〈1〉, 〈2〉
―1―
それは、一体いつの記憶だっただろうか。
まだ、小学校に入る前。
まだ、自動販売機に手が届かなかった頃。
まだ、両親が別れる前。
まだ、服の下に暴力の痕が残っていた頃。
一度、親の目を盗んで公園に行った事があった。何がきっかけか思い出せないが、当時の自分に受け入れられない何かがあって、逃げ出すように家を出たのだ。幼い子供に行く当てなどなく、結局たどり着いたのはそんな場所だったのである。
知り合いなど誰一人としていない中、一人の少年と遊んだ記憶があった。自分より一、二歳くらい年上の、男の子だ。顔は、よく思い出せない。ただ、二人して色々な事をして遊んだのは、記憶にある。遊具に登って、町を探検して、犬に吠えられて、駄菓子屋に行って、高台へと上がった。全部が楽しかった。そうしている間は、嫌な事を全部忘れる事が出来たのだ。しかし、そんな記憶が突然暗転した。
二人してもたれ掛かっていた高台の古い鉄柵が、パキン、と音を立てて壊れたのだ。
何メートルもある高台から、二人して落下する。何をする間もなく、自分は地面に叩き付けられて、自分の内側から嫌な音が響くのを聞きながら、そして──
―2―
枕元で鳴るアラーム音を聞いて、十条朝陽は目を覚ました。寝ぼけ眼をこすりながら、ゆっくりと体を起こす。寝起きのぼんやりとした頭で、彼女は首を傾げた。
「なんか……夢……見てた、ような」
この頃、夢を見る事が多くなった。それも決まって、幼少の頃の自分の記憶が、夢の中で再生される。一晩、二晩程度の出来事ならば、「まあ、そういう事もあるだろう」と片付けられた。だが、ほぼほぼ毎日、連続して毎夜再生されるその夢は、偶然の一言で片づけるのには、多少無理があった。
そして、それ自体が少し不思議な事ではあるのだが、奇妙な点は更に別にあった。夢の中で見る光景、それが間違いなく自分の記憶であると確信しているのに、その一方でそれがどこか既視感を欠いているような、ゲシュタルト崩壊のような気味の悪さを伴っていたのだ。
要因が心理的なところにあるのか、それとも別のところにあるのかは、朝陽自身には分からない。だが、今の自分には──1カ月前の出来事を経験した彼女には、何が起きても不思議はないという、確信めいたものがあった。
朝陽はベッドから抜け出すと、軽く伸びをしてから部屋を見渡す。飾り気はないが、とりあえず生活必需品だけはそろえたようなこの部屋は、一ヶ月ほど滞在してようやく馴染んできた。だがこの殺風景さが、女子高生としてごく一般的な感性を持つ彼女にとっては些かの不満であるのも事実である。
もっとも、自分がそんな事を口に出せるような立場にない事も、朝陽はよく理解していた。故に、彼女は不満を自身の内に引っ込めて、身だしなみを整える為部屋を出て、寝間着のままで洗面所へと向かった。
女性にとって、身だしなみを整える事は、戦場に向かう兵士が装備を整える程の気概に満ちているものらしい。少なくとも朝陽の兄は以前、その日の格好について鏡の前で一時間近く悩んでいた朝陽を見て、そう口にしていた。
「兵士」という表現は可愛くなくて嫌だったが、しかしそれが的を射ているのも事実であって、十全な反論が出来なかった事を覚えている。むしろ、どうしてその程度の気概もなく、見てくれを整えられると思うのか、朝陽にはそちらの方が不思議で仕方ない。
女子高生が学校という社会で生きていく為制服を必要とするように、サラリーマンにはスーツが必要で、主婦にだって、イベントの際身に着けるための、上等な服が必要だ。皆、装備を整えて自身のフィールドへと向かっていくのは、それこそ戦場へ向かう兵士と変わらない(兄の表現を借りるのは少し癪だが)。社会の中で生きる以上、それは必要不可欠な事だろう。
社会、集団というものは、異物の存在を許さない。その内側で生きようと思うのであれば、それ相応の格好が必要だ。故に、武器を装備する兵士のように、女性は自身を服飾や化粧で『武装』するのだ。
──などと考えている傍らで顔を洗い、歯を磨き、最後に髪を梳かして、朝陽は身だしなみを整える。一通りを終えたところで、鏡を見ながらおかしなところがないか確認する。
「……よし!」
納得すると、彼女は小さく頷いた。鏡の前で口角を上げてみて、自らの表情の出来栄えを確認し、それに満足する。ちょうどその時、鏡越しに、一人の女性がのそのそと歩いてくるのが見えた。
「あ、おはようございます、カガリさん」
振り返って挨拶をすると、そこでようやく朝陽の存在に気づいたというように、彼女は目を瞬かせる。
「んー……あー……おはよ……」
カガリと呼ばれた女性は、ダルそうに返事をしながら、寝癖だらけの頭をぼりぼりと掻いた。半開きの目に、よれよれの白衣を着たその姿は、誰がどう見てもだらしない。女性の品性という言葉が裸足のまま逃げ出しそうな、そんな見てくれに、朝陽は頬が引きつりそうになる。
「起きてたならちょうどいいや……食堂行こっか……」
「あ、はい。じゃあ、私着替えてきますね」
「ん、分かった。先に玄関出てるから……」
そう言って、彼女はのっそりとした足取りで出て行こうとする。背筋が凍りそうになる言動に、朝陽は慌てて彼女を呼び止めた。
「ちょ、カガリさん!?その格好で行くつもりなんですか!?寝癖ついたままですよ!?」
何なら白衣には皺がよっているし、その下に着ているTシャツ(よく分からない元素記号が書かれているデザイン)は、確か三日前にも着ていたものだ。
「別にいーよ……どうせ誰かに見せるわけじゃないし……」
「いや、研究所の人たちに見られるじゃないですか!?」
それでも足を止めようとしない彼女を慌てて呼び止めると、その手を取って鏡の前に立たせた。自らのヘアブラシを取り出すと、カガリのショートカットを梳かし始める。その髪が短い理由も、恐らくは手入れの容易さ故のものだろうと、朝陽は何となく想像していた。
「別にいいのに……」
朝陽にされるがままになりながら、彼女はボソボソと呟いた。
「身だしなみくらい気を使ってくださいよ。せっかくの美人が、台無しですよ?」
冗談でも言うような口調でそう言いながら、朝陽は苦笑する。内心では、頭がぼさぼさのカガリと一緒に出歩いて、後ろ指をさされたくないというのが、本音ではあった。
「……男に生まれたかったな……そうすりゃ、いろいろ楽だったのに……」
「いや、さすがに男の人でも寝癖直すくらいはしますけどね?髭だって伸びるし」
「あー……じゃあ次回は人間以外でやり直すわ……」
その発言は科学者として如何なものか。何はともかく、一通り寝癖を直し終えると、朝陽はカガリの前に回りこみ、白衣の襟元を正す。先ほどよりも幾分マシになったが、相変わらず半開きの目のせいで、シャキッとしない。
「……終わった?じゃ、行こー……」
「あ、待ってください!私、着替えないと」
「そのまんまでもいいんじゃない……」
とんでもない発言をするカガリのことを残し、朝陽は自分の部屋へと戻る。あらかじめ用意していた服を可能な限り素早く身に着けると、備え付けの鏡の前で確認する。急がなければ、カガリは待っていることに飽きてさっさと食堂に行ってしまうだろう。
それから急いで玄関に向かうと、とうに靴を履いたカガリが、ボーっと立っていた。
「お待たせしました」
「んー、別にそこまで待ってないけど……」
二人揃って部屋を出ると、廊下の隅にあるエレベーターに乗り込む。朝陽が慣れた手つきでパネルを操作すると、エレベーターのドアが閉まり、狭い空間が下がっていった。
「……ねえ、朝陽ちゃん」
不意に話しかけられ、朝陽はカガリの方を振り返る。
「はい?」
「何で毎回、そんなにおめかししてるの?ただ食堂行って、研究室行くだけなのに」
そう言われて、慌てて朝陽は自分の服装を確認する。カーディガンにスカートという、そこまで派手ではない格好をしたつもりだったのだが、ひょっとしたら目立つのだろうかと、背筋が寒くなる。
「ああ、ちがうちがう。ちゃんと可愛いし、似合ってるよ。ただ、毎回毎回、着るもの考えるのって大変じゃないのかなーって」
それを聞いて、朝陽はほっと胸を撫で下ろす。ただでさえ余所者だというのに、華美な格好をしていて鼻にかけられては、堪ったものではない。控え目に、かつお洒落に。本人が気づかないくらいの自然さで、周囲に媚を売る。それが、朝陽の処世術だった。
「そういう感覚、私には分かんないなーって思ってさ。ここにいる職員、格好なんか気にする奴いないし。何なら風呂入らなくても平気な仕事中毒者もいるしね」
凡そ女性とは思えない発言に、朝陽は苦笑した。内心では、女性でありながら兄と同じようなメンタルの持ち主に、目が回りそうな思いをしていた。
「カガリさん、美人だから白衣以外の服も似合うと思うのに」
「見せるような相手がいない。大体、そういうのが面倒だからここで働いてるってのもあるし」
ぼりぼりと、けだるそうに頭を掻く。その動作には、気品の一欠けらも感じられない。
「今度、私が似合う服見繕いますか?」
「いいよ、面倒なだけだし……っていうか、私が朝陽ちゃんの世話係なのに、それじゃ私が世話されちゃってるじゃん……」
カガリというこの女性は、ICSAの研究員であるとともに、一ヶ月前から世話役として朝陽の面倒を見ている。恐らくは女性の職員が少ないため、彼女が抜擢されたのだろう。研究員が寝泊りするための寮の一室で、彼女たちは生活を共にしていた。だが、あまり自分のことについて多くを語りたがらないようで、朝陽が知っていることと言えば彼女の名前と(それさえ、苗字なのか下の名前なのかすら分からない)、極端に朝に弱いことくらいだった。
二人はエレベーターを降りると、その先にある渡り廊下を通って隣の棟に移動する。突き当たりを曲がった辺りから、だんだんと食欲を刺激する香りが漂ってくる。しばらく歩みを進めたところで、彼女たちは食堂へとたどり着いた。
「あら、おはよう朝陽ちゃん。今日は和食と洋食どっちにする?」
足を踏み入れたその先には、広めのホールのような場所が広がっている。ちょうど、宿泊施設の食堂や、バイキング会場を思わせるつくりだ。ふと、朝陽達の存在に気付いたらしく、入り口の近くにあるカウンター越しから、60代くらいの女性が話しかけてくる。
「おはようございます。じゃあ、今日は和食でお願いします」
「はいよ。今日は朝陽ちゃんの好きな煮物作っといたからね。いっぱい食べてって」
「え、ホントですか?私、おばさんの作る煮物、本当に大好きで!」
朝陽がそう言いながら微笑むと、女性は嬉しそうに、小ジワの目立つ顔に笑みを浮かべる。とりあえず料理を褒めるというのは、朝陽が相手に取り入る為の常套手段、多岐に渡るその中の一つである。だが、この時の彼女が吐いた言葉は、意外にも素直なものだった。所詮は施設の食堂、と、この場所にやって来た当初は半ば期待もなかったのだが、提供される料理はいずれも、味にうるさい朝陽が納得出来るものだったのだ。
「そう言ってもらえると、作りがいがあるよ。料理を褒めてくれるのなんて、朝陽ちゃんくらいだからねぇ。ここ、『胃に入ればそれでいい』みたいな人たちが多いから」
そんな言葉と共に、女性は朝陽の後ろにチラリと目をやった。そこで、相変わらず眠そうな目をこすっているカガリに気付くと、朝陽は苦笑する。むしろ、先程部屋を出た時よりさらに眠そうに見える。
「おはよう、カガリさん」
「あー……おはよう。おばさん、いつもの」
「はいはい」
カガリの言葉を予め予想していたかのように、女性はカガリの言葉尻に被せながら返事をすると、厨房の奥へと引っ込む。しばらくして、ご飯に味噌汁、煮物といった和食が並んだトレーと、カレーライスの乗ったトレーがカウンターに出された。
「カガリさん、いっつもカレーですね」
「まあ、野菜も肉もご飯も一度に全部食べられるし。あと、安定してうまい。どんな店でも、とりあえずカレー頼んでおけば間違いはない」
仮にも料理を提供する場でその回答は如何なものかと思い、朝陽はチラチラと、カガリと女性を見比べる。だが、女性は呆れたようにため息を吐いていただけだった。
「本当に、なんでカレー以外の物食べないんだか。カガリさんのこと何年も前から知ってるけど、一度だってカレー以外の物食べてるとこ見たことないわ。毎日三食全部カレー」
「いいじゃないか。好きなんだから」
トレーを受け取ると、カガリはプイッとそっぽを向いた。そのままテーブルの方へ足を向けるので、朝陽も慌ててトレーを手に取る。
「おばさん、いただきます」
「はいよ。おかわりあるからね」
カガリの後を追うと、彼女は空いている席を探し、キョロキョロと辺りを見渡しているところだった。朝食の時間で混み合っている事もあり、どうやら満席のようだ。
「席、空いてませんね……」
「んー……私は別に、必ずしも席に座らなきゃ食べられないわけじゃないんだけど」
「朝陽ちゃんはそうじゃないんでしょ」という意味合いの視線が向けられる。無論、言語道断だ。むしろ、なぜ朝陽の方がマイノリティであるかのような発言をしているのか、さっぱり理解出来ない。普通の人間は、きちんと席に座って、テーブルで食事をするものだ。それ以前に、カガリの示唆する「席じゃない場所での食事」が一体どのようなものなのか、まるで分からない。
「……席、空いてませんね」
故に、朝陽はカガリの発言が聞こえなかった事にした。朝陽が数秒前の言葉を繰り返しながら、周囲を見渡していると、テーブルに座っている職員の数人が、二人に向かって手を振っているのが見えた。
「おーい、朝陽ちゃん、こっちこっち」
その中の一人、無精髭の中年男性が声をかける。朝陽は、笑顔で応じた。
「あ、皆さん、おはようございます。カガリさん、行きましょう」
「んー……」
カガリを連れてそちらへと向かうと、同じように白衣を纏った数人の男性たちが、テーブルに陣取っていた。彼らは口々に、挨拶の言葉を投げ掛けてくる。
「おはよう。俺らもう終わるから、ここの席使っていいぜ」
「え、いいんですか?ありがとうございます」
丁寧に礼を言いながら、朝陽は笑顔をつくる。好印象を与えるよう計算された口角に、男性職員達はつられて微笑んだ。
「いいっていいって。朝陽ちゃんのためなら……って、何だ、カレー女も一緒か」
「うるさい、カレーを馬鹿にするな」
不機嫌そうなトーンで言いながら、座っている男性の一人を半ば強引に押しのけ、その席を奪い取る。周囲の視線をまったく気にせず、カガリはさっさとカレーを口に運び始めた。
「まったく、お前は華がねえよなぁ、女のくせに。少しは朝陽ちゃんを見習えよ」
邪険にされた男性は不満げに文句を溢しながら、同意を求めて周囲へと視線を向ける。賛同するように、職員達は「うんうん」と頷く。
「だな。本当に、職場に女がいる感じがしねえよ」
「私だって、好きで女に生まれたわけじゃない」
眉の間に僅かな皺を作りながらも、カガリはひたすらカレーを頬張る。食事をしているというよりは、もはや作業的な何かを感じさせる光景だった。
「けど、そのおかげで朝陽ちゃんと一緒に生活出来てるんだもんなぁ」
「だよなぁ。その点は役得だ。代わってほしいくらいだ」
皆が口をそろえてそう言うのを見て、朝陽は困ったように苦笑する。そろそろカガリにフォローを入れておいた方がいいかと考えていると、当の本人は口の中のカレーを飲み込み、周囲の面々を見ながら言った。
「別に代わってもいいが、その場合お前らの足の間に生えてるものを引きちぎらなければならないぞ」
「コエーよ!真顔でそんなこと言うなよ!」
「案ずるな、少し声が高くなって体が丸みを帯びるだけだ。ついでに、去勢すると聡くなるとも言うぞ?」
「だからコエーって!手をクイクイさせながら言うな!」
カガリがまるで何かを握りつぶすような動作をすると、周囲の男どもは顔をしかめながら悲鳴をあげる。女性としてはなかなか遠慮のない言動に、朝陽は乾いた笑い声を上げていた。
「こんなのと一緒に生活して、朝陽ちゃんの性格に悪影響を及ぼさないか心配だ……」
「本当にな。朝陽ちゃんには清いままでいてほしいもんな」
うんうんと頷きながら、皆が朝陽とカガリを見比べる。彼らからして見れば、朝陽は清廉潔白を絵に描いたような女子高生そのものなのだろう。今のところ、彼女が本当はただの八方美人だということは、誰にも見破られていないようだ。同年代相手に媚を売るのに比べると、自分より年上の相手は非常にやりやすい。その容易さを、彼女は内心鼻で笑っていた。
「それにしても、やっぱり朝陽ちゃんは可愛いなぁ。服のセンスもいいし。万年白衣のカレー女とは大違いだ」
「お前らも白衣だろうが。あと、カレーを馬鹿にするな」
あくまでカレーを擁護しながら、カガリは周囲を睨んでいる。
「けど朝陽ちゃん、いつもより……何て言うか、気合入ってる?」
「え?そうですかね?特に、いつも以上に気を遣ったわけじゃないんですけど……」
別段、今日に限って何かを意識したわけではない。強いて言うなら、今手元にある物の中で一番気に入っている物を着ている程度だ。
「ああ、ほら、あれじゃないか?」
よくあるお世辞かな、と朝陽が首を傾げていると、職員の一人が、何てことのないように口にした。
「今日、お兄さんが会いに来る日だろ?」
──服飾や化粧が、女性にとっての『武装』だとするのなら。兄との対峙は朝陽にとって、ある種の覚悟や抵抗感を覚えさせるものだ、という事だろう。




