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傾けられたグラスから唇へと、赤黒い液体が運ばれる。その中身を飲み干すのと引き換えにするように、料理を褒め称える言葉が、嘆息と共に紡がれた。
「流石ですね。腕が全く衰えていない」
口元をナプキンで拭いながら、賛辞を呈する。応じるように、整った動作で頭を下げたのは、漆黒のタキシードに身を包んだ老人だった。その姿は、洋館を思わせる巨大な食堂と相まって、童話の登場人物のようだった。
「勿体なきお言葉。お褒めに預かり光栄です。ダン様」
顔を上げながら、老人は上品に微笑む。それを見ると、黒衣の吸血鬼──ダンは、困ったように眉を上げた。
「楽にしてください、爺や。他の者の前ならまだしも、今は私とあなただけ。そう畏まられると、私も少し息苦しいのです」
「ご厚意は有り難く頂戴いたしますが、ご容赦ください。これも性分。そして、私の立場もございます」
老人の言葉に、ダンは訳知り顔で、仕方なしに頷く。その合間に、老人は空になったグラスを、葡萄酒で満たしていた。
「しかし、何年振りでしょうね。こうして、あなたと一対一で語らうのは。あなたの振る舞う料理を、ここまで懐かしく感じる日が来ようとは、思いもしませんでした」
「もう、十年は前になりましょう。もっとも私は、あなた方の教育係を務めていた頃の記憶を、昨日の出来事のように思い出せますが。しかし、長生きはしてみるものですね。こうもご立派になられたあなた方の姿を、目にする事が出来たのですから」
目を細める老人を見ながら、ダンもまた微笑む。
「あなたは、先々代の『女王』の頃から従事されているのでしたね」
「ええ。没落する寸前だった私めを、先々代は拾い上げてくださったのです。もっとも、このような老体を未だに使っていただけるとは、思ってもみませんでしたが」
「老体などと、ご謙遜を」
小さく笑みを浮かべながら、ダンは再びグラスを手に取る。それと、食堂の扉が突然大きく開かれるのは、同時だった。バタバタと慌ただしく駆け入ってきた人物を見て、老人が軽く目を見開く。
「マユカ様、どうされたのですか。そのような格好をなされて」
「突然降ってきちゃって。おかげで下着までビショビショ」
困ったように舌を出し、襟元を指で摘まんで見せながら、マユカは苦笑する。長い髪からは雨粒が滴り、彼女の服を濡らしていた。薄い肌着のような服は彼女の身体にピッタリと張り付き、うっすらと中が透けている。
「すぐに、代わりのお召し物をお持ちします」
「んー?いいよ、別に。これはこれで、結構悪くないしね」
答えながら、マユカはその場でクルリと回って見せる。その様相に、ダンは眉をひそめていた。
「マユカ。年頃の娘が、そのような格好をするものではありませんよ」
「はいはい。ダンにぃ、顔合わせるといっつもそれだね」
悪態を吐く妹から目を逸らすと、ダンは窓の外へと視線を向ける。降り頻る雨を眺めた後で、「日本のこの季節だけは、慣れそうにありませんね」とぼやいていた。
「それより、リズねぇがどこにいるか知らない?」
マユカはダンの側まで歩み寄ると、その顔を覗き込みながら尋ねる。しかし、彼は首を横に振った。
「彼女を捕まえるのは、霧を掴むのと同じ事だと、ご存知でしょう?」
「そうだけどさ。ひょっとしたら、ダンにぃには行き先を言ってるかと思って」
そう口にすると、彼女はダンの近くの席に腰を下ろす。いつの間に運んできたのか、老人はその前に紅茶の入ったティーカップを置いた。
「ありがと。それにしても、当てが外れちゃったなー」
紅茶を口に運んだ後で、マユカは不満げに呟く。それから彼女は何かを思い出したように顔を上げると、ダンへと視線を向けた。
「あ、そういえば、トーマの奴がまた勝手してるみたいだよ?放っておいていいの?」
マユカは、椅子の上で膝を抱えながら首を傾げる。それを耳にするなり、ダンは呆れたようにため息を吐きながら、眉の間に手を当てた。
「詳しくは分かんないけど、ICSAの人達巻き込んでドンチャンやってるみたい」
「まったく、あの愚弟は……しばらくは動きを控えるように、忠告しておいたはずですが」
「あいつが、大人しく言うこと聞くわけないじゃん。素直じゃない子もそれはそれで可愛いと思うけど、ああいう風にバカっぽいのは好きじゃないな、私」
口を尖らせながら、マユカは再び紅茶を含む。傍らで、ダンは思慮に耽るように、顎先へ手を当てていた。
「トーマ様の奔放なところは、幼い頃より変わりませんね」
ダンの前に並べられていた食器を下げる片手間、老人が誰にともなく呟く。それに、ダンは頭を振った。
「奔放、などと。あれは、遊興で命を弄ぶ悪癖がある。それこそ、何の美学も、大義もなしに。無目的に、です。間違いなく、彼は誰かの上に立つべき器ではない」
ダンの瞳に、昏い光が宿る。そのまま席を立つ彼の事を、マユカは不思議そうに眺めていた。
「あれ?もしかしてダンにぃ、トーマとやり合うの?」
「いずれ、の話ですよ。ICSAの動向がある手前、迂闊に血族同士が争えば、そこを突かれる可能性があります。相当『使う』手練がいる事は、先日の飛行場で見せつけられたばかりですので。その辺りの分析を充分にした上で、私は臨みますよ。もっとも──少々痛い目を見てもらう事は、あるかもしれませんが」
端正なその顔に、不敵な笑みが浮かぶ。そのままの表情で、彼はマユカを見下ろした。
「あなたもですよ、マユカ。行動が目に余るようであれば、あなたの持つ『翼』を、一番初めの標的にするかもしれません」
「キャ~、コワーイ!爺や、助けて~!」
マユカは冗談めいた言葉を吐き、椅子の上でブラブラと足を弄びながら、老人を振り返る。だが、その視線の先で、彼は首を横に振っていた。
「私は、あくまで中立の立場ですので。特定の方に傾倒はいたしません」
「えー、意外とドライ」
不服そうに口を尖らせる彼女を傍目に、老人はダンの側へと歩み寄ると、コートとステッキを手渡す。受け取ったそれを身に着けると、ダンは自らの頭にハットを被せた。
「どの代でも、『女王』の血族は、次代の支配者の座をかけて争い合う。それを滞りなく執り行い、そして見届けるよう、私は先々代より仰せつかったのです」
「ふーん。どの代も、ね。一体、どこの誰がそんな事決めたんだか」
面白くなさそうに、マユカが呟く。それを聞きながら、ダンは帽子のつばに手をやり、視線を窓の外に向ける。
「……少し、荒れるかもしれませんね」
まだ降り止まない雨の音が、静かに鳴り続けている。それを尻目に、彼は部屋を後にした。




