〈5〉
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朝陽はエレベーターで食堂のある階まで戻ると、十条九の目撃証言があった現場を目指した。別に、兄に会うのが楽しみで、足取りが軽くなるなんてことはない。むしろ、どんな顔をして兄と再会すればいいのかよく分からず、時々窓に映る自分の姿を見ては前髪をいじってみたりと、思いのほかたどり着くのに時間がかかってしまった。
すでに時刻は午後3時近くになっており、朝陽が食堂の扉を開けたときには、中にはほとんど誰も人がいなかった。そのため、否が応でもテーブルに座っている人物に目が行ってしまう。
「……お兄ちゃん……と、おばさん?」
彼女の視線は、奥のテーブルに座る少年の姿を捉えた。どういうわけか彼の正面には、今朝方朝陽も言葉を交わした、食堂の女性が腰かけている。不意に、彼の目がこちらに向けられる。その瞬間、少年は戸惑ったように視線を泳がせた。彼の様子に気づいたのか、女性も朝陽のいる方を振り返った。小皺の多い顔をクシャッとさせて、彼女は笑う。
「あら、朝陽ちゃん!こっちこっち!」
ほんの一瞬躊躇った後、しかし朝陽はそれを悟られぬよう、女性に向かって笑顔をつくる。それから二人が座るテーブルの方に足を進めた。
「朝陽ちゃん、お兄さんが来るなら前もって言ってくれればいいのに。ほら、ここ座って。あ、今飲み物淹れてくるから。紅茶でいい?」
訳知り顔で女性はそう言って、朝陽に席を譲ると、そそくさと厨房の方に引っ込んでいった。後に残された二人の間には、なんとも言いがたい沈黙が訪れる。何から口に出せばいいものか分からず、彼らは口を閉ざしたままだった。二人を襲った惨劇は、一ヶ月に及ぶ隔たりは、軽々しく言葉を交わせるだけの関係性に、少なからず軋轢を生じさせていたのだ。
「…………」
「……えっと、さ……」
どうせ待っていたところで、兄の方から口を開く事はない。それだけは分かっていた朝陽は、わずかに口ごもりながら声を発する。
「……ひ、久しぶり。元気だった?」
「…………」
どこかぎこちない、他人行儀の表情。そんな妹の様子を見て、彼は細い目をほんの少し開く。だが、しばらくしてから顔をしかめた。
「何で、『中学の時に大して仲良くなかった奴に再会しちゃった』時みたいな反応なんだよ……」
独特の言い回し、彼らしい表現は、間違いなく兄のものだった。それを聞いて、微かな安心感と調子を取り戻すと、彼女は兄にいつも通りの、毒気を含んだ視線を向ける。
「いや、実際そこまで仲良くはないし。安心して?きっと何があっても、私が感動のあまりお兄ちゃんに飛びつくとか、泣きつくとか、そういう事はないから」
「……いや、分かってるから言わないでくれ。面と向かって言われるとそこそこ傷つく」
げんなりした様子でそう答える兄を見て、懐かしさにも似た感覚を覚えると、朝陽はクスリと小さく笑った。朝陽は、先ほどまで女性が座っていた席に腰掛けると、兄と向かい合う。
「……一ヶ月ちょっとぶり、だよね」
十条九は、ただ小さく頷いて応じる。少し見ない間に、その頬が少し痩せたような──悪く言えばやつれたような──印象を受けた。
「そうだな。でも、まあ、何だ……無事そうでよかった」
十条九にしては珍しく素直な物言いに、朝陽は意外そうな顔をする。続けざまに毒を吐いてやろうと思っていた朝陽だったが、なんとなくその気が削がれてしまった。
「……無事、ね……」
一月前の出来事が頭を過り、朝陽は知らぬ内に呟いていた。それを聞いて、十条九は気まずそうに顔を背ける。
「……悪い、言い方がよくなかったか」
「謝んなくていいから。別に、お兄ちゃんが悪いわけじゃないじゃん」
あの時、逃げ惑う人々の中、自分に向かって手を差し伸べた兄の姿を知っている。そして、その手が届かなかったが為に、妹が惨劇に巻き込まれた事を、兄が罪悪感として抱えているのも、見れば分かる。だから彼女は、「普段から運動不足のくせに、あんな時だけ都合よく動けるほど、お兄ちゃんは主人公属性じゃないよね」と、笑い飛ばした。
「……っ、それは……」
少しばかり不服そうな顔をしながら、十条九はもごもごと反論の言葉を探す。それを遮るように、朝陽は軽く両手を叩いた。
「はい、一ヶ月前の話はこれで終わり。いつまでもウジウジと引きずらない」
「そうは言ってもな……」
朝陽は人差し指をピッと伸ばすと、十条九の鼻先へと突き付けた。
「とにかく!今はこれ以上はなし!……今、この場では、ね」
語尾だけは、わずかな弱々しさを伴っていた。きっと彼女自身も、それが先延ばしである事を、分かっている。だが、今この場で一ヶ月前の出来事を突き詰めていったところで、互いの傷を再び広げる結果にしかならない事を──兄を追い詰める事にしかならない事を、理解していたのだ。
「そういえばお兄ちゃん、一ヶ月間何してたの?」
ふと、朝陽は問い掛ける。話題を転換するという意味合いもあったのだが、それ以前に単純な興味や好奇心でもあった。十条九は一瞬だけ目を伏せると、「まあ、いろいろあったよ」と口を開いた。
病院に運ばれた事。叔父夫婦と連絡が取れず、クラスメイトの家に厄介になっていた事。いくらかの事情を明かしていく中、朝陽は自分が死んでいた事にされていたと知ると複雑そうな表情を見せ、そして十条九に仲のいいクラスメイトがいた事を知ると、驚愕に目を見開いた。
「う、ウソでしょ!?お、お兄ちゃんに友達!?」
「そんな大げさなもんじゃない」
まるでこの世の終わりのような騒ぎ方をする朝陽に、流石の十条九も眉をひそめる。しかし、朝陽の驚愕は止まらない。
「信じられない。だってお兄ちゃん、一日の間教室で一言も発さないとかザラでしょ?イヤホン常備でいつもよく分からない本ばっかり読んでるじゃん?そんなお兄ちゃんと仲良くしてくれるとか……よほどいい人なんだろうね」
反論の言葉を探していた十条九は、しかし最後の言葉を聞いて、微かに目を見開く。それから、彼は素直に小さく頷いた。
「……ああ。本当に、いい人だよ」
「そっか。じゃあ、大切にしないとね」
何気なく、朝陽が言葉を返す。しかし、それに十条九が返答をなす事はなかった。ただ、彼がひっそりと、自らの胸に爪を立てるような仕草をしたのが、少し気にかかった。
「……でもお兄ちゃん、どうしてここに?ここって、ほら……何て言うか、秘密の組織みたいなところでしょ?」
問い掛けに対して、十条九は言葉を詰まらせる。その表情に一瞬影が差すのを、朝陽は見逃さなかった。嫌な予感が、不吉な感覚が、胸中を這う。
「あ、あのさ、もしかして……」
不安を抱えたまま、朝陽は聞きづらい事を尋ねるように、口ごもった。だが、やがて意を決したように続ける。
「……私のせい?」
ほんの一瞬、再び沈黙が訪れる。不安そうに尋ねた朝陽を見て、十条九はどうしていいのか分からないというように、視線を泳がせていた。
「私が、こんな事に巻き込まれたから……そのせいで、お兄ちゃんまでここに……?もしかして、お兄ちゃんまで狙われたとかじゃ……!」
「違う」
短い一言が、朝陽の言葉を遮る。
「……お前の関係者って事で、ここに連れて来られただけだよ」
目も合わせぬまま、十条九はそう続けた。それが嘘だという事は、追及するまでもなく分かった。分かってしまう程に、彼の表情には影がかかっていたのだ。一ヶ月の間、兄の身に起こった出来事を、朝陽は知らない。それでも、その一端を感じ取ってしまうくらいに、彼の目には昏い影が宿っていたのだ。
「……そう」
彼女は、それに気付かないふりをした。兄にとって触れたくない事実が、同様に自身を傷付けるものである事を、どこかで感じ取っていたのだ。
ふと、花を思わせる香りとともに、足音が近づいてくる。振り返ればそこに、トレーを持つ女性の姿があった。自らの前に、湯気の立つカップが置かれるのを見ると、朝陽は笑顔を作った。
「ありがとうございます、おばさん」
「それとこれ、よかったらお茶菓子に」
紅茶のカップの隣に、クッキーの乗った皿が差し出される。焼き立てなのだろうか、バターとチョコの甘い香りが、ほんのりと鼻に漂ってくる。十条九はそれを見て、何故か一瞬だけ視線を逸らしていた。
「それにしても、朝陽ちゃんのお兄さんとはね~」
「兄が何か粗相を働きませんでしたか?」
「おい」
朝陽が不安げに尋ねると、十条九は細い目をさらに細めながら睨む。冗談ではなく、心底からそう尋ねているあたり、悪質だった。
「あら、粗相なんてとんでもない。むしろ、すごく助かったわ」
「え?」
予想外の言葉に、朝陽はポカンとした表情を浮かべる。それを見ると、女性はニコニコと微笑んだ。
「実はね、今日調理場で人手が足りなくて、ちょっとあたふたしてたのよ。そしたら、『何か手伝いますか』なんて言うもんだから、厨房手伝ってもらったの。いや、最初は見かけない子だから、訓練生かな~なんて思ったんだけど、聞いてみたら朝陽ちゃんに会いに来たって言うから」
笑いながら、女性がバシバシと十条九の肩を叩く。柄にもなく照れているらしく、十条九はそれをごまかすように目を伏せていた。朝陽は少し意外そうな目で、そんな兄に視線を向けている。
「へぇ……けど、お兄ちゃんが厨房入って大丈夫だったの?お兄ちゃん、いっつも味付け適当だから」
「余計なお世話だ。ここ最近、訳あって自炊以上の事をやってたからな。家事スキルは前より上がってる」
得意げな表情、そして妙に強気な口調に、朝陽は目を細める。何があったのかは知らないが、彼の自信に繋がる出来事があったのは、確実だろう。自分の知らない兄の姿にわずかながら、朝陽は日常との乖離を感じていた。
「でも、本当に助かったわ。手際もいいし、丁寧だし。これからも定期的に手伝ってくれたら助かるんだけどなぁ」
チラチラと、期待の込められた女性の視線が、十条九に向けられる。それから逃れるように、彼は気付かないふりでそっぽを向いていた。
「よかったねお兄ちゃん。就職決まったじゃん」
「他人事だと思いやがって……」
そう言いながら、十条九はボリボリと後頭を掻いた。そんな様子を見ながら、朝陽がふと尋ねる。
「けど、何で食堂にいたの?私が研究所にいるって知らなかったの?」
「ここ、広いからな。研究所にしたっていくつ部屋があるんだか。それで、一応いくつか見て回ったんだけど、結局お前がいる場所は見つからなかったんだ」
「研究員の人に聞かなかったの?」
「いや、聞いたけど……その度にお前は誰だって怪しまれてな……」
その言葉に、朝陽は納得の表情を浮かべる。兄が研究所を尋ねて回って、その度に他の研究員から怪訝そうな顔をされている様子が、ありありと思い浮かぶようだった。
「結局見つからなくて、昼時になったから食堂の方を探しに来たんだ。もしかしたらこっちに居るかもしれないと思ってな。で、今に至る」
「なるほど、その時にすれ違っちゃったのかもね」
朝陽の言葉に、賛同するように頷きながら、女性が彼女の隣へと腰掛ける。それから、その口を不満げに尖らせた。
「でも、さすがに案内くらいしてくれるんじゃないのかねぇ?皆十条くんのことほったらかしだったの?」
「いや、今日は局長が来るとかで、皆ピリピリしてたんですよ。実際、俺がここに来れたのも、そのついでみたいなところはあるんです」
十条九の説明に、女性は「あー、そういやそうだったね」と、思い出したような声をあげる。
「けど急に、何しに来たんだろうねぇ?朝陽ちゃん、何か聞いてる?朝陽ちゃんの検査結果を見に来たとか?」
「新しいシステムのテストが、どうとかって……」
朝陽は、先ほどの研究所でのやりとりを思い出しながら答える。開発された新しいシステムの動作テストを行うと、例の眼鏡の研究員とカガリが言葉を交わしていたのは、記憶に新しかった。
「……検査結果……か。お前、それに関しては何も問題ないのか?」
ふと、二人の会話を聞いていた十条九は、唐突に低い声で尋ねた。彼の表情には、不安からか、少しの険しさが浮かんでいる。言われていることの意味が分かると、朝陽は自分の目を指差した。
「これのこと?」
「……ああ」
その瞬間、二人の間の空気が、急に水分でも含んだように、重くなる。それに気付くと、女性は「夕飯の仕込みしなきゃいけないの忘れてた」と、席を立った。気を遣わせてしまったか、或いは居心地の悪い空気に、耐えかねたらしい。それを見送ってから、十条九は再び口を開く。
「お前が普通に施設内を歩き回ってるってことは、今のところ何も問題ないってことか?それこそ、検査なんて言われたもんだから……もっと、酷い状態を覚悟してた」
十条九は推察を口にしながら、表情を曇らせる。それが、少なくとも自分の身を案じてのものだと分かると、朝陽は兄から視線を外した。
「あの夜以来、眼の色も元に戻っちゃったし……能力の方も、よく分からないままで。何回かテストしたんだけどね」
「何か、発動のための条件があるってことなのかもな。或いはもう、そんな力は消えてしまった、とか」
難しい顔をしたまま、十条九は腕を組む。
「……それならそれでいいけどな。お前がいつまでも、そんなモノを背負ってる必要はないわけだし」
小さく、聞かせるつもりのない程度の声で呟く。故に、朝陽もそれが、聞こえないふりをした。
「……条件ってやつ、研究員の人たちも同じこと言ってたよ。いろんな条件下で試験をしたら、もしかしたら……」
その瞬間、十条九の表情が険しさを帯びた。何かを侮蔑するような、知らない誰かに警戒の視線を向けるような目で、彼が何を考えているのかが、分かってしまう。朝陽は、慌てたように両手を振りながら否定した。
「違うよ、危ないこととかはされてないから。っていうか、お兄ちゃんって私のことそんなに心配するようなキャラだったっけ?」
未だに訝しげな顔をしている十条九に向かって、彼女は冗談めいた口調で言った。だが、彼の表情は依然として変わらない。
「はぐらかすな。何かあってからだと、遅いんだからな」
険のある声で、短く口にする。朝陽は、首を横に振って否定した。
「だから、平気だってば。お兄ちゃん、ちょっと疑いすぎなんじゃないの?」
「悪いな、そういうキャラなんだよ、俺は」
嫌味っぽい口調で彼がそう言うと、朝陽は露骨に眉をひそめ、不快そうな顔をする。
「ICSAっていうこの組織自体、どうにも胡散臭いというか……秘密裏にこんなことをしている時点で、何か裏があっても不思議じゃないだろ?例えば、吸血鬼を実験に使うとか、軍事利用するとか……」
声を潜め、周囲の様子を窺う素振りを見せながら、十条九は口にする。朝陽の偽の死体を用意できたことや、これだけの施設を持つ組織が秘密裏に存在していることを鑑みれば、何か後ろ暗いものを抱えていても不思議ではないと、彼は疑っているのだ。朝陽の知らぬところではあるが、オペレーターに関する実験の事を、知っているが故でもあるのだろう。
「考えすぎだって。現に、私のことを助けてくれたんだよ?」
「善意だけが、人を助ける理由にはならないだろ?それこそ、お前が保護されてるのは、その能力があるからじゃないか」
それを聞くと、いよいよ朝陽はむっと顔をしかめる。彼の言葉が、飛行場に駆け付けた甲鐘達や、自分によく接してくれているカガリ達研究員を貶めているようで、気が付けば彼女は睨むような目を、兄へと向けていた。
「ここの人たちは、皆いい人だよ。お兄ちゃんは知らないだろうけど……」
「いくらでも、そういう風に振舞うことは出来る。お前が猫被ってるみたいにな」
ひどく理知的な口ぶりで、十条九は言葉を被せる。その一言でとうとう、彼女は沸点へと達した。くどい物言いにしびれを切らし、朝陽は音を立てて席から立ち上がる。その目からは、十条九に対する厭悪がありありと見て取れた。
「昔っからそうだよね、お兄ちゃん。何でもかんでもすぐに疑って、信用できないって言って。そんなんだから万年ボッチなんだよ」
十条九は何か言い返そうと口を開いたが、思い直したようにそれを閉じる。それから居心地の悪そうに自らの手を弄ぶと、視線を逸らしながら恐る恐る口にした。
「悪い、そういう話をしに来たわけじゃないんだ。とにかく、俺はこのままでいいのか不安で……」
「結局同じことでしょ。お兄ちゃんはここの人たちを信用できないから、そういうことを言ってるだけで……」
「最後まで聞け」
うんざりしたような口調で言いながら、十条九が眉をひそめる。朝陽は不承不承とばかりに押し黙った。
「何はともかく、あの日を境に俺たちを取り巻く環境は変わった。もう、俺らが元の生活に戻れることはないだろう。お前だって、下手したら一生このままこの施設の中に閉じ込められっぱなしかもしれない。それならまだマシだけど、今後吸血鬼との戦いが激しくなってきたら……もっと、最悪の事態も想定しなきゃならない」
十条九は、視線を下げる。物憂げなその表情が、彼の言葉の意味が分かってしまっただけに、朝陽も容易に口を開けなかった。
今でこそ、朝陽自身は人間らしい扱いを受けている。無論彼女としては、それが覆る事はないだろうと、そう彼らの事を信用している。だが現に『女王』の力を巡って、あれだけの規模の災害が引き起こされたのだ。その力の一部を継承してしまった自分が、今後『女王』の代わりに争奪の対象にされる事も、想像に難くない。
絶対の安全など、あり得ない。今後、自分の喉元に吸血鬼の手がかかる事も、十条九が案じるように、自分がICSAという組織に利用されるだけの存在になる事も、否定できない可能性なのだ。
だが、だからこそ朝陽は尋ねざるを得なかった。
「──だったらどうするの?現状、ここにいる以外の選択肢がある?」
朝陽の問いに、十条九は何も言えずに口を閉ざした。答えられない兄の様子を見て、朝陽は鼻を鳴らす。結局、彼はそこ止まりなのだ。どれだけ朝陽の身を案じてみても、十条九という人間は、妹を救い出すための手段を持ち合わせてはいない。
無論、彼の言葉に偽りはないのだろう。心底から妹の心配をして、彼女の事を思って、あのような発言をしたのだろう。だが、だからこそ、朝陽にはそれが受け入れられなかった。言葉にして喚起するだけで、その実何の手段も持たない中途半端さが、無責任に感じられてしまったのだ。
「それとも何?お兄ちゃん、私をここから連れ出して、これから先私のことをずっと守ってくれるって言うの?」
茶化した風な口調で、朝陽が笑う。そんな、兄を追い詰めるだけの言葉しか吐けない意地の悪さが、自身の胸をチクリと刺す。彼女の心情を知ってか知らずか、十条九はげんなりした様子でため息を吐くと、睨むように目を細めて応じるだけだった。それを無言の肯定と受け取ると、朝陽は続ける。
「でしょ?だったら、今は大人しくICSAに保護されてるしかないよ。目的がなんであれ、私たちを守ってくれてることに変わりはないんだから。それに、私だってこの能力をどうにかしたいんだよ」
言葉の端に、諦念のような何かを感じさせながら、朝陽は十条九を追い詰める。十条九は依然として、黙り込んだままだった。まだ納得のいかない様子のまま、彼はテーブルの上で組んだ指に、力を込めている。何かに耐えるように目を閉じ、やがて彼は「分かった」と、小さく、降参の言葉を吐いた。
「……けど、本当にヤバイことされそうになったら……」
「はいはい。まったく、お兄ちゃんは心配症なんだから」
会話を打ち切るように言いながら、ヤレヤレと首を振る。その言葉のひどい虚しさに、十条九はそれ以上口を開かず、目を伏せるだけだった。訪れた沈黙の中、厨房へと引っ込んでいた女性が、ふと配膳台の向こうから顔を出す。
「十条くん、ちょっといい?局長から内線」
十条九はそれを聞くなり、すぐに立ち上がり声の方へと足を向けた。視線を上げる事もなく、一人取り残された朝陽は、手元に置かれていた紅茶を一口含む。とっくに冷めてしまった液体を飲み込んでから、彼女は息を吐き出した。
「なんでこう、いがみ合っちゃうのかな……」
ポツリと呟きながら、彼女はクッキーを一つ手に取る。綺麗な円形をしたそれを、無為にパキッと両断してから、彼女はしばらくぼんやりと眺めていたそれの片方を口に放り込んだ。
「あ、おいしい……」
控えめな甘さのクッキーを口にしたその瞬間、ふとそんな言葉が口から零れた。この施設に来てからというもの、こういう類の物を食べていなかったせいもあり、朝陽は懐かしさにも似た感覚を覚えていた。自身の好みの味である事も手伝い、気づけば彼女は、次の一つに手を伸ばしていた。
十条九が戻ってくるのに、さほど時間はかからなかった。再び朝陽の向かい側にやって来た彼は、しかし今度は腰を下ろさず、突っ立っている。爪先は真横を向いたまま、そんな風にして朝陽と正面から向かい合おうとしない様子を見れば、考えなくとも、この後の展開が分かってしまった。
「もうそろそろ、俺は戻る」
「……ふーん、そう」
適当に返事をしながら、それ以上の会話を断る代わりに、朝陽はクッキーを口に運んでいる。いつの間にか、女性も十条九の隣に立っていて、空になった朝陽のティーカップに、紅茶を注いでいた。
「もう帰っちゃうの?何だって、局長も十条くんをこっちに住ませてあげないのかねぇ」
「別に、俺は検査するようなことありませんから……」
「そうは言ってもさ、わざわざ兄妹を別々のところに住ませる必要ないじゃないのぉ」
女性は不服そうに口にする。確かに、十条九も朝陽も、そこに違和感を覚えてはいた。二人に極力接点を作らせたくないという、何らかの意図を疑っている部分は、恐らく両者の中にある。しかし、先ほど朝陽が言ったように、今の自分達に出来る事など、何もなかったのだ。故に、二人は何も言及しなかった。
「まあ、とにかくそういうわけだから……もう、行くな?」
「うん。じゃあねお兄ちゃん、体に気をつけてね」
そんな社交辞令を口にし、朝陽はひらひらと手を振った。「お前もな」などと無為な言葉を返し、彼は女性に頭を下げるとそのまま出口に向かっていく。
「いいの朝陽ちゃん?お見送りしなくて」
「はい。そこまですると、面倒くさがられちゃうんで。……よく分からないけど、そういう距離感なんです、私たち」
朝陽はそう言って苦笑しながら、兄の背中を見送った。途中、彼が振り返ることはなかったし、そうなることを彼女自身も分かっていた。これだけ仲が良くないのに、お互いがどういう人間かは分かりきっている。分かりきっているからこそ、互いに深い干渉が出来ずにいるのだ。
「それにしても、このクッキーおいしいですね。おばさんが焼いたんですか?」
話を逸らすように、朝陽は尋ねた。すっかり気に入ったクッキーを、彼女はもう一つ口に運ぶ。
「あれ?聞いてないの?それ作ったの十条くんだよ」
数秒の間、朝陽の思考が停止する。してやられた、と気付いたのは、その直後だった。
「さっき、朝陽ちゃんを待ってる間に二人でお茶してたんだけどね。その時に、十条くんがお茶菓子にって、作ってたんだよ」
「────!?」
女性が、意味ありげな顔で笑っている。その瞬間、朝陽は驚きのあまり喉を詰まらせていた。
「むぐぅっ……!?」
突然呼吸が出来なくなった彼女は、慌てて自らの胸を叩く。咄嗟に紅茶を飲もうと伸ばした手が、熱さにカップを取りこぼして床に落としてしまう。ガシャン、と盛大な音とともに、カップの破片が床に転がった。
「朝陽ちゃん、落ち着いて!ほら!」
いつの間に持って来たのか、水の入ったグラスが朝陽に向かって差し出される。受け取るや否や、彼女はすぐさまそれを飲み干した。
「ふう、助かった……」
ホッと胸を撫で下ろしながら、彼女はため息を吐き出す。あまりに急なことだったせいか、心臓がバクバクと音を立てていた。
「まさか、そこまで驚くと思わなかったよ」
申し訳なさそうな顔をする女性に、朝陽は苦笑する。しかしその内心では、兄の画策に対する舌打ちをしていた。だが、彼女は足元に落ちたカップの破片に目を留めると、慌てて床の上に屈み込んだ。
「あ、すみません!」
「ああ、いいからいいから。危ないから座ってて」
彼女はすぐさま割れたカップの破片を拾い始めた。しかし案の定、右手の人差し指に細かい破片が刺さる。それを抜き取ると、傷口からプックリと血の滴が膨れ上がった。
「もう、言わんこっちゃないんだから!」
「あはは……」
慌てて近づいてきた女性に向かって、困ったように微笑みながら、彼女は自分の指を口に咥えた。その、瞬間だった。それまで、朝陽に向かって不安そうな視線を寄越していた女性は、唐突に言葉を失うと、目を見開く。その、怯えと驚愕が入り混じったような表情に、朝陽は胸中に不安を募らせながら、首を傾げた。
「……どうか、しましたか?」
恐る恐る、小さな声で尋ねる。女性の指先が、微かに震えながら朝陽の顔を指差した。
「あ、朝陽ちゃん、それ……」
「……え?」
尋ね返す朝陽、その両の瞳は、淡い青色の光を放っていたのだ。




