛行場での一件が引き起こされた事を考えれば、その能力を継承した朝陽が今後も、そういう類の危険に曝される事は明白だ。そして何より、『女王の遺品』を宿している朝陽の体自身が、無事である確証もないのだ。その緊急性は、十条九も理解していた。


「そのためには、危険な実験をする事も視野に入れないといけない。そういう事ですか?」


即座に十条九が尋ねると、「理解が早くて助かる」と、局長は頷いた。その言葉に、甲鐘は異議を表すように、眉根を寄せる。だがそれを見ても、彼の表情はまるで変わらなかった。


「我々も心苦しいが、これから彼女に対して行われる実験は、多少なりとも過酷な事になるだろう。ただでさえ、一連の出来事や、能力を持ち合わせている事自体が、彼女の精神的な不安に繋がっている事も事実だ。その上実験ともなれば、負担は計り知れないだろう。それを少しでも軽減出来るのは、彼女の家族である君にしか、出来ない役割だと思う」


優しい声色で言いながら、彼は理解を求めるように十条九の顔を見上げる。それを聞いて、十条九は表情に迷いの色を浮かべていた。自分に何の価値も見出せない今、自身に役割が求められているという状況は、存在理由を与えられたような、一種の快さのような物を覚えさせるものだった。だが、彼はそれを圧し殺す。


「……それは本当に、朝陽のためだけに言っているんですか?」


ひどく冷静な声で、十条九は尋ねる。局長は、それを聞いてわずかに目を細めていた。


「あなた方がそういう実験をするのは、本当に朝陽を助けるためだけですか?あいつに備わっている能力を、利用するためではなく?」


彼女の抱えた特異性を鑑みれば、それを利用出来ないかと考える事はある意味自然と言えるだろう。そう指摘すると、局長は少しばかり眉根を寄せた。


「……確かに、その側面がある事も認めよう。だが、考えてみてほしい。彼女の能力が解明されれば、それは我々にとっても大きな力となる。それが、より多くの吸血鬼を駆除する事にも、被害者を減らす事にも繋がる。……君のような目に遭う者を、救う事が出来る」


珠王局長は口にしながら、机の下から何かを取り出す。それは、一つのジェラルミンケースだった。その蓋を開けると、彼は中身が見えるようにして、それを机の上に置いた。


「──っ!」


その瞬間、甲鐘は息を呑む。それが何故なにゆえなのか十条九には理解出来ないが、彼女はまるで睨むような形相で、箱の中を凝視していた。収められていたのは、腕輪のような形をした、リング状の機械。銀色の金属と、要所に回路や基板のような意匠が見て取れるそれは、しかし腕輪と呼ぶのには些か武骨すぎた。


Xenoゼノシステム。端的に説明するならこれは、対吸血鬼用の装備だ。まだ試作段階ではあるが、ごく最近、朝陽さんの血液検査の結果から研究が進展してね。ようやくこうして、実用に値するだけの形になった」


局長は、一瞬だけ甲鐘に視線を向けてから続ける。


「装着者の身体能力を上げて、吸血鬼に対抗できるようにするための装置だ。単純な身体能力の話で言うなら……これを使えば、例え今の君の状態でも、甲鐘隊長以上の力を発揮できる」


瞬間、十条九は目を見張っていた。彼の脳裏に、吸血鬼を一網打尽にする甲鐘の姿が蘇る。あの強さが、オリジナルであるトーマすら圧倒する力が、彼にとって魅力的でないはずがなかった。あろう事か、それを超える力が、目の前にぶら下げられている──自覚した瞬間、十条九は固唾を飲んでいた。


「こういった装置の完成にも、朝陽さんの実験が関わってくる。仮にこれが完成すれば、これまで虐げられるだけだった者たちも、吸血鬼に立ち向かう事が出来る。無論、君も含めてね。……十条くん、何も、実際に戦場に立つ事だけが、戦う事ではないんだよ。君が復讐を望むなら、朝陽さんと共に辛い実験を乗り越えていく事も、一つの方法だと思わないかな」


穏やかな口調で、局長はそう口にする。それは、ひどく耳に心地いい物に聞こえた。


「……そう、かもしれません」


小さく頷きながら、十条九は呟くように答えた。局長は、何も間違った事など言っていない。自身の目的を遂げたいならば、それが最も確実で、安全な方法だ。ICSAの庇護下にいる限り、自身に危害が及ぶ事はない。朝陽の側にいる事も出来る。装置が完成すれば、いつか自分の手で復讐を果たす事も出来るかもしれない。多くの人を救う事が出来るかもしれない。約束された安寧の中で、自分はただ、その時が来るのを待つだけでいい。


──しかし、だからこそ思ってしまうのだ。その安寧は、確実に自分を腐らせていく物だと。


「……分かりました」


「理解が早くて助かる」


頷く十条九を見て、局長は小さく口角を上げる。隣に立つ甲鐘が、複雑そうな表情を浮かべる。そんな中、十条九はゆっくりと、口を開いた。



「俺は、あなたの力は借りません」



静かに、しかしはっきりと、十条九は言い切る。それが、暫しの静寂をもたらした。


「……どういう、意味かな?」


幾らかの間を置いて、局長は尋ねる。


「局長が言った事は、間違っていないと思います。けど、だからってそれは、朝陽が実験をされて、危険な目に遭ってもいい理由にはならない。……何より、妹だけ危ない目に遭わせて、自分だけ安全でいようなんて、虫がよすぎる。俺はちゃんと、自分で背負って、自分で傷付いて、自分で戦います。だから、その装置が朝陽を傷付ける事で完成する物なら、俺は認める訳にはいきません」


十条九は机上に置かれた腕輪を見下ろしながら告げる。局長は静かにため息を吐き出した後、きつい視線を十条九に向けた。


「……自分の言っている事が、分かって言っているんだろうね?最初に宣告した通り、私は君を戦闘員にするつもりはない。君は訓練を受ける機会もなければ、後ろ楯も、戦うための武器もない。君が戦えるとすれば、この装置を置いて他に方法など……」


瞬間、局長の言葉が物音に遮られる。それは、十条九は自らの拳を、装置の入れ物に振り下ろした音だった。


「俺に必要なのは、装置じゃない。こっちです」


ケースの縁に勢いよく叩きつけられ、血が滲んだ手を、十条九は自らの前に掲げる。それを強く握りしめると、赤い液体は彼の手首を伝った。


「図々しいお願いをして、すみませんでした。けど、断ってもらったお陰で、覚悟が決まった。俺は、あなたを頼りません。きっと俺は……もっと辛い道を選ぶべきだと、思うから」


そう言い残し、十条九は踵を返す。その背に、局長は「正気かい」と問い掛けた。


「誰も、君に手を貸す者はいない。それでも君は、一人でもその道を選ぶのか?」


「今さら、ですね」


十条九は、振り返りもしなかった。


「今まで、ずっと一人でしたから。誰かが手を貸してくれる事の方が、俺には少なかった。どうってことありませんよ。どれだけ時間がかかろうが、俺は、きちんと自分が傷を負えるやり方を選ぶ」


意を決した強い口調に、甲鐘ですら絶句していた。部屋に訪れた沈黙を、やり取りの終わりと解釈すると、十条九はそのままドアの前まで足を運ぶ。そこで一度振り返り、彼は改めて局長へと目を向けた。


「こんな言い方になって、申し訳ないですけど……それでも俺も、朝陽に対する実験や研究は必要な事だと、理解してはいます。もちろん、朝陽の身を元に戻せるならそうしたいし、その過程であなた方が、その装置みたいな技術を獲得出来るのなら、それに越した事はない。けど」


一旦言葉を切ってから、十条九は目を細める。


「そのために、朝陽の身に危険が降りかかるような実験をするなら……俺は、ICSAに関して知りうる情報を、全てリークします」


これまでよりも温度の低い声で、十条九が宣告する。しかしその瞬間、局長の口元が微かに緩んでいた。


「脅しているつもりかい?君がこの組織に関する情報を流したところで、そんなのは戯言たわごと扱いを受けるのが関の山だろう」


「……でしょうね。こんな話、ただの高校生の妄想くらいにしか思われない。けど、それは相手が一般人だった時の話だ」


珠王局長は、その瞬間に舌打ちでもしそうな表情で、眉をひそめた。十条九の片手には、携帯電話が握られていたのだ。それは、十条九が騒ぎに乗じて母親の死体から抜き取った物だった。そしてその画面には、ボイスレコーダーのマークが表示されている。


「もし、その情報のリーク先が、吸血鬼なら?この情報がオリジナルたちの耳に入ったら、ここはどうなりますかね?位置情報付きで、この音声メモをばらまけば……」


局長は、何も答えなかった。


「口封じに、俺を消しますか?けど、そうしたら朝陽の説得ができなくなるどころか、あいつの信用を失う。俺という足枷もなくなるわけですし。……元々、俺を保護したのも、わざわざ朝陽と離れた場所に置いていたのも、そういう理由だったんでしょう。けど俺は、生憎と飼い殺しにされるつもりはありません」


十条九は最後に一瞬振り返ると、「失礼します」とだけ言い残し、部屋を後にする。局長は深くため息を吐くと、背凭れへと体重を預けた。


「量り違いましたね、局長」


ポツリと、甲鐘が口に出す。それを耳にすると、局長は降参を示すように肩をすくめた。


「安寧よりも、痛みを選ぶ、か。彼が真に求めていたのは、自身の罪に対する罰だった、という訳だ」


深慮に耽るような重々しい表情で、局長は眼鏡のブリッジを押し上げる。甲鐘は「罪」という単語を反芻すると、局長に対して目を細めた。その場で頭を下げた後で、甲鐘もまた踵を返す。そのまま遠ざかっていく彼女の背に、局長は何も言わなかった。


部屋を出てすぐ、甲鐘は廊下を進む十条九の背に追い付いた。言葉をかけるよりも先に、彼女は十条九の手首に手をかけて、その歩みを止めさせた。


「……甲鐘さん」


自身を追ってきた彼女の表情が、複雑そうに歪められているのを見て、十条九は気まずそうに視線を逸らす。


「すみませんでした。何から何まで、勝手な事を……」


「十条」


甲鐘の言葉が、十条九のそれを遮る。


「私はキミに、そんな道を選んでほしかったわけじゃない」


その表情は、どこか痛切さを内包していた。


「キミに、戦うという選択をさせたかったわけじゃない。そのために、あんな事をしたわけじゃない。ただ……」


十条九は、甲鐘が自身のために起こしてくれた行動を思い、目を伏せる。かつての自分と同じ境遇に陥った十条九を慮り、母の住居へ共に赴いてくれた彼女の心境を鑑みれば、今まさに十条九が同じ道を進もうとするのが、自身のせいだと思えてしまうのだろう。十条九は、ゆっくりと首を横に振った。


「これだけは、はっきり分かるんです。この選択をしなければ、俺はこれから先腐っていくだけだって。蒙昧に、緩慢に、ただ無為に生きていく事しか出来ない。そんなのは、死んでるのと同じだ。いや……それよりも、ずっとタチが悪い。だから……」


自分はもう、傷を負わずには、痛みに頼らずには、生きていられない。それを、彼の表情が物語っていた。


「もう、戻れなくなる。今以上に、苦しむ事になる。それでもキミは、同じ道を選ぶつもりか?」


それが最後の問い掛けであるかのように、甲鐘は重々しい口振りで尋ねる。だが、十条九は迷う素振りすら見せなかった。


「それが、俺の贖罪です」


甲鐘へとまっすぐに視線を返しながら、十条九ははっきりと、そう告げた。甲鐘はそれ以上何も口には出さず、何かを諦めたように、掴んでいた十条九の手を離す。彼女の指がそっと離れていくのを見てから、十条九は頭を下げ、そして再び甲鐘へと背を向けた。


「なあ、十条」


すでに歩き始めた彼の背に、甲鐘の声は届かない。それでも彼女は、言葉を続けた。


「キミのどこに、罪がある」


その問いは誰に届く事もなく、無人の廊下へと消えていった。




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