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孤ノ影闘記 / Anti-Nexus  作者: 鰓鰐
第4章 禍殃―Childhood’s End―
49/58

〈11〉

―11―




 やって来た医療班から簡単な手当てを受けた頃には、雨はもうほとんど止んでいた。応急の処置が終わると、今回の事件に巻き込まれた人々や、『運び屋』と一緒に、十条九はICSAの所有する車両に、乗せられそうになる。だが、甲鐘は彼の腕を掴んで、それを止めた。


「少し、十条を借りる」


 制止しようとする隊員の言葉を聞き流し、彼女は十条九の腕を引いて、工場の近くに停めてあったバイクの元まで彼を連れ出す。聞けば、彼女の私用のバイクらしい。ヘルメットを受け取り、十条九は甲鐘の後ろに跨った。


「いいんだな?」


 振り返りはせずに、甲鐘は背で最後の確認をする。


「……はい。お願いします」


「分かった。つかまってろ」


 十条九が彼女の腰に手を回すのを確認すると、甲鐘はフルフェイスのヘルメットで顔を覆う。直後、けたたましいエンジンの音を鳴らしながら、二人を乗せたバイクは走り出した。



 雨に濡れた道路の中を、甲鐘の黒いバイクが水を撥ねながら進む。側溝からはところどころ水が溢れており、その雨が激しかったことを物語っていた。20分ほど進んだところで、彼女は一件の古いアパートの前にバイクを停めた。


「ここだな」


 バイクから降りた彼女は、アパートの表札を確認しながら口にする。医療班の到着を待っていた間にオペレーターに調べてもらった名前が、そこに書かれていた。十条九がバイクから降りるのを待つと、彼女はアパートの階段を登り始める。十条九がついて来ているのを足音で確認しながら、彼女は二階にある一室の前で立ち止まった。


 甲鐘はポケットから先ほどのキーケースを取り出すと、十条九にそれを手渡す。受け取ったキーケースを開くと、その中に収められていた数本の鍵が金属の音を立てた。その瞬間、十条九は何かに気付いたように、目を見開く。


「……どうした?」


 その様子に、甲鐘は不思議そうに声をかける。だが十条九は「いえ、何も」と首を横に振るだけだった。それから彼は、何もなかったかのように、ケースの中から鍵を一つ選び出す。


 その隣に並んでいた、もう一本の古びた鍵。それが、幼少期に父母と暮らしていた住居の鍵だと気付いても、十条九は何も言わなかった。


 選んだ鍵を、ノブの上の鍵穴に差し込む。それから彼は、逡巡した後でそれを回した。ガチャリ、と小さな開錠音を鳴らして、ドアの禁が破られる。息を呑んでから、十条九は恐る恐る玄関のドアを開いた。


 中は、恐ろしいほどに質素だった。玄関から一メートルもない廊下を抜けると、そこには六畳あるのかないのか分からないような部屋が広がっている。寝具とテーブルくらいしか置いていない、寝室とリビングを兼用したような部屋だ。「必要最低限」という言葉が、あまりにも相応しかった。


 見るべき場所などほとんどなく、十条九は何気なく目に留まったクローゼットに近づくと、その扉を開いた。やはりと言うべきか、その中には大した量の衣類が収納されていない。しかし彼は、ふと服の収納ケースの奥に、隠すようにして何かがしまってあるのに気づく。手を伸ばして取り出してみると、それはダイヤルロック式の小さな金庫だった。


「何か思い当たるか?」


 様子を見ていた甲鐘が、ロックを目にしながら尋ねる。四桁の番号を入れるダイヤルを、彼は何気なく、母親の誕生日に並べ替える。続いて、母親の誕生年を入れたり、誕生日を逆順に入れたりと、思いつく限りの番号を試してみた。しかし、いずれの数列でも箱は閉ざされたままだった。


「四桁……誕生日は?」


「もう、試しました。すみません、他にはもう……」


「いや。キミの母親の誕生日ではなく……」


 甲鐘が、言いかけた言葉を切る。その先にどんな言葉が続くはずだったのかは、十条九にも理解できていた。しかし、彼の指はなかなか動かなかった。もし、「それ」でこの箱が開いてしまったら、自分がどんな反応をすればいいのかが、彼には分からなかったのだ。


 しばらく迷った後で、十条九は再びダイヤルを回す。そして、その数列が彼の誕生日に合わせられた瞬間、カタリ、と小さな音を立てて、鍵が開いていた。


「……どうして」


 思わず、そんな疑問の言葉が口を突く。十条九は、その答えを求めるように、箱の中を覗き込んだ。


「……これ、は」


 一冊の通帳と、古ぼけた手帳が、ポツンと収まっている。通帳を開いてみると、何のための金なのか、それなりの額が毎月記帳されていた。金庫の中に収められる物としては、妥当だと納得し、十条九はそれに並んでいた手帳を手に取った。


「……母子手帳だな」


 捲られたページを見て、甲鐘が口にする。それを聞いて、ボロボロになったカバーを外してみれば、確かにその表紙には十条九の名が記されていた。


「母子手帳……ですか?何で、こんな物をわざわざ……」


「十条。もう、分かるだろ?」


 静かな声で言いながら、甲鐘が目を細める。だが、それでも十条九は認められなかった。例え、昔の住居の鍵を未だに持ち続けていたとしても、暗証番号に自身の誕生日が使われていたとしても、こんな手帳を大事に取っていたとしても──十条九が一人になったあの日、彼の引き取りを拒んだという事実に、変わりはない。


 どこか鬱屈とした感情のまま、十条九は特に意味もなく、パラパラとページを捲っていた。育児や成長過程の記録は、生後数年の間には書き込みが多いものの、歳が大きくなるにつれて、段々と減っていく。後半のページにいたっては、空欄が目立った。だが、最後の数ページ、予備欄と称された自由記載のページに、何かの書き込みがあるのを見つけて、十条九は手を止める。


 他と比べて、幾らかインクの新しい文字。そこにたった一言──「今は無理でも、絶対に迎えにいく」と記されているのを見た瞬間、十条九は自らの口元を覆っていた。


「……十条?」


 いつの間に膝を折ったのか、十条九自身にも分からなかった。力の抜けたようにその場へとへたり込んだ彼の隣に、甲鐘は不安げな顔のままで屈みこんだ。


「……母さんは」


 何かに耐えるような表情で、十条九は小さく口を動かした。


「母さんは、俺のこと忘れてなかったんだ」


 開かれたままの母子手帳を撫でながら、彼はついに、そう認めた。


「通帳を見る限り、金銭的な理由だったのかもしれないな。キミを引き取り、共に生活するだけの余裕がなかった。だから、キミの引き取りを拒まざるを得なかった。実際の理由は断定出来ないが……それでも確かに言えるのは──キミは、拒絶されていたわけじゃなかった、という事だ」


 甲鐘が、静かに口にする。それを耳にした瞬間、堪えていたはずのものが、堰を切って溢れ出していた。抑えきれなくなった嗚咽に紛れて、零れた水滴が手帳の上へポタポタと落ちる。十条九は、何かに耐えるように、歯を食いしばっていた。


「なんで……なんで、それを言ってくれなかったんだよ……!?なんで、会いにきてくれなかったんだよ……!?それを知ってれば、俺だって……!」


 自分は、誰かに思われていた。たったそれだけの真実が、十条九にとって──独りで生きてきた彼の人生にとって、計り知れない救いだった。しかし、だからこそ彼は、それを知るのが遅すぎたという事実に、苛まれていた。


「どうして俺を一人にしたんだよ!?俺は、ただ……居てくれるだけで、よかったのに……」


 伝えるべき相手を失った言葉が、虚しく響く。疼痛が湧きあがる胸に爪を立てながら、それでも十条九の喉は、心情を吐き出していた。


「……『生きろ』、って……俺一人で、どうしろっていうんだよ!?一人で……どう生きろっていうんだよ……」


 もはや、涙で何も見えていない目で、彼は母親の遺した手帳を睨む。不意に、その視界が、何かに塞がれた。


「……十条」


 名を呼ぶ声が頭の上から聞こえて初めて、十条九は自らが、甲鐘に抱き寄せられている事に気付いた。まるで母親の胸に抱かれる子供のように、彼の体は何の抵抗もなく、そこに収まっていた。



「残される方は、つらいよな」



 その一言で、十条九は耐える事を放棄した。甲鐘は、感情のままに泣き喚く十条九が声を上げなくなるまで、彼の体を抱えていた。




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