〈10〉
―10―
銃口を自身に向けた時、恐怖を感じなかったと言えば、全くの嘘になる。だが、死の切っ先を自らに突きつけた瞬間、それにも勝る感情が、十条九の中にあったのは事実だ。それは、ある種の責任から解放されるような──すなわち、「ようやく自分の番が来た」という、安堵にも似た感覚だったのである。
飛行機事故の時も、学校が襲われた時も、彼はどういうわけか生き残ってしまった。自分よりも生き残る価値がある人がいたはずなのに、自分は彼らを犠牲に、死にそびれてしまった。
生き残ってしまった罪悪感を、死に損なった悔恨を、十条九は今まで抱えてきた。今すぐにでも楽になりたいという消滅願望と、犠牲の中で得た命を無為には出来ないという重圧の鬩ぎ合いの中で、かろうじて彼は生きてきたのだ。
だが、十条九の置かれている状況は、そのバランスを破壊した。他者の命が危険に曝されている、そして自身の命を差し出せばそれが助かるという現状は──今、この場で死ぬ事は赦されるのではないかという、誘惑に他ならなかったのだ。
もし自分が行動を起こさなかったせいで、誰かが死んでしまったら。誰かが犠牲になって、自分が生き残ってしまったら。これ以上の罪悪感を抱えては、生きていけない。その恐怖に背を押されるようにして、十条九は、引き金を引いた。
──ボタボタと、夥しい量の血液が、音を立てて床に落ちる。
人一人が死ぬのには十分な量の、赤黒い液体。それが、水溜りのように広がっていく。
「な……なんで……」
零れる、困惑の声。だが、わなわなと震える唇から、その言葉を吐いたのは──他でもない十条九だった。
「な……んで……なんでだよ……!?」
銃を握った手は、彼の側頭部ではなく──
目の前に立っている、彼の母親の胸に向けられていたのだ。
ゴポッ、と粘液質な音を立てて、彼女の口から血が溢れ出る。その手には息子の手が強く握られており、銃口を自分の胸に押し当てていた。十条九が目を閉じて引き金を引く瞬間、彼女は咄嗟に飛び出し、その銃口の先を自らの方に逸らしたのだ。
「……どうしてっ……!!」
全身の震えが、止まらない。十条九は目を大きく見開きながら、掠れた声で何度も呟いた。気管に血液が入ったのか、彼女は大きく咳き込む。吐き出された血液が、十条九の頬を汚した。まだ死んでいないことが、奇跡のような状況である。意識を保っていられるのが、おかしいほどだ。だが、彼女はすでに見えていない目を十条九の方に向けながら──
ゆっくりと、微笑んだ。
「……母、さん……」
見開かれた十条九の目から、ボロボロと涙が零れ落ちる。自分の手を握る力がだんだんと弱くなっていくのを感じながら、彼は母親の顔を見つめていた。
「……今度は、間に合った」
もう、呼吸も、心臓さえも止まっている。それでも彼女は意識を手放さず、息子へと笑いかけていた。それは、一体どれだけの苦痛を伴う行為なのか。何が彼女をそこまで突き動かしているのか。分からないまま、十条九はただ、立ちすくんでいた。
「あなたは、生きなさい」
肺に残った空気を全て吐き出すようにして、掠れた言葉が告げられる。そしてそれを最期にして、彼女は十条九にもたれかかるように、絶命した。
「────あ」
倒れた母親の体を抱きとめて、十条九はその場にへたり込む。金属の音を立てて、拳銃が床に落ちる。
「あ……ぁっ……ッ!!」
息が、出来ない。前が、見えない。まるで平衡感覚が狂ってしまったかのように、自分が立っているのか、倒れているのか、そんな事も判別出来ない。ただ鼓膜の奥で、自身の血流が、心臓の音が、煩わしく響いている事だけが、確かな事実だった。
「……っ、く、あぁぁぁッ!!」
胸の奥から、全身を軋ませるような疼痛が湧き上がる。体が内側から引き千切られるようなその痛みに、十条九は何度も爪を突き立てた。掻き毟られ、捲れ上がった皮膚からは血液が溢れ出し、彼の母親のものと、混ざり合う。自傷の音と、彼の上げる悲鳴だけが響く廃墟の中、彼以外に音を立てる者は、誰もいない。そんな沈黙に、不意にこらえ切れなくなったと言うように、トーマは嘲笑を上げ始める。
「うっははははは!何だコレ!?スッゲー、流石にこの展開は読めなかったわ!」
耳障りな笑い声に、『運び屋』は射殺すような視線を向ける。そんな事は気にも留めず、トーマはツカツカと十条九の方に近づいた。
「で?どうだよ、人を撃ち殺した気分は?え?」
わざとらしくニヤニヤと笑みを浮かべながら、彼は十条九の顔を覗き込む。砕けそうになるほど歯を食い縛り、喉の奥で悲鳴を殺した後で、十条九は視線を返した。
「……しろ」
「あ?」
「その子を解放しろっ!今すぐにッ!」
すでに嗄れた喉から、絞り出すように声を張り上げる。トーマは降参の意を示すように片手を上げると、やれやれと首を振った。
「オーケーオーケー、分かったから、がなるなっての。」
だるそうな口調で言うと、彼は自分が抱えていた少年を見下ろす。衰弱が激しいのか、少年はすでに泣き声すら上げていなかった。それを見た瞬間──トーマの顔に、残忍な笑みが張り付いた。
「じゃあ、解放してやるよ。ほらっ!!」
少年の体が、トーマの手を離れる。だがそれは、単に彼が少年を手放した、という意味合いではない。トーマは、放り投げたのだ。右手に抱えていた少年の体を、勢いよく、それこそ目視など出来ない速度で、十条九の後方へと放ったのだ。何かが破裂し、飛び散る音に、十条九は恐る恐る振り返る。そして、10メートル以上も後方の壁に、数秒前まで少年の形をしていたはずの肉塊が叩きつけられ、中身を撒き散らしている様を、目撃した。
「お前っ……!」
『運び屋』が、歯軋りの音を立てながらトーマに憎悪の目を向ける。怒りに震えるその体は、もし脚が動くのなら、飛び掛らんばかりの勢いだった。
「あー、ワリィワリィ、勢い余っちまったわ。ごめんごめん、次は気をつけマース」
悪びれた様子もなく、むしろ調子づいたように言いながら、ひらひらと手を振る。それを背で聞いた十条九は、両腕に抱えていた母親の体を、静かに横たわらせる。
「……ふざけんな」
小さく溢した後で、血に汚れた十条九の手は、拳銃を拾い上げる。
「……これじゃ……何のために……」
力ない膝が、起こされる。震える体を強引に立ち上がらせ、十条九は憎悪を秘めた視線で、目前の敵を睨み付けた。
「何のためにッ!!」
腹の底から絞り出された怒号と共に、銃口が素早くトーマに向けられる。しかし、指先が引き金に掛けられることはなかった。それよりも先に、トーマの軽い蹴り一つで、拳銃は彼の手からはね飛ばされていたのだ。
「そりゃ、お前のためだろ。いや、お前のせい、って言った方がいいのか?」
振り上げられた足が、そのまま十条九の腹部へと叩き込まれる。鳩尾を踵で蹴られ、息もできないまま十条九は後ろに吹き飛ばされた。相当加減しているらしいが、それでも彼の体は2、3メートルほど床の上を転がる。十条九はその激痛に腹部を押さえ、空気を求めて喘いでいた。
「ぶっちゃけさ、お前、あのガキが助かるかどうかなんて、どうでもよかったんだろ?」
十条九を見下ろす格好で、トーマは肩をすくめてみせる。返す言葉もなく、十条九は呻きながらそれを睨み返していた。
「お前が自殺という手段を取ったのは、ガキを助けたかったからじゃねぇ。自分の手を他人の血で汚したくなかったからでもねぇ。ただ、テメェが、死にたかった。生き残りたくなかった。それだけだろ」
目を見開く十条九を、トーマは「図星か?」と嘲笑う。反論の言葉が出なかったのは、激痛で息が詰まっているせいだけでは、なかった。
「ちょっと考えれば、オレが約束を違える可能性くらい、想像ついたはずだ。けど、そんな事どうでもよかったんだろ?お前はただ、ガキを助ける事に託つけて、死にたかっただけだ。争いを止める事を理由にすれば、死ぬ事が赦されると思っていただけだ。そんなの正当化でも何でもねぇ、ただの屁理屈だってのによ」
呆れたような顔で、トーマは床に転がる遺体を見下ろす。
「だから、『お前のせい』だ。お前のそういう弱さが、ズルさが、ガキもこの女も殺したんだ。ハタ迷惑な、死にたがりの、クソザコヤロー」
鼻で笑いながら、トーマは爪先で、遺体の頬を何度か突く。その瞬間、体中の血液が沸騰し、逆流した。自らを罵られた事に対してではなく、辱められた母の死に対して、十条九は拳で床を叩き、起き上がる。痛みを意地だけで抑え込み、彼は闇雲な動作で、しかし跳びかかるような勢いのまま、トーマに向かって腕を振り上げた。
だが、素人同然のそんな拳が、吸血鬼に届く事はない。トーマは半歩程度の動きでそれをかわすと、十条九の足を払った。そのまま、自らつけた勢いで十条九は転倒し、顔面から床へと叩きつけられる。派手な音を立てて顔を強打したその瞬間、痛みと衝撃で視界が明滅し、鼻の奥で鉄のような臭いが、ツンと広がった。
「向かってくる気力があるなら、最初からそうしとけっての」
鼻から零れた血液を、乱雑に手の甲で拭いながら、十条九はもう一度立ち上がる。だがその刹那、トーマは彼の尾骶骨辺りを蹴り飛ばした。勢いよく前のめりになった十条九の体は、再び無様に床へと沈む。
「それこそ、お前が銃を手に取った時点でオレに向けていれば、何か変わってたかもしれねぇのに。ガキはまだしも、女の方が死ぬ事は、少なくともなかっただろうよ」
痛みに顔を歪ませているのか、怒りに歯を食いしばっているのか分からないまま、十条九はもう一度立ち上がろうとする。そんな彼のことを、トーマは何も感じていないような表情で、再び蹴り倒した。
「ああ、でも無理か。テメーみたいなザコじゃ」
まだ立ち上がろうとする十条九の髪を、トーマは鷲づかみにする。その顔を覗き込みながら、彼はニンマリと、歪んだ笑みを浮かべた。
「覚えとけ。弱さは人を殺すんだよ。いい社会勉強になったな!あっはははは!」
涙と血液で汚れた顔で、それでもなお睨む十条九を、トーマはさもおかしそうに嘲笑する。彼は掴んでいた十条九の髪を離すと、再び腹部を蹴り飛ばした。
「人間にしちゃ、ずいぶん笑わせてくれるな、お前。ほら、悔しかったらやり返してみろよ!?え!?」
何度も何度も、彼は十条九を蹴り飛ばす。倒れては立ち上がろうとする十条九を、怒りに震えて拳で床を殴る彼を、トーマは笑いながら蹴り続けた。わざと加減して、十条九が壊れてしまわないように何度もいたぶる。そうやって、彼は十条九の無力感を辱めていた。
繰り返される暴力の音が、廃工場へと響いている。屈辱と、痛みに喘ぐ十条九の声が、雨音に紛れている。そして──それを押し退けるような絶叫が、突如として別の場所から響き渡った。
「……あ?」
トーマは、緩慢な動作で振り返る。直後、その先の光景に、わずかながら目を見開く。
糸が切れた人形のように、倒れ伏す五人の吸血鬼。床へと広がる、黒い色をした血溜まり。そして──その中央に立つ、銀髪の女性。
その場にいた全員が、十条九とトーマのやり取りに、気を取られ過ぎていた。故に彼らは、工場内に一人分の気配が増えた事へと、気付くのが遅れていたのだ。先ほどまで争い合っていた人々も、トーマの配下にある吸血鬼たちも、突如として現れたその人物を前に慄き、距離を取る。視線を一身に集めながら、彼女はゆっくりと歩を進めていた。
「お前は……確か……」
その姿に、トーマは見覚えがあった。以前見たときには戦闘服を着ていたが、目の前の人物は、明らかにあの飛行場の夜、交戦した女性だった。
「コウガネさぁん、だったかなぁ?」
忌々しそうに、トーマはその名を口にする。ICSA日本支局、甲鐘部隊隊長──甲鐘彩夏は、応じるように前へ出た。
「甲鐘……どうしてここが……」
目の前の光景が信じられず、『運び屋』は驚愕の目で彼女のことを見上げた。この雨の中を走ってきたためか、髪の毛から水滴を滴らせている彼女は、しかしどう見ても普段着のままだ。武装もなく、だが彼女が発する空気は、その場にいた全員を圧していた。
「話は後だ。先に、こいつらを片付ける」
静かな口調で、彼女は答える。その静謐さと反するように、彼女の体からほとばしる怒気と殺気は、素人目で見てもわかるほど、強烈なものだった。
「下がってろ」
彼女が短く口にした瞬間、人々は緊縛から解き放たれる。蜘蛛の子を散らすように、彼らは散り散りになって、出口へと駆け出した。すぐさま吸血鬼たちが追おうとするが、その前に甲鐘彩夏が立ちはだかる。濡れた前髪の間から覗く瞳は、怒りで爛々と輝いていた。瞬間、本能的なところで危険を察知し、彼らは身動ぎできなくなる。
「あの時のオッサンは、いねぇみたいだな。ホントに一人でここに来たのか?その格好で?ろくな装備もなく?頭おかしいんじゃねーの。どれだけお前が強かろうが、物量的に、物理的に、勝ち目ねぇだろ。時代劇じゃねーんだから。……おら、ボサっとしてんな!囲め!」
トーマがそう叫んだ瞬間、吸血鬼達は遠巻きに、甲鐘を取り囲む。総勢、二十人近い人数による包囲。加えて、相手は人間の身体能力を遥かに凌ぐ吸血鬼だ。一対二十という物量差を、戦力差を考えるまでもなく、まともな戦闘になろうはずがない──そう分かっていながらも、吸血鬼達の額には、得体の知れぬ冷や汗が浮かんでいた。
「やれ」
トーマの声と共に、彼らは一斉に距離を詰める。しかし、二十人近い人数を相手に、甲鐘は眉一つ動かさない。吸血鬼達の挙動と同時に、彼女の足は素早く地を蹴った。向かい来る吸血鬼の一角を目掛けて、応じるように駆け向かう。その瞬間無数の手が、彼女に向かって差し伸ばされる。その一つ一つが、人体を叩き折る怪力を持つ腕。頭蓋など訳もなく握りつぶす掌だ。
──だが、高速で迫るそれらを、甲鐘はくぐり抜ける。腕と腕の間を、体と体の間隙を、彼女はかい潜る。わずか寸瞬の間、一呼吸の内に、彼女の体は包囲の外へと脱していた。
「なっ──」
まるで、行動を先読みしたかのような、正確すぎる動作。吸血鬼達は息を呑み、自分達を振り切った彼女の姿を、視線で追いかける。だが、その瞬間には全てが遅かった。刹那、切り返した甲鐘の手が、銀の軌跡を描く。その手に握られていたのは、武骨な刃──サバイバルナイフだった。
「がッ!?」
半円を描くように振られたナイフが、手近にいた男の両の目を断つ。視界を奪われ、顔を押さえる男を、そのまま彼女は蹴り飛ばした。痛みにもがき、のたうつ男の体は、後続の吸血鬼達に勢いよくぶつかり、もつれてバランスを崩させる。次の瞬間には、よろめいた男三人の首を、甲鐘のナイフが切り裂いていた。
「っ、この!」
背後から飛び掛ってくる男の腕を、振り返りもせずにかわす。その足を払い、前のめりになる男の後頭部にナイフを突き刺し、彼女は男の体を叩き伏せた。
一連の動作には、一切の無駄がない。今この数秒足らずのやり取りで、同胞四名の命を奪った人間に、吸血鬼達は狼狽えていた。規格外の動き、そしてあまりに躊躇いのない挙動に、トーマは「この間は本気出してなかったんじゃねーの」とぼやく程だった。
手元の死体からナイフを引き抜き、甲鐘は立ち上がる。たったそれだけの動作で、幾人の吸血鬼が後退りしたことだろうか。彼らは、理解していた。とうに、「狩る」側と「狩られる」側は逆転している。この女性は、今まで自らが獲物にしていた人間とは、次元が違う。紛れもなく、自分達を屠る存在だ。
殺さなければ、殺される。その強迫観念に背を押されたのだろう、遠巻きに甲鐘を警戒していた吸血鬼の一人が、堪えきれなくなったように、彼女を目掛けて駆け出した。それに呼応するように、他の吸血鬼達も後に続く。各々が手に廃材を抱え、咆哮を上げながら、甲鐘へと立ち向かっていく。それはもはや、理性を失った獣の群れだった。
だが、恐怖に駆られた程度の行動では、彼女に触れる事すら叶わない。自衛のための本能だけで出し抜けるほど、甲鐘彩夏という人間は易しくなかった。
群れを成して襲いくる吸血鬼、その一人の眉間に向かって、ナイフを投げ放つ。それが頭蓋を刺し貫くのと同時、甲鐘はもう一人の攻撃をかわし、背後へと回り込む。そのまま頭部を掴み、捻って頚椎を折りながら、彼女は絶命した吸血鬼の体を盾に、振り下ろされる無数の廃材を防いでいた。
掴んでいた男の頭部を離し、死体に突き刺さったナイフを引き抜きながら、続けざま、数人に切りつける。金属が肉を断つ音と、事切れた吸血鬼が地に倒れる音が、絶え間なく鳴り響く。数分と経たない押収の後、彼女の周りに立っている吸血鬼は、片手で数えられるほどの人数になっていた。二十人近くの吸血鬼が、たった一人の人間に圧倒されている。決して、彼女の動きが吸血鬼たちの速度を上回っていたわけではない。ただ、その動きが恐ろしいほどに正確だったのだ。
「あー、やめだ、やめ。やっぱそいつ、お前らじゃどうにもならねぇわ」
それでも尚、甲鐘と対峙する吸血鬼達に向かって、トーマが制止の声を投げ掛ける。彼らは主の言葉で一瞬の正気を取り戻すと、再び甲鐘から距離を置いた。
「人間の戦闘技術が、吸血鬼の戦闘能力を上回る、か。ったく、とんだ化け物だな。まあいいや、オレが相手してやるよ。この『右腕』を使ういい機会だしな」
トーマが、不敵に口角を上げる。瞬間、その体からは殺気めいた迫力が立ち上った。だが、甲鐘はそれを平然と受け流す。ナイフを前方に構え、姿勢を低くし、彼女は目前の敵を睨んでいた。
「さて。んじゃ、始めるとするかァ!!」
吼えるのと同時に、トーマは自らの右手を、床へと突き立てた。人外の怪力を持つ右腕は、豪雷の如き音を打ち鳴らしながら、アスファルトの床を易々と貫く。そのまま彼の右手は、スコップのように抉り取った無数の欠片を、甲鐘目掛けて投げ放った。大人の拳程の大きさもある破片は、豪力によって銃弾のような速度を獲得し、人体など容易に破砕する凶弾として、甲鐘へと迫る。
それを、甲鐘は避ける。まるで降り注ぐ雹の如き破片を、彼女は足運びだけでかわしきる。だが、甲鐘が回避したアスファルトは、その背後に立っていた吸血鬼の顔面へと直撃し、頭部を四散させる。アトランダムに飛来する凶弾の数々は、彼女の周りにいた吸血鬼達までも無差別に襲っていたのだ。
「仲間はお構い無しか」
忌々しげに、甲鐘が呟く。それを、トーマは鼻で笑い飛ばした。
「仲間、ってか、部下?配下?みてーなもんだろ。まあ──オレの役に立てば、何でもいいよ」
その、直後の事だった。唐突に、甲鐘の背中に何かがのしかかる。先ほどの一撃で頭部を破砕された吸血鬼が、その死の間際に、目の前にいた甲鐘の体に凭れ、掴みかかったのだ。
「っ……!」
頑強な吸血鬼の腕から逃れようと、甲鐘が身をよじる。それを見て、トーマは口角を上げた。
「は~い、スキありッ!!」
トーマが、右腕を振り上げる。瞬間、たったそれだけの動作で、空気が揺れた。『女王の右腕』──それは、大地を割るほどの怪力を持つ、『女王』の遺品の一つだ。その力は、たとえ掠めた程度の衝撃でも、充分に人体を霧散し得る。直撃でもすれば、もはや生命の痕跡すら残らないだろう。
弾けるような速度で、トーマが駆ける。『右腕』を掲げ、彼はそれを、回避する手段を持たない甲鐘目掛けて、振るおうとしていたのだ。
「────」
だが、甲鐘の表情に焦りが生まれる事はない。眼前にどんな驚異が迫ろうとも、彼女は至極冷静だった。甲鐘は、着ていた上着から両腕を引き抜き、脱ぎ捨てる。自らを拘束する吸血鬼の腕を、彼女は自身の上着ごと引きはがしたのだ。そのまま甲鐘は、これまで自身を拘束していた腕へと、逆に掴みかかる。そして体さばきで以て、自らより一回りは大きいであろう吸血鬼の体を、目の前へと放り投げた。
「っ、クソが!」
進路を阻まれたトーマは、飛来したそれを、やむなく右腕で払い除ける。その、直後だった。
「なっ──!?」
トーマが、驚愕に目を見開く。払い除けた吸血鬼の体、そのすぐ後ろから、ナイフを構えた甲鐘が直進していたのだ。その切っ先が、眼前数センチのところまで迫った瞬間、トーマは全力で後ろへと跳びのける。本能的に5メートル近い距離を跳躍し、積み上げられた機材の上へと着地した彼は、腹立たしげに舌打ちをする。
「っ、危ねぇな」
驚嘆すべきは、その卓越した戦闘技術だけではない。『女王の右腕』、その驚異を理解していながら、トーマの懐へと踏み込んでくる迷いのなさ。それは、至近距離でのやり取りに絶対的なアドバンテージを持つはずのトーマを、圧倒するほどのものだった。
対する甲鐘は、平然とした様子でナイフを構え直す。呼吸の乱れすらもないその様に、トーマは眉根を寄せた。
「随分と余裕そうだなぁ。この程度何ともねえってか?あぁ!?」
苛立ったように吼えた後、トーマの体が跳ね上がる。獲物に跳びかかる獣の如く、先ほどよりも更なる速度で甲鐘へと迫る。
「甲鐘!使え!」
その時、『運び屋』が何かを放り投げた。背後から飛来するそれを、甲鐘は振り返りもせずに掴みとる。その手に収まったのは、先ほどまで十条九が握っていた、拳銃だった。流れるような動きでそれを前方へと構えると、甲鐘は寸瞬の間もなく引き金を引く。
「はっ!今更こんなもん……!」
トーマは、左腕で頭部を庇うようにしながら突っ込んでくる。片腕を、犠牲にするつもりなのだ。甲鐘が続けざまに撃ち込んだ五発の弾丸は、全て左腕によって阻まれる。彼はそのまま、甲鐘と数歩の距離にまで肉薄していた。
「今度こそ死ねっ!!」
甲鐘の眼前に迫ったトーマは、怪力を誇る右腕で、彼女の首を狙う。だが、それが甲鐘を横薙ぎにすることは、適わなかった。迫り来る剛腕を、空気さえ震わせる一撃を、彼女は足の動きだけでかわしてみせたのだ。それどころか、彼女はそのやり取りの最中にナイフを投げ捨てると、左手でトーマの胸倉へと掴みかかる。
「なにっ……!?」
強引に、力づくでトーマの体を引き寄せる。そのまま甲鐘は右手に持っていた拳銃の先を、殴るような勢いでトーマの胸に押し当てた。
「いい加減、黙れ」
冷酷な口調と共に、拳銃の中に残っていた二発の弾丸が撃ち込まれる。瞬間、トーマの口の端から、黒い血液があふれ出した。
「が……ハッ……」
胸の中心からも同様に血を溢しながら、トーマの体はよろめく。だが、彼の目からはまだ生気が消えていなかった。
「……ッ!」
咄嗟にトーマが掴みかかろうとしているのに気づき、甲鐘はトーマの体を蹴り飛ばした。その反動を利用し、彼は甲鐘から距離を取る。肩で息をしながらも、彼は未だ生存したまま、睨むように目を細めていた。
「ゼロ距離で撃ち込んで、心臓に届いていないだと……?なんて硬さだ……」
舌打ちと共に、残弾のなくなった拳銃を捨て、彼女は再びナイフを構える。だが、対峙するトーマの表情に、既に戦意はなかった。胸の傷を押さえたまま、彼はやれやれと首を振る。
「……あーあ、やめだ、やめ。なんか、アレだ。冷めた。よく考えたら、これ以上やりあっても、オレに何の得もねえし。ってか、無駄足どころか大損してるし」
死体として床に転がる吸血鬼達を眺めて、トーマはため息を吐き出した。
「本当、くだらねえ遊びに時間使ってねぇで、さっさとやる事やっときゃ良かったな。ちょっと反省……」
肩をすくめながら、トーマの視線がチラリと十条九の方へと向けられる。その、一瞬だった。
「──黙れと、言ったはずだ」
ひどく冷たい声が響いたのは、トーマのすぐ目の前。瞬き一つほどの刹那に、甲鐘はトーマとの距離を詰めていたのだ。
「なっ──!?」
避ける間も、防ぐ暇もない。甲鐘のナイフが一直線に、突き出された槍のような勢いで、トーマの顔面へと迫る。
直後、金属の甲高い音が、周囲へと響き渡る。トーマはかろうじて刃に噛みつくと、それを受け止めていたのだ。
「っ、この……!」
トーマは呻きながら、即座に甲鐘に向かって掴みかかろうとする。だが、その時には全てが遅かった。最初から攻撃を止められる事を想定していたかのように、彼女はナイフから手を離す。
そして、洗練された速度で体を捻った直後、トーマの口に咥えられたままのナイフの柄を、思い切り殴り飛ばした。
「ゴッ……はッ……!!」
喉の奥にナイフが突き刺さり、黒い血が大量に噴出する。その一撃でよほどの衝撃を受けたのだろう、ナイフは噛み砕かれ、バラバラと床の上に転がった。その瞬間、トーマは目の色を変えながら、余力を全て使って大きく飛びのく。驚愕の面持ちで、彼は眼前に立つ人間に、目を剥いていた。
鬼気、と呼ぶべきだろうか。吸血鬼である彼を、その中でも頂点に立つはずのトーマを圧するだけの死の気配が、目の前の人間から立ち上っている。この人間との押収が、確実に自身の死を招く事を気取ると、トーマは迷いなく、甲鐘に背を向けた。
即座にその挙動に気付いた甲鐘が、後を追うべく足を踏み出す。だがそれを読んでいたように、トーマは再び右腕を、床へと突き立てた。剛腕に砕かれたアスファルトが、粉塵と共に舞い上がる。恐らくは、目眩ましのつもりなのだろう。視界を阻まれて尚、甲鐘はその中へと突き進もうとするが、しかしその先の通路が完全に破壊されているのを見て、立ち止まった。
「……さすがに、これで追いかけるわけにもいかないか」
視線を落とし、折れたナイフを眺めた後で、彼女はそれを服の内ポケットにしまい込んだ。その手で携帯電話を取り出すと、耳元に当てる。
「甲鐘だ。……ああ、二人は保護した。すぐに、医療班を頼む」
短い通話を済ませる片手間、甲鐘は『運び屋』の方に足を向ける。その隣に屈み込み、『運び屋』の傷口を塞ぐ布切れを縛り直すと、溢れていた血液がそれで止まった。
「動けそうか?」
「ああ。俺のことはいい。それより……あいつを頼む」
『運び屋』は苦い顔をしながら、視線を下げる。それに頷き、立ち上がった甲鐘は、ゆっくりと後ろを振り返る。その先に、一つの遺体の前で、表情もなく俯いている少年の姿を認めると、彼女は歩み寄った。
もう動く事のない母親の手に、十条九はそっと触れている。すでに、その死から幾らかの時間が経ってはいても、そこにはまだ生前の温度が残っていた。それが妙に生々しく、現実味を伴って圧し掛かってくるのを、彼は目を閉じながら耐えていた。
「……甲鐘さん」
背後から聞こえてくる足音に、十条九は振り返る事なく呼びかける。銀髪の女性は、応じるように、彼の横に屈みこんだ。
「話は、『運び屋』から聞いた」
それ以上を言う事はなく、甲鐘はただ、十条九の隣にいた。
「俺の……母親だったんです」
小さな声で、彼は独白する。『母親だった』、というその表現に違和感を覚えると、甲鐘は意味を問い掛けるように、十条九の顔を覗いた。
「小さい頃、両親が離婚して……俺は、父親の方について行ったんです。だけどその後、父も再婚相手も両方死んだ。俺に保護者がいなくなった時……この人は、俺のことを引き取るのを、拒んだんです。だから、もう俺には母親なんていないんだと、ずっと思ってた。なのに……何で、今更……」
言葉を途切れさせ、十条九は唇を噛んだ。それにどう応じればいいのか迷いながら、甲鐘は沈痛な表情で、横たわっている彼の母親に視線を落とした。
「すまない。謝ればいい問題ではないだろうが……来るのが遅すぎた」
静かな声で言いながら、彼女は拳を握る。そこに、先ほどナイフを殴って腫れた痕を見てから、十条九は黙って首を横に振った。
「甲鐘さん、今日は任務のない日だったんですね」
甲鐘の服装に目をやりながら言うと、彼女は困ったように顔を伏せる。
「なのに、わざわざ俺達のことを探し回ってくれた。そういう、事ですよね」
「……礼ならオペレーターに言ってくれ。あいつが、車の無線が途絶えた位置や、監視カメラの映像、周囲の建物を割り出して、ここを特定したんだ。私はただ、偶然その近くにいただけだ」
彼女は頭を振って答える。それから、何かを思い出すように目を細めた。
「珍しいくらい、あいつが取り乱していたよ」
「……そう、ですか」
小さく、呟くように答える。だがその表情はやはり虚ろで、十条九はどこか上の空だった。生気のない、光を失くした目で、彼は未だ母親の亡骸を見つめている。目の前の現実以外に目を向けられる余裕など、彼は持ち合わせていなかったのだ。
「……なあ、十条。一つ、残酷な事を聞くのを、許してくれ」
悄然とした十条九に、甲鐘は一瞬だけ悲しそうな視線を向ける。それから彼女は、意を決したように問い掛けた。
「知らないままで傷つくのと、知ることで傷つくのと、キミはどちらを選びたい?」
尋ねられている事の意味が分からず、十条九は何も答えない。甲鐘はその傍らで、何かを探すように、遺体のポケットに手を入れる。
「吸血鬼がらみの事件で亡くなった者は、ICSAの隠蔽で、表向きには事故死や病死ということで片付けられる。そして、その人の所有物や住居は、その隠蔽のために処分されることがある。その前に……」
取り出されたのは、安っぽい革製のキーケースだった。それで初めて甲鐘の意図を理解すると、十条九は顔を上げる。
「キミの母さんの、真意を知りたくはないか?」




