〈7〉
―7―
激しい雷雨が、トタンに叩きつけられる。絶え間のないその音は、すぐ近くで散弾銃でも撃ち鳴らされているような、そんな不吉な光景を連想させた。思考の働かない頭のままそれを聞き続けていると、少しずつぼんやりと意識が覚醒し始める。それと同時に左の側頭部に鈍痛が走り、十条九は微かに呻き声を上げると、やっとの事で薄っすらと目を開いた。
判然としない意識の中、自身が光源のほとんどない場所で、うつ伏せに倒れている事を理解する。十条九は強張った体を動かそうと試みるが、どういうわけか両腕の自由が利かず、固まっていた関節が悲鳴を上げるだけだった。それでもどうにか全身を尺取虫のように屈折させて、彼は起き上がる。
「……ここは……」
ようやく暗闇に慣れ始めた視界で、ゆっくりと周囲を見渡す。目を凝らせば、大型の作業台や古びた機械類、そして錆の浮いた大きな金属片が、周囲へと無造作に積まれているのが見えた。見る分に、どうやら何かの金型を取る為の工場らしい。廃れ具合から、既にここが稼働していない事も、理解出来た。退廃的なその景色にはどこか現実味がなく、激し過ぎる雨の音と相まって、ドラマや映画のセットを見ているようだった。
「……よかった、気がついたか」
右隣から聞こえてきた小声に、遅れて視線を向ける。そこで、床の上に座り込む黒スーツの男の姿を見て取ると、十条九はわずかばかりの安堵と共に目を見開いた。
「……『運び屋』さん……」
「おう」と口角を上げて応じながらも、彼の顔にはいくらかの切り傷が刻まれていた。その上、背中の後ろに回されたその手首にはワイヤーのような物が巻きつけてあり、何者かによって拘束されているらしい。肩越しに確認してみれば、自らの手首にも同じものが巻かれているのが分かった。
「意識ははっきりしてるか?いや、ほら、かなり強く打ち付けられたみたいだからさ」
サングラスをかけているせいで視線を読みにくいが、それでも『運び屋』が自身の頭部を見ている事に気付くと、十条九は自らの肩で側頭部へと触れてみる。その瞬間、ズキズキという鈍い痛みに混ざり、刺すような激痛が爪先まで突き抜け、十条九は目に涙を浮かべた。どうやら切れていたらしく、服の袖に乾いた血の跡が付いていた。
「……っ、大丈夫です……多少記憶が混濁してますけど」
「吸血鬼との戦闘が発生した」という旨のオペレーターからの通信、そして直後の車の横転。加えて、何者かに拘束されている現状を鑑みれば、否が応でも、自身が未だ何らかの渦中にいる事を容易に理解出来た。十条九が回答すると、『運び屋』は彼の怪我の具合が深刻でない事に安堵し、しかし直後に、苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
「早い話が、吸血鬼との交戦に巻き込まれたらしい。それを避けようとはしたものの、そのまま脇道に逸れて、ってところだ……まったく、今まで無事故だったのにな」
ガードレールを越えた車体が、成す術もなく横転した様を思い返し、十条九もまた表情を険しくした。幸い、筋を痛めたり、むち打ちになったりはしていないらしいが、それでも体のあちこちが痛んでいた。
「……交戦していた、隊員は?」
十条九の問いに、『運び屋』は口を開かぬまま、首を横へと振る。それで概ねの出来事を察すると、十条九は視線を伏せた。しかしその時、ふと生じた疑問から、彼は目を細める。
「けど、どうして俺達が拘束されてるんですか?」
経緯を考えれば、自分達を拘束しているのは、例の隊員達と交戦状態にあった吸血鬼だと見て、間違いないだろう。分からない事といえば、血を吸われる事も、殺される事もなく、ただ捕らわれているという現状だ。仮に、隊員との戦闘で傷を負った吸血鬼が、それを治癒する為の吸血対象として、事故で身動きの取れない自分達を捕獲したとする。しかし、だとすればその現場で血を吸われていたはずだ。わざわざ自分達を拘束し、このような場所に放置している理由にはならない。
「もしかして、俺達がICSAの関係者だと知ってて、それで……」
ふと頭を過った考えを口にすると、『運び屋』は「それは考えにくいな」と首を横に振った。十条九が視線で意味を問うと、『運び屋』は顎先で、自らの背後を指し示す。それに従って振り返った時、初めて十条九は、自分達の後ろに、同様に拘束された数人の人影がある事に気付いた。性差も年齢もバラバラな、共通項を見出だす事の難しい人達が、全部で七人。中には、制服を着た高校生らしき少女までいた。
「俺達より先に、ここに捕まってた。もちろん、ICSAとは関係のない一般人だよ。あっちのリーマンはどこぞで飲んでて酔い潰れて、気付いたらここにいたと。あそこにいる大学生の三人組は、繁華街で怖いお兄さんに絡まれて、連れて来られたらしい。そこの売春やってる女の子なんて、何も知らず客について来たら、この有り様だったそうだ」
どうやら十条九が気を失っている間に、周囲の人間との情報交換を行っていたようで、潜めた声で、『運び屋』は逐一説明をする。つまり自分達は、ICSA関係者であるという事に関わりなくここに拘束されていると、そう言っているのだろう。十条九は、尚の事現状を理解出来ずに、眉をひそめた。
「じゃあ、俺達はどういう理由で拘束されてるんです?血を吸う為だったら、その場で吸われていたはずです。目撃者を消すとかそういう理由でも、やっぱりここに連れて来る必要はない」
「……もし、俺らを拘束している吸血鬼が血を吸いたい訳じゃなくて、『血を吸わせたい誰か』がいるとしたら、どうだ?」
『運び屋』が、表情を固くしながら口にする。
「あの飛行機事故以来、ICSAと吸血鬼の戦闘は激化してる。必然、負傷する吸血鬼も増えてるはずだ。つまりそれは、『自分で餌を狩る事が困難な吸血鬼』を増やしている、という意味合いにもなる。傷の治癒を急ぐのなら、血を飲む事は必然不可欠。だが怪我を負っていては、自力での狩りは難しい。その場合、どうやって餌を確保する?」
「……徒党を組む、って事ですか?」
十条九が恐る恐る尋ねると、『運び屋』は何度か頷いて見せる。
「当て推量だけどな。俺達の血を飲みたいのは、俺達を捕まえたのとは別の吸血鬼。そう仮定すると、辻褄が合うだろ?他の吸血鬼の為に『狩り』をしていた連中が、ICSAの隊員に見つかり、交戦状態になった。で、それを目撃した俺達を放置出来ないから、ここに連れてきた。ついでにエサにしちまおう、って腹積もりかもしれん」
「確かに、いくらか説得力がありますけど……そうなると、この人数を餌にするくらい、吸血鬼の仲間がいるって事ですよね?」
十条九の問い掛けに、『運び屋』は後ろを振り返る。改めて捕らわれた者の人数を数えると、彼はげんなりと、眉をひそめる。終いには「考えなきゃよかったかもな」などと、呟く始末だった。
「……それで、これからどうするんですか?」
「問題はそこなんだよなぁ。俺、戦闘員じゃないし。捕まってる人間がこれだけいる以上は、ヘタな無理も出来ねぇし」
苦々しい顔をしながら、『運び屋』はため息を吐く。「他の隊員が早いとこ駆け付けてくれるのを祈るしかない」と、彼は諦念を含んだ言葉を続けていた。
「ケータイとか、通信機はないんですか?」
「念入りに持ち物検査されてね。買い換えて間もないスマホ、取り上げられて壊されたよ。通信機の方は、それこそICSA関係者だと身バレする方が怖かったから、適当に捨ててきた。って事で、連絡手段は何もない。恐らくオペレーターあたりが行動を起こしてくれてるとは思うが、如何せん、事故った現場の位置情報くらいしか分からないわけだからな。ここを割り出すにも、時間はかかるだろう」
お手上げだと言うように、『運び屋』は肩をすくめて見せる。十条九は歯噛みしたまま、何もない空間を睨むように、目を細めていた。何をする事も出来ずに、いつ来るのか分からない助けを待ち、ただ時が過ぎるのを耐えなければならない。まるで、生きた心地というものがしなかった。
だが存外にも、数分と経たぬ内に、状況に変化が起こった。唐突に建物のどこかから、ガラガラとシャッターを開くような音が響いたのだ。瞬間、その場にいる全員へと、緊張が走る。救援か、或いは吸血鬼が戻って来たのか。とりわけ、情報量の多い十条九と『運び屋』が固唾を飲んで目を凝らす中、果たして姿を現したのは、チンピラじみた格好をした、どこか素行の悪そうな二人の男だった。見目からして、二十代の半ば程度だろうか。長めの髪を明るい茶色に染めた男と、対照にスキンヘッドの男が、拘束されている十条九達の方へと、歩み寄ってくる。
「……吸血鬼……」
その外見は、普通の人間と何ら変わりがない。だが十条九は、確証と共にそう呟いていた。この場に現れた二人の男、その肩にそれぞれ一人ずつ、拘束された人間が担がれていたためだ。
「……『エサ』の追加か」
ポツリと、『運び屋』が声に出す。男達はその傍らへと、担いでいた人達を放った。ドスン、と重みのある音を立てながら、二つの人影が転がる。既に痛め付けられた後なのか、倒れた男女──薬指に同じ指輪をしているところを見る分に、恐らくは夫婦だろう──は、わずかな呻き声を上げて、身動ぎをするだけだった。
「おいっ!」
唐突に張り上げられた声に、全員が振り返る。怒声と共に立ち上がったのは、スーツを着た、会社員風の若い男性だった。
「一体何のつもりだ。何が目的だ?何の説明もなく、訳も分からず監禁されては……」
意思の疎通を試みているらしく、男性は二人へと声をかけながら、歩を進める。吸血鬼達はその行動に、顔を見合わせていた。
「ともかく、目的を言ってくれ。でなければ……」
また一歩、彼の足が吸血鬼へと近づく。その、直後の事だった。
「何か他の──ごっ」
妙な音を立てて、男性の言葉が途切れる。同時に、カラカラと固い音を伴いながら、床の上を何かが転がった。それが、根元から歪な形で折れた、男性の前歯の一本だと理解した瞬間、その場にいた幾人かが悲鳴を上げた。
「が、ぁ……」
拘束された手では口元を押さえる事も出来ず、無様に開いた口の間からボタボタと血液を流しながら、男性はその場にくず折れる。ただの、平手打ち。茶髪の吸血鬼が、男性の事を払い除けるような動作で軽く振った手が、彼の前歯を叩き折っていたのだ。まるでそれが想定外の事だったように、当の本人は眉をひそめている。
「やっぱり、手足を折った方がよかったんじゃないのか?下手に抵抗されたら面倒だ」
自らの手を眺めて、茶髪が口にする。一瞬、拘束された人達の間に緊張が走るが、スキンヘッドの吸血鬼は首を振った。
「それこそ、俺らに加減なんて出来ねえだろ。余計な事はしない方が賢明だ」
諌める言葉を吐いた後、スキンヘッドは唐突に踵を返す。茶髪がその意味を問うと、彼は億劫そうに振り返った後で答えた。
「経過報告だよ。トーマさんに連絡入れてくる。お前はここを見張ってろ。また、騒がれると厄介だからな」
取り出した携帯電話をゆらゆらと揺らして見せてから、スキンヘッドはその場を後にする。残された茶髪の吸血鬼は舌打ちをした後で、積まれていた機材の上へと腰を下ろした。監視の目が出来た事で、周囲の空気が一層張り詰める。未だ叩きつける雨音の中、前歯を折られた男性が苦悶の声を漏らす他は、誰も声を上げようとしない。だが、不意にギリッという歯軋りの音を聞き取ると、十条九は振り返った。
「……『運び屋』さん?どうしたんですか?」
サングラスの奥の目で何かを睨みながら、『運び屋』が歯を食い縛っている。
「……なあ、さっきのハゲ、トーマって言ったか?」
声を潜めながら、『運び屋』は十条九に尋ねる。彼がそれに頷いて返すと、『運び屋』は舌打ちしそうな勢いで顔をしかめた。
「何ですか?その名前が何か……」
「前に、吸血鬼の『オリジナル』の話はしたよな?『女王』の血族だって」
『運び屋』の言わんとする事を察すると、十条九は目を見開く。吸血鬼を統制していた『女王』という存在。そしてその『女王』を亡き者にしたのが、実子、オリジナルであるという事を、十条九は局長や『運び屋』の話を統合して、理解していた。
つまりは、あの飛行機事故を引き起こした吸血鬼。そして、学校での惨劇を引き起こしたマユカと同等の存在、オリジナル。それが、この件にも関わっているかもしれないと、『運び屋』は示唆していたのだ。
「この期に及んで、同名の別人……って考えるのは、都合良すぎるか?」
悪態でも吐くような口調で、『運び屋』は誰に聞かせるでもなく、口に出す。だが、十条九の耳には、もはやそれは届いていなかった。オリジナルという単語を耳にした瞬間、彼の脳裏を占めていたのは、飛行場での、そして学校での、陰惨な出来事だったのだ。すでに何度となく目にしてしまった、死の風景。それと同じ気配が周囲に満ちているような気がして、十条九は吐き気に似た悪寒すら覚えていた。
荒くなる呼吸、激しくなる自らの鼓動に耐えるように、十条九は目を閉じる。頭に浮かぶ過去の記憶、そしてこれから起こり得る嫌な想像に、彼は唇を噛んでいた。どれだけの間、そうしていたのかは分からない。ただ、自らの呼吸音に何者かの足音が混じって聞こえた瞬間、十条九は怯えた表情で、顔を上げていた。
「首尾は、まあまあってとこか」
現れたのは、派手なピアスが印象的な、金髪の男。傍らに先ほどのスキンヘッドの吸血鬼を連れながら、囚われの人達の方へと足を運ぶ姿を見て、十条九は『運び屋』を振り返る。落胆を浮かべた表情に、十条九はこの場に現れた男がトーマ──オリジナルである事を確信した。
「トーマさん」
その姿を見た瞬間、茶髪の吸血鬼は座っていた機材から飛び降りると、姿勢を正して向き合う。上下関係は、一目瞭然だった。
「他の奴らは?」
「まだ手間取っているようです。まあ、多少理由があると言えば、ありますが」
トーマの問いに、スキンヘッドが答える。それを聞くと、トーマは後頭をガシガシと掻きながら、ため息を吐き出した。
「あー、確かにあの二人トロそうだったもんなぁ。人選ミスったか?この程度の『おつかい』くらい、誰にでも出来ると踏んでたんだけどな。しかし……」
トーマは自らのピアスを弄びながら、眉根を寄せる。それから彼は、茶髪の顔を覗き込んだ。
「なんかクセーんだよな、お前。硝煙の臭いだ。何した?」
「そ、それは……」
唐突な事に、茶髪が狼狽える。助け舟を出すように、スキンヘッドが口を開いた。
「例の連中と、交戦しました。恐らくは、その時に」
「あー、ICSAのワンコロどもか。っつー事は、あとの二人が遅れてる『理由』ってのは、そういう訳か?」
「ええ。やり合ってる現場を、見た人間がいまして。それを追ってます」
納得した様子で、トーマは二、三度頷いた。
「なるほど、それは分かった。だがな」
不満げな声を上げながら、トーマの腕が伸ばされる。その指先を茶髪の顔の高さまで持ち上げると、トーマはそのまま、彼の鼻をつまんでいた。
「自分がどんだけクセーか、分かってねえのか?だとしたら、どんだけお粗末な鼻してんだ、お前。あのな、至近距離で硝煙浴びたとしても、そこまで濃い臭いは付かねえんだよ。おら、隠してるもん、さっさと出せ」
茶髪は逡巡したものの、やがてその催促に気圧されて、自らの背中側へと手を伸ばす。ベルトの間から取り出したのは、一丁の拳銃──ICSAの隊員が携行しているのと同じ物──だった。
「ドサクサに紛れてちょろまかしてきたんだろ。ったく。こんなもんパクって、何に使うつもりだったんだ?オレの事を後ろから狙うつもりだったりしてな」
忌々しい物でも眺めるように、トーマが目を細める。その、直後の事だった。瞬き程の一瞬、目視が困難な速度で、トーマの腕が動く。瞬間、バツン、と聞き慣れない鈍い音が、茶髪の顔の辺りから響いた。
「──へ?」
何が起きたのかを理解出来ず、茶髪が困惑の声を上げる。その目の前に、トーマは見せつけるようにして、右手を掲げた。──そこに握られているのが、先ほどまでつままれていた自身の鼻だと気付いた瞬間、喉から漏れる声は、悲鳴へと変わった。
「ホーレンソーって重要だと思うんだわ、オレ。報告、連絡、そう……そう……?もう一個何だったっけ?ま、いっか」
顔の中心部に開いた穴を押さえながら、茶髪が苦悶の声を漏らす。それを傍目に眺めながら、トーマはもぎ取った鼻を放り捨てた。べちゃり、と粘着質な音を立ててそれが落下したのは、拘束された人達の、すぐ隣だった。同時に、それを見た幾人かが悲鳴を上げる。反応を見ると、トーマは面白そうに、喉の奥を鳴らした。
「しかし、鼻が無くなったら随分すっきりした顔になったんじゃねえの。ちょっと見せてみろよ」
茶髪の腕を掴むと、トーマはその顔を無理やりに覗き込む。ドボドボと黒い血液を溢す、顔面の穴。しかしそれが塞がりつつある事を見ると、トーマは鼻を鳴らした。
「傷口の治りが早いな。つまり最近血を飲んだばっかり、っつー事だ。つまみ食いしたな?お前、今日の獲物は他の奴らに譲れよ?自重しろ、ジチョー」
「そ、んな……!だって、この人間達は俺らが……」
茶髪が反論の言葉を吐こうとすると、トーマはその頭部を強引に掴んで黙らせた。
「あのさ、言わなかった?あの飛行場でのやり取りで、オレの戦力は三分の一程度に減らされちゃったわけ。それに生き残ってる連中も、大半が傷を治癒出来ないレベルにまで弱ってる。お前と違ってな。だから、お前らにエサを捕まえてくるように頼んだんだよ。負傷した連中を治すのと、エサとして血を吸った人間を、吸血鬼にして新しい『仲間』にするためにさぁ」
「トーマさん、そのくらいで……」
見かねたらしいスキンヘッドが、制止の声をかけようとする。だがそれを、携帯電話のバイブ音が遮った。未だトーマの様子を気にする素振りを見せながらも、彼は渋々と通話に応じた。
「あとの二人から?捕まえたのか、現場を見た人間ってやつ」
トーマはそれを振り返りながら、茶髪を突き放す。床へと転がる彼に、トーマは視線を向ける事さえしなかった。
「ええ。どうします?この場に連れて来させますか?」
「んー、そうだな……」
迷うように視線を上げると、唐突にトーマは、拘束された人達の方へと足を向けた。
「いいんじゃねえの、連れて来れば。その分、血を吸える量が増えるんだし。あ、ちなみにそいつ、男?女?」
「……女だと、何か問題が?」
恐る恐る、スキンヘッドが尋ねる。トーマは「いや、別に?」と答えながら、囚われの人達のすぐ横へと屈んでいた。そして、その中の一人、制服を着た女子高生へと手を伸ばすと、品定めでもするように、顎を掴んで顔を覗き込んだ。
「戦力にするなら、男の方が雑に扱いやすいからさ。ま、女なら女で、遊び相手にでもなってもらうわ」
浮かべられた冷笑に、少女は目を見開いて顔を引きつらせる。それを愉快そうに笑った後で、トーマは立ち上がった。
「じゃ、『なるはや』で戻ってくるように言っとけ。あ、それと他の連中にも、集合かけといて。『メシ』の時間だって」
スキンヘッドへと声をかけながら、トーマは適当な機材の上へと腰を下ろす。実に、自分達と数メートルの距離に存在する驚異に、『運び屋』は眉をひそめていた。だが、脱出のため様々な思索に顔をしかめている彼と対照的に、十条九は思考を放棄して、恐怖に表情を歪めているだけだった。
もはや、自分にはどうする事も出来ない。早々に可能性の追求を諦めた十条九は、一刻も早くICSAの誰かが駆け付けてくれるのを、無様とも言える様相で祈っている。だが、現実はそれに反していた。度々聞こえる足音に顔を上げれば、それが救援ではなく、来訪した吸血鬼の仲間である事に、絶望する。それを、どれだけ繰り返しただろうか。気付けば周囲には、二十人近い吸血鬼が集っていた。トーマの言葉通り、傷を負った者や餓えている者がほとんどらしく、終始ギラついた視線が、十条九達の方へと向けられていた。
「あとは、例の二人が来れば勢ぞろいか」
先ほど茶髪から取り上げた拳銃を弄びながら、トーマが呟く。それと、シャッターの開く音が響くのは、ほとんど同時だった。
「遅くなってすみません!」
ビシャビシャと濡れた足音を立てながら、二人の男が人を抱えて駆けてくる。雨の中を走ってきたらしく、彼らの体中から水滴がポタポタと垂れていた。それを目にした瞬間、十条九は絶望に俯く。完全に、時間切れだった。ついに、ICSAの隊員が駆け付けるよりも先に、トーマの配下と思しき吸血鬼達が、この場に集結してしまったのだ。
「おー。まあ、理由は他の二人から聞いてるからよ。ご苦労さん」
ぞんざいな口調で労うトーマの前へと、男達は抱えていたものを放り投げる。グシャリ、と濡れた音を立てて床に転がったのは、三つの人影。それを見て、トーマは片眉を上げて見せた。
「お?目撃者ってこんなにいたのか?」
「いえ。見られたのはそこの女だけです。あとの二人は、まあ、ついでと言いますか」
男の一人が、転がっている影の一つを指差す。薄暗い中で人相までは分からないが、どうやら中年くらいの女性らしい。
「ふーん。ま、エサが増える分には構わねえよ。むしろウェルカムだ」
トーマは腰かけていた機材から下りると、足元に転がっている人影を覗き込む。怯えた表情でそれを眺めていた十条九は、しかしその瞬間妙な感覚を覚えて、体の震えを止めていた。
「――――え?」
既視感、だろうか。今この瞬間目に映っているものが、記憶の中の何かに、符合しかけている。曖昧で、朧気ではあるが、それは十条九が感じている恐怖の感情を、一時的に押し退けるほどに強い感覚だった。
「……どうかしたか?」
彼らに悟られないように、『運び屋』が小声で尋ねる。だが、十条九にはそれに応じる余裕もなかった。焦燥にも似た感覚に急き立てられるように、彼は自身の記憶を呼び覚まそうと、闇の中を凝視する。
直後、一際大きな雷鳴が、近くの空で鳴り響いた。薄ら白い光が、一瞬だけ倉庫の中を照らし出す。その、瞬間だった。目に映ったものを脳が理解するより先に、心臓を素手で握られたかのような寒気が、全身を貫く。
「母……さん?」




