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「どうぞ」
オペレーターが、水の入ったコップを差し出してくる。テーブルの上には、いつものごとくサプリメントのボトルが並んでいた。さすがに一週間以上見続ければ、この光景にも慣れてくる。しかし、空腹感が満たされないことに変わりは無い。
「な、なあ、オペレーター……お前、これだけでお腹空かないのか……?」
「ええ、特には。もし、あなたが空腹を感じているという意味なら、冷蔵庫の三番目の棚にある錠剤を服用してください。幾分マシになると思います」
相変わらず感情のない返答に、十条九は内心でため息を吐く。そういう話ではないのだが、彼はとりあえず席を立つと、オペレーターに言われたとおりに錠剤を飲んだ。
オペレーターとの共同生活には、彩りというものが無かった。食事(と呼んでいいものか不明だが)も単調、やることは特にない。かろうじて掃除や洗濯だけはやらせて貰っているが、それが終わってしまうと他に彼にできることは無くなる。後は、管理人の廿樂に度々呼び出され、そのご機嫌を取っているうちに日が暮れる。似たような日を何日も繰り返す、まるでループのような、そんなストレスフルな毎日だった。
「あ、今日も風呂掃除は俺がやっとくからな」
「では、お言葉に甘えます。しかし、いいのでしょうか。あなたにばかり、家事雑用を押し付けているような気が……」
「ああ、気にするな。梅雨の時期は黒カビが大敵だからな、俺がしっかり始末しといてやるよ」
というより、唯一心が休まるときである家事まで奪われてしまったら、確実に発狂する自信があった。まさか自分が、家事に対してここまで執着することになるなど、十条九は思ってもみなかった。
「それと、お前の白衣の裾、少し長くないか?よかったら、俺が直しておくけど」
「いいんですか?」
「ああ、これでも裁縫関連は一通りできる」
再びやることの増えた十条九は、内心で両腕を上げる。しかしそれも束の間、オペレーターの言った一言に、彼は再び沈み込むことになった。
「そういえば、管理人から言伝を預かっていました。『一狩り行こうぜ!』、だそうです」
「ああ……うん、分かった……」
『一狩り行こうぜ!』とは、『ゲームやるから来い』、という意味合いの言葉らしい。どうやら彼女は、今日もまた十条九をゲームにつき合わせるつもりのようだ。別に、彼もゲーム自体が嫌いなわけではない。しかし、誰が好き好んであんなゴミ山だらけの部屋で、ご機嫌取りの接待プレイをするというのだ。
十条九はため息を一つ吐き出す。だいぶ陰鬱な気分だった。
「……そういえば」
彼は、ふと何かに気づいたように顔を上げた。
「ずっと気になってたんだけど、『オペレーター』っていうのは、お前の『役職』なんだよな?みんなお前のことをそう呼んでるのって、お前も本名を知られるとまずいからなのか?」
「はい?」
言っていることが分からないと言うように、オペレーターは小首を傾げた。
「いや、ほら、『運び屋』さんに聞いたんだけどさ。あの人は本名を知られると不都合だから、『運び屋』さんって呼べって。お前もそうなのかと思って。それとも、ツヅラさんが『管理人』って呼ばれてるみたいな、通称なのか?」
そう尋ねると、オペレーターはようやく納得した様子になった。そして、相変わらず淡々とした声で返答する。
「ボクには、名前がないんです」
「……は?」
一瞬、それが遠回しな何か、或いは比喩表現かと思った。しかし、それはどうやら言葉通りの意味だったようで、彼女は淡々と言葉を続ける。
「ボクは、ICSAが執り行っていた『ある実験』の最中、全くの偶然で、副次的にできてしまった個体の一つなんです。本来、廃棄されるはずの一つだった。だから、ボクには名前が無い。呼称する必要が無かったんです」
無機質な話し方で、つらつらと説明を続けていく。その様子が、やけに気味悪かった。
「年齢の割に異様に知能が発達していたボクは、局長に能力を見出され、作戦司令塔、『オペレーター』という役職を与えられました。以来、ボクはこうしてオペレーターと呼ばれるようになった。ご理解いただけましたか?」
そう尋ねるオペレーターに対し、十条九は黙ったまま何かを考え込んでいた。しばらくして、彼は顔を上げる。
「じゃあ、もし、もしもの話だけど……お前に不都合があって、『オペレーター』としての仕事を続けられなくなった場合は、どうなるんだ?」
「その場合は、他の誰かが新しい『オペレーター』になるでしょう。代わりは、いくらでもいるでしょうから」
間髪入れずに、彼女はそう答えた。そんな様子を見て、十条九は言葉を慎重に選びながら続ける。
「いや、そういうことを聞いたんじゃない。お前はどうなるのか、って聞いたんだ。お前がもし『オペレーター』としての役職を降りたら……俺はお前を、何て呼べばいい?」
「は……い?仰っている意味が……」
彼女は、言葉に詰まっていた。動揺しているのだ。彼女が始めて感情を見せるのを見て、十条九は思わず口をつぐむ。目の前の少女に対して、自分がどれだけ残酷な問いをしたのかを、彼は思い知っていた。
「ボクが……『オペレーター』ではなくなったら?ボクは……どうなるのか?それは……」
彼女は落ち着き無く視線を動かしながら小さく呟く。それを見て、十条九は確信した。本当に信じられないことだが、この少女には、アイデンティティが『ない』のだ。自分自身が何者であるかを定めるための物差しを、彼女は持ち合わせていない。自己を自己たらしめる定義を、所持していない。それこそ、まるで自分がこの組織の部品か何かであるかのように、彼女は自身ですらも機械のように扱っている。そんなものは、人がされていい扱いではない。
「おい、大丈夫か?」
いつもと変わらぬ、虚無の顔。しかしそれがこの時ばかりは、まるで表情のないままに怯えているように見えて、十条九は慌てて駆け寄った。
「……問題ありません。それより、さっきの返答ですが」
彼女は一旦目を瞑ると、小さく息を吐いた。再び目を開いた時には、いつもの無表情がその顔に張り付いており、まるで何事も無かったかのように十条九の顔を見る。
「ボクが『オペレーター』を続けられない状態。それは恐らく、ボクが死なない限り訪れることは無いでしょう。つまり、ボクは生きている限りオペレーターでいられる。違いますか?」
「…………」
それ以上、十条九は何も言えなかった。この子は本当に空っぽなのだと、気づいてしまったのだ。最初から、この子には人として生きるのに必要な物が欠けている。それは、感情とか、心とか、そういうもの以前の問題だったのだ。
もし、吸血鬼との戦いが終わったとしたら、その時彼女はどうなるのだろうか。『オペレーター』が必要とされない世界で、彼女は一体何者として生きていけばいいのだろう。彼女が自分自身というものと向かい合えなければ、その時こそ彼女は破綻する。
だとすれば、彼女は何のためにここにいるというのだ。彼女が『オペレーター』としての責務を果たせば果たすほど、彼女は終わりに近づいていく。しかし、彼女が『オペレーター』としての価値を証明し続けなければ、彼女に存在意義は無くなる。その役割を全うすれば終わりは近づき、それを拒めば生きていけない。そんな自己矛盾に、彼女は気づかないふりをしているのだ。
十条九は、複雑そうな表情のままオペレーターを見つめていた。クリクリと大きな目をした少女は、十条九の心の内など知らずに、冷めた無表情を返す。
「そろそろ仕事の時間です。ボクは自室に戻ります」
彼女はズリズリと白衣の裾を引きずりながら、自分の部屋へと帰っていく。その小さな背中だけは、年相応の少女に感じられた。
それから十条九がとある決心を固めるのは、さらに一週間後の、ある出来事がきっかけだった。




