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孤ノ影闘記 / Anti-Nexus  作者: 鰓鰐
第4章 禍殃―Childhood’s End―
46/58

〈8〉

 


 ―8―



 十条九の人生の中で、彼には母親と呼べる存在が、二人いた。当然ながら一人は彼の産みの母親であり、もう一人は父親の再婚相手、つまりは朝陽の母親である。


 どうして両親が離婚してしまったのか、当時幼かった十条九にはその全貌までは分からなかった。だが、目立ってこれといった理由が思い当たらなかった以上、性格の不一致だとか、そんなありふれた理由だったのだろう。


 親権を父親に取られ、彼は父親についていった。それ以来、彼は今まで一度も母親と顔を合わせたことはない。父親の葬儀があった時にも、彼女は顔を出さなかった。果たして前夫の葬式に顔を出すものなのかどうなのかは分からなかったが、ひどく鬱屈な葬式の会場で母親の姿を探したのを、彼は未だに覚えている。


 決定的だったのは、彼の二人目の母親が死んだときだった。跡を追うように母親が自殺したその時、叔父夫婦のいた朝陽とは違い、実質十条九には保護者というものがいなくなった。彼はその時、もしかしたら前の母親の元に戻れるのではないかと、淡い期待を抱いていた。


 だが、現実にそんなことは起こらなかった。彼の産みの母親は、自分の息子を引き取ることを拒否したのだ。経緯は、彼にも分からない。ただ、人伝にその話を聞いたとき、彼はもはや、自分と彼女との間には親子という関係が成り立つことはないのだということを悟った。


 やむを得ず、渋々といった形で、彼は世間体を気にした朝陽の叔父夫婦に引き取られた。血の繋がりも何もない家庭の中で、彼は今まで生きてきたのだ。そして、そんな仮初の家庭すら失くしてしまった彼は、現在に至る。



 何の因果か、七年越しの再会はこうして、渦中で結実した。こんな状況下のためか、彼女の方は十条九に気づいた様子はない。ただ十条九だけが、目の前の現実に、呆然と目を見開いていた。


「まさか、さっきオペレーターが言ってた……吸血鬼と交戦してた隊員って……」


『運び屋』は、息を呑む。車中でオペレーターに告げられた、十条九の母親を隊員達が保護しに向かったという通信。そしてその直後に、吸血鬼と隊員の交戦が発生し、十条九達はそれに巻き込まれた。もし、保護に向かった隊員達と、交戦になった隊員が同一の人物だとすれば──


「……あ?」


 ふと、トーマはジロリと、不快そうな視線を眼下へと向けた。たった今連れて来られた三人の人間、その中から唐突に、幼い泣き声が聞こえてきたのだ。見れば、まだ十代にも満たないであろう少年が、その中に混じっていた。


「何、このガキ?」


 眉の間に皺を寄せながら、トーマは少年の髪を乱暴に掴む。瞬間、泣き声には悲鳴が混じり、それを聞いたトーマは尚の事表情を歪め、手を離した。


「少しは『足し』になるかと思ったんですが……」


「小便臭ェガキの血を吸ったところでなぁ」


 吸血鬼の一人が弁解するも、トーマの顔色は変わらない。


「それに、こんなガキを吸血鬼にしたところで、戦力としちゃ何の役にも立たねぇだろ。……いや、考えようによっては、使い道もあるか……?」


 思索するように呟きながら、トーマは少年の顔を覗き込む。だが、迷う様子を見せたのは、束の間だった。トーマは唐突に、少年の胸倉を掴んで持ち上げる。少年は抵抗できずに、されるがままになっていた。


「いや、やっぱねぇわ。そもそもオレ、子供嫌いだったし」


「……トーマさん、何を……?」


 突然の行動にそう尋ねたのは、スキンヘッドの吸血鬼だった。今まさに、その右手を振り上げようとしていたトーマは、煩わしそうにそちらを振り返る。


「いや、殺そうと思って。泣かれるのウゼェし」


 それが至極当然の事のように、トーマが無表情で答える。さしもの仲間たちも動揺したのか、彼らはうろたえていた。


「あ、ガキの血でもいいから飲みたいって奴いるか?出来るだけ飛び散らねえように、チャレンジしてみっから。そんじゃ……」


「やめてください!待って!」


 トーマが右手に力を入れようとした時、突如として女性の声が張り上げられた。周囲の視線が向けられたのは、今まさに連れて来られたばかりの女性──十条九の、母親だった。


「……ったく、今度は何だよ」


 眼下の女性を見下すような目でめつけ、トーマは不機嫌そうな声を上げる。二度の中断を受け、彼は苛立ちをその表情に浮かべていた。


「そ、そんな小さな子に……やめてください」


 おどおどとした口調ではあるが、彼女はトーマから目を逸らさずに、はっきりと口に出す。それが余計気に食わないらしく、トーマは不快そうに眉根へと皺を寄せた。


「お前さ、自分の立場分かってる?大人しくしとけよ」


「そんなこと……目の前でされて、黙って見ていられるわけないでしょう……!?」


 それが当然だと言うように、女性は強い口調で言い切った。それを、トーマはつまらなさそうに見下ろす。


「ふーん。あ、そう」


 次の瞬間、女性の体は宙に浮いていた。まるで道端に落ちているゴミでも蹴るように、トーマは女性の体を蹴り上げたのだ。床に叩きつけられて吐血する女性の姿を見て、今度こそ周囲から悲鳴が上がった。


「悪いんだけど、道徳の授業はお腹いっぱいなんだよねー。そういうの言われるとイライラするんだわ」


 吐き捨てるように言いながら、トーマは転がった女性へと歩み寄る。その光景に、十条九は自身でも気付かぬ内に、立ち上がろうとしていた。自分でもどういう感情なのか、理解出来ない。ただ、体の芯の方からこみ上げる、震えにも似た何かの感覚に耐えられず、彼はその場に駆け寄ろうとしていたのだ。だが、いち早くそれに気付いた『運び屋』が、それを押し留める。


「ダメだ、今は動くな!頼む!……頼むから、まだ耐えてくれ!」


 懇願するように、『運び屋』は潜めた声で制止する。その間にも、トーマの足は進んでいった。


「……その子を……離して……」


 唇の端から赤黒い血を垂らしながら、それでも彼女は口にする。トーマは、呆れたように肩をすくめた。


「一応聞いとくけどさ、このガキお前の?親子の情ってやつで、どうにか助けてもらおうとしてるわけ?」


 女性は、ゆっくりと首を横に振る。


「こんなのを見過ごせたら、人としてどうかしてる……」


「へえ、じゃあ、ホントに見ず知らずの子供を可哀相だから助けようと?そりゃ、ご立派で。素ン晴らしい偽善だわ。吐き気がするな!」


 大げさに身振り手振りしながら、トーマは大声で吐き捨てる。それから彼は、唐突に名案でも思い浮かんだかのように、表情を明るくした。


「あぁ、そうだ、いいこと思いついた!じゃあ、今からお前らの好きな道徳の授業しようぜ。お前らの善意だとかモラルだとか、ぜひともオレに教えてくれよ」


 口角を上げ、トーマは冷酷な表情を浮かべた。そして、少年の胸ぐらを左手で掴んだまま、もう一方の手で腰の辺りにさしていた拳銃を取り出す。先ほど、茶髪の吸血鬼から取り上げたものだ。


「今から、お前らにチャンスをやる。この中から一人だけ、解放されるビッグチャンスだぜ?ルールを説明するから、よく聞け」


 その瞬間、拘束された人達の間に、緊張が走る。この状況下で、「解放」という言葉の持つ力は、果てしなく大きかった。誰もが縋るような表情を浮かべ、トーマの次の言葉を待つ。手を伸ばせば触れられるのではないかと思うほど張り詰めた空気の中、トーマは言い放った。



「お前らの中から、一人殺せ。誰を殺してもかまわない。殺した奴に、一人だけ解放する権利をやる」



 言葉の意味を理解した瞬間、人々の表情に恐怖が張り付いた。


「つまり、お前らで殺し合いをしろってことだ。解放する権利で、このガキを助けるか?それとも、その権利を自分に使って、自分だけノコノコ助かるか?もちろん、誰も殺さなくたっていいんだぜ?その場合、お前ら誰一人として、無事にここから帰れねえけどな」


 トーマがニヤニヤと愉悦の表情を浮かべる眼下で、人々は絶望と困惑に顔を歪めている。


「なんて悪趣味な……」


『運び屋』が、小さく呟く。それを聞いたトーマは、満足そうに笑い声を上げた。


「お前らの、道徳心を量るゲームだ。こんな状況下でも、ニンゲン様は他人を思いやる美しい心を持ってるんだろうからさぁ!」


 足元の女性を見下ろしながら、トーマは嘲笑する。それから彼は、仲間の方を振り返ると、床に転がったままの人達を指差した。


「こいつらの縄を解け。もしこいつらが逃げようとしたり、変な気を起こしたときは、その場で血祭りにあげていいぜ」


 その言葉に、吸血鬼達もまた戸惑いの表情を浮かべる。だが、一人の吸血鬼がその場へと屈み込み、転がっていた人間のワイヤーをほどくのを見ると、それに倣い、彼らは次々と拘束を解き始めた。ようやく自由になった手首をさすりながら、『運び屋』は十条九に目配せしようとする。だが、十条九は母親から視線を逸らさずに、呆然としてしまっていた。目の前の現実を受け入れきれていないのか、目の焦点は合わず、まるで虚空を眺めているようだった。


「おい、十条!」


 小声で呼びかけると、ようやく彼は振り返る。だが、十条九にそれ以上の行動は出来なかった。拘束を解かれて自由になったにも関わらず、彼は膝立ちになったまま、動こうとしない。怯えた表情で、十条九は腑抜けたように佇んでいた。


「さあ、ゲームの時間だ!」


 一方で、トーマは高らかに宣言する。直後その手から、握られていた拳銃が真上へと放り投げられた。放物線を描いた拳銃が音を立てて転がったのは、ちょうどトーマと人々の間。


 その音を最後に、工場の中が静まり返る。聞こえてくるのは、未だに激しく降り続けている雷雨の音だけだった。転がった拳銃を目の前に、人々は互いの様子を伺っている。疑念と焦慮の入り混じった視線が、交錯していた。


「なかなか動かねえか。そいつは結構だが、もし助かりたい奴がいるなら、さっさとした方がいいぜ?オレ、あんまり気が長い方じゃないからさぁ。我慢できなくなったら、何するか分かんねえぞ」


 含むように笑いながら、トーマは抱えたままの少年に手を伸ばした。その右手が、少年の細い手首を握る。


「例えば、こんな風に」


 ミシッ、と若い木の幹が折れるような音とともに、少年の腕は本来曲がらない方向に90度、曲がっていた。


「ぎゃああああああああああああああああぁぁぁぁぁッ!!」


 広いはずの廃工場の隅々にまで、少年の絶叫が行き渡った。果たしてそれは、本当に子供の喉から出るとは思えない程に、おぞましい悲鳴だった。雨の音を掻き消すような叫び声に、その場にいた誰もが、背筋が凍るような思いへ身を震わせる。ただ一人トーマだけは、残忍な笑みを浮かべて満足げにしていた。


「ははははは!次はどこの骨をやろうか!?それとも、次はお前らの番かなぁ!?なあ!?早くしないと、今度はお前らが鳴く番かもしれないぜぇ!?」


 見せ付けるようにしながら、トーマは少年の体を掲げる。誰もが目を背けたくなるような光景の中、ある者は口元を押さえ、ある者は恐怖のあまりに涙を流し、そして──


 ある者は、拳銃の元へと走っていた。


「っ、おい!やめろッ!」


 咄嗟に『運び屋』が、制止の叫びを上げる。だが、そんな声は届かなかった。声ともつかぬ声を上げながら駆け出したのは、サラリーマン風の格好をした男性。先ほど、吸血鬼に前歯を叩き折られた、スーツの男だった。


 滅茶苦茶に両の手足を振り乱し、男性は拳銃に駆け寄って手を伸ばす。だが、その指が拳銃にかけられる事はなかった。寸前に、別の男性が背後から、それを羽交い絞めにしていたのだ。


「やめろ!こんな事したって……」


「うるさい!離せ!お、お前も、自分一人で助かろうとしてんだろ!」


 口角から泡を飛ばし、目を血走らせ、男性はもがく。そのまま二人がもみ合いになっている、束の間だった。その横を駆け抜け、制服の少女が拳銃を拾い上げていたのだ。恐怖に目を見開きながらも、少女は震える手で拳銃を握り、手近で身動きを封じられていたスーツの男へと、それを向ける。そこから、狂気は伝染した。


 拳銃を拾い上げた少女を、別の男性が殴りつける。取りこぼした拳銃を、若い女性が拾い上げる。そこに馬乗りになりながら、他の男性がそれを取り上げる。そこには性差も年齢差も関係なく、ただただ醜い、おぞましい争いがあった。


 助かりたいが為に、或いはそれを抑止しようと、争いに加わる者。恐怖に身をすくませ、その場から動く事が出来ずにいる者。その一方で、騒乱に乗じて逃げ出そうとしている者もいた。


 一瞬の隙を見て駆け出したのは、十条九達より少し後に連れて来られた、夫妻だった。彼らは互いに手を取り合いながら、包囲の薄い個所を目掛けて一目散に走り出す。だが、相手はあくまで吸血鬼だ。そんな安易な行動でその場を脱する事など出来ず、彼らは再び吸血鬼の手に捕らえられた。


 確認するようにトーマの顔に視線をやった吸血鬼は、彼が頷くのを見てから、妻の方の頭部に指を掛ける。そして──まるで見せしめのように、その首の骨を捻じり折った。


 ゴキン、と臼で石を磨り潰したような音と共に、首が真後ろへと向けられる。目を見開きながら絶命した妻の姿を見て、夫は半狂乱になりながら身を乗り出す。そして、それで更なる恐怖心に駆られた人々は、争いを加速させた。


 十条九は、動けずにいた。目の前の光景を見ている事に耐えきれず、頭を抱えて歯を食い縛っている。目前での人の死は、彼に最悪の記憶を、フラッシュバックさせていたのだ。


 状況を理解する間もなく、大量の人間が押し潰された飛行場での出来事。全生徒を巻き込みながら、十条九という個人を標的にした学校での惨劇。だが、今目の前で起きている狂乱は、そのどちらとも違う悪質さを孕んでいた。人が、人の意思で、互いの生命をおびやかす。人の悪性を見せつけるかのような遊戯を、吸血鬼が笑いながら眺めている。それは十条九に、新たな絶望を植え付けていた。


「──おい!おい、聞いてんのか!十条!」


 何度呼びかけられても、十条九は顔を上げる事をしなかった。この場に佇んでいるだけでは、巻き込まれる。それを理解していても、彼の膝には力が入らなかったのだ。その姿を見て、『運び屋』は痺れを切らしたように、彼の胸倉を掴んで強引に立ち上がらせた。


「いい加減にしろよ、お前っ!ここで死にたいのか!?死んでもいいのか!?」


『運び屋』は力づくで十条九の体を引きずると、機材の陰へと彼を押し込む。そして、彼を庇うように、その前へと立ちはだかった。


「はっははは!おい、見ろよ!この惨状を見て、未だに子供のことを考えている奴がいると思うか!?そんなわけねえよなぁ!?みんな、自分が殺されないために必死だぜ!?自分が生き残るために、他の奴を殺すことすら厭わない!人間なんて、一皮めくればこんなもんだよ!おお、コエーな人間ってやつは。『生きるため』って大義名分があれば、他人なんて簡単に殺せるんだからよ!」


 トーマの高笑いが、叫喚の中に響く。十条九の母親は未だ彼の足元で、絶望に顔を歪めていた。怒号なのか、むせび泣く声なのか分からない声を上げながら、人々は醜く争い合っている。そして、その輪に加われない幾人かが、そこから離れた場所で身を寄せ合っていた。


 互いに血を流し合いながら、銃を求めて暴力を振るう。このままでは、銃など使わずとも人を殺しかねない勢いだった。ふと、銃を奪い取った男が、目の前にいた女性へと銃口を向ける。だが、引き金を引くその瞬間、周囲の人間達がそれを取り押さえていた。そして、その攻防で逸れた射線の先──それは、十条九たちがいる方向だった。


「──ッ、しくった……!」


 乾いた発砲音、そして次の瞬間には、左の大腿部を押さえたまま、『運び屋』が地面に倒れていた。衝撃でサングラスがはずれ、『運び屋』は苦痛に顔を歪めながら呻く。脚を押さえる指の間から、ドクドクと血が流れ出していた。そのおびただしい量の血液を目にした瞬間、十条九の背筋を怖気が舐め上げる。それまで感じていた恐怖は、新しい恐怖に上書きされた。それは、自分の知己の人間が死の危険に曝されているという、彼が最も恐れるものだった。


「ッ、『運び屋』さんっ!!」


 目の前に倒れた『運び屋』の元に、十条九はよろめきながら駆け寄る。それを、「来るな!」という一喝で、『運び屋』は押し留めようとした。


「大したことねえよ、こんなもん!お前は隠れてろッ!」


 だが、十条九は止まらなかった。ほとんどつんのめるような格好で『運び屋』の元へと辿り着くと、すぐさま着ていたシャツを脱ぎ捨てる。その袖を裂いて傷口へと宛がうと、十条九はそれを縛り上げて止血を試みた。瞬間、『運び屋』の顔が苦痛に歪む。だが、それでも出血は収まらなかった。白かったシャツはすぐさまどす黒い赤に染まり、溢れた血液が十条九の手を汚す。


「血が……止まらない……!」


 まるで自分の事のように必死に、十条九は両手で傷口を押さえる。その指の間からジワジワと血液が漏れ出るのにつれて、彼の呼吸は荒くなっていった。


 その一方で、拳銃を巡る争いは続けられている。今さら、人が一人倒れたところで止まらないのだろう。それどころか、それをきっかけに争いが一層激しくなったようにすら見える。その最中さなか、ふとした勢いで彼らの手元を離れた拳銃が、床に転がり落ちた。


 カラカラという音を立てながら銃は滑り、そして──


 止血をしている最中だった、十条九のつま先に当たった。


「──え?」


 今にも泣き出す寸前のような顔だった十条九の表情は、自らの足元にあるものを見た瞬間、驚愕へと変わった。そして同時に、銃を奪っていた人達の身動きが止まる。


『運び屋』によって争いから遠ざけられていた十条九は、銃の奪い合いから離れた場所にいた。故に、他の人々は動けない。5m近くあるその距離を鑑みれば、拳銃を拾いに走った瞬間、十条九が足元の銃を拾い上げ、走り来る彼らに向かって発砲する事が、容易いからである。彼らの立場は、目に見えて一転していた。


「…………」


 この場にいる全員が、十条九の次の行動を注視している。自分の挙動一つがこの空間を支配しているという感覚は、責任感にも似たそのプレッシャーは、十条九が吐き気を催すほどだった。だが、彼が嘔吐えずいている瞬間を見計らい、数人が駆け寄ろうとしているのに気付くと、十条九は迷う間もなく拳銃を拾い上げた。


 血液にまみれた手が拳銃に重なると、ぬちゃり、と粘着質な音が立った。それに遅れて、ずっしりとした金属の重さが、現実味を帯びて両手へとのしかかる。黒い鉄の塊は、先ほど発砲したためか、微かに銃口の方に熱が残っていた。生来初めて握る、対象を殺す為だけに作られた道具の感触に、十条九の顔は引きつる。


「……十条?」


 何らかの異変に気付いた『運び屋』が、彼の名を呼ぶ。だが、十条九は何も応じなかった。彼は手の中にあるものを凝視した後、視線を上げる。先ほどまで争っていたはずの人々へと目を向ければ、その表情に動揺が走った。争いから離れた場所にいた人達へと視線を移せば、彼らは恐怖に悲鳴を上げ、顔を歪ませる。そして──彼の母親も、同様に恐れの表情を浮かべる一人だった。


 恐らく彼女はまだ、今銃を握っている少年が、十条九だと気付いていないのだろう。それが、胸の内にどうしようもない疼痛を呼び起こしたが、それと同時に、彼は安堵した。


 ──これから自分のやろうとしている最低の行為が、息子の手によるものだと、彼女に気付かれずに済むからだ。


「……一人」


 ひどく乾いた声で、十条九はポツリと口にする。そしてその視線をゆっくりと、トーマの方に向けた。この惨状をニヤニヤと眺めている彼の手の中で、不自然に曲がった腕の少年が、ボロボロと涙をこぼしている。その様を辛そうな表情で眺めた後、十条九は尋ねた。


「一人殺せば、一人……解放できるんだよな?」


 彼の発言に、その場にいた全員が目を剥く。とりわけ『運び屋』は、傷ついた脚を押さえながら必死の形相で叫んでいた。


「おい、十条!何考えてんだお前!」


 しかしそれは、もはや十条九の耳には届かない。睨むように目を細め、彼はトーマの返答を待っていた。


「最初から、そういうルールだって言ってんだろうが」


「……分かった」


 十条九は、額に汗を浮かべながら、右手に持った銃をゆっくりと持ち上げる。その手が小さく震えていることは、誰の目から見ても明らかだった。そして、それ以上に震えた唇で、彼は言った。


「──今から、一人殺す。だから、それでその子を解放しろ」


 瞬間、先ほどまで狂気に駆られていた人々は、一転して恐怖に顔を歪め、ジリジリと後退する。ただ一人、トーマだけが楽しそうに口角を上げていた。


「へー、この状況で、このガキを助けようって言うのか。殊勝なこった。いいぜ、好きな奴を殺せよ。どの道、こいつらは自分さえ助かればそれでいいと思ってるクズどもだ」


 くつくつと、トーマは喉の奥で笑い声を上げる。


「おい!馬鹿なマネはよせ!聞いてんのか十条!」


『運び屋』が上げる怒号も、人々が上げる悲鳴も、トーマの嘲笑するような笑い声も、十条九は一切合財無視する。彼は、覚悟を決めた目でゆっくりと銃を持ち上げ──



 自らの側頭部に、銃口を当てた。



「……は?」


 さしものトーマも、その光景に唖然としている。何が起きているのかを理解できているものは、この場にほとんどいなかった。


「俺は……俺を殺す。これで、一人分だろ?」


 玉のような汗を浮かべながら、十条九はそう言った。右手に握った拳銃が、手の震えでカタカタと音を立てる。その音を側頭部で聞きながら、彼はトーマの返答を待っていた。


「……ぶっ、はははは!すっげえ、こいつ本物の馬鹿だ!」


 堪えかねたように、トーマが嘲笑する。十条九は無言のまま、引きつった顔で相対していた。


「いいねぇ、そういうの。確かにルールの裏をかくようなことではあるが、ルールに反しちゃいない。出来るんならやってみろよ。それはそれで、見物としちゃ面白ぇ。ほら!お前のその安っぽい自己犠牲で、人一人助けられるぜ!?」


 挑発するような口調で言いながら、トーマは少年の体を掲げる。その後で彼は、周囲で固まったままの人々を見渡した。


「お前らもそれでいいのか?あ?こいつが自殺したら、お前らが無事に出れるチャンスは無くなるんだぜ?いいのか!?お前らは!こいつのせいで!ここから出られなくなるんだぞ!?」


 これが最後と言わんばかりの、扇動の言葉が響く。煽られた人々は、それで見えない緊縛から放たれ、我先にと十条九を目掛けて駆け出した。


「おい、十条!やめろっ!十条ッ!!」


 傷ついた脚でどうにか立ち上がろうとしながら、『運び屋』は声を張り上げる。だが、不自由な足では十条九の手から銃を奪い取ることは、不可能だった。立ち損ねて転がる『運び屋』を視界の端に捉えた後で、十条九はついに、目を閉じる。


 視界が闇に覆われた瞬間、脳裏にはこれまでの出来事が、走馬灯のように巡った。そしてその果てに、かつて自身を救った少女の姿を見る。生き残った罪悪感に苦しむ十条九へ、亡くなった人の分も生きるよう促した、かつてのクラスメイトを幻視する。


「……ごめん、渡瀬。俺、頑張ったんだ。頑張って……」


 小さく呟いた彼女の名前は、自らの元に駆け寄ろうとする足音に、掻き消える。


「──でも、もう、無理だ」


 人差し指が、引き金を捉える。そして──雨音を押し退ける銃声と共に、鮮血が舞い散った。




平素よりご愛読ありがとうございます。本日はいくつかの告知をさせていただきたく、この場をお借りいたします。


ツイッターの方では何度か宣伝させていただきましたが……

この度弊サークルASTER SQUAREが、冬のコミックマーケットに当選いたしました!


12月30日、日曜日の東地区ニブロック-52aにスペースをいただき、孤ノ影闘記の新刊、そして楽曲CDの頒布をいたします。イラスト、キャラデザ、動画などを担当する陽希さんによる描き下ろし、そして新規小説を合わせた合同本となっております。


現在更新中の第4章、その直後を描く4.1章を収録予定です。ここでしか読めない濃密な内容になっております!


お求めの方もそうでない方も、「どのツラ下げた奴がこんな残虐非道な小説書いていやがるんだ」と気になるだけの方も、是非お立ち寄りください!お待ちしております!




そして二つ目の告知となりますが……


本作「孤ノ影闘記 / Anti-Nexus」の外伝作品、「孤ノ影斗記\

Anti-Dreams」が、ついに12月1日より公開となります!本作の二年前を描く、もう一つのコノカゲをお楽しみください!


……とはいえこの作品、第3章の後書きでも触れた通り、もう少し前に投稿する予定ではありました。実のところ、この作品自体の原稿はある程度用意されていたのですが、取り上げようとしていた内容と近似する事件が連日報道されていたため、投稿を見送っていたという経緯がございます。


しかしお蔵入りさせるのも惜しく、また日を経た事もあり、この度投稿に踏み切らせていただこうと思った次第でございます。ご理解いただければ幸いです。



製作陣一堂、よい作品のためにますます尽力してまいります。どうか温かい目でお見守りくださいませ!



(鰓鰐/2018.11.29)

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