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結局その夜は一睡もできず、ベッドの上で堪えるように時間を浪費しているうちに、朝になっていた。カーテンを開け、ようやく日が上り始めるのを眺めると、十条九は部屋を抜け出し、リビングを通ってキッチンへと向かう。
別にオペレーターの機嫌を取るとか、そういう意味ではないのだが、彼は朝食を作ろうとしていたのだ。何もせずにいるよりは、少しでも手を動かして気を紛らわしていたい、というのが本音だったのかもしれない。でなければ、食欲もないのにキッチンに立ったりはしないだろう。
「おはようございます。早いんですね」
彼が冷蔵庫の前に立ったちょうどその時、後ろから声をかけられた。
「あ、ああ、おはよう」
振り返ると、オペレーターが眠そうな目を擦りながら立っている。そのクリクリとした目をしばたたかせると、彼女はジッと十条九の顔を見つめる。
「……寝ていないんですか?」
「……ああ、まあ、な……」
彼は視線を逸らすと、小さな声で答えた。そして、それをごまかすように冷蔵庫の扉に手をかける。
「朝食、よかったら俺が用意するよ」
「そうですか。助かります」
それを聞いて、彼はホッとしたような顔で冷蔵庫を開ける。変に言及されなかったことに、安堵を感じていたのだ。それが例え、十条九の腫れた目や隈の事を無視した結果だとしても、今は触れられない事の方がありがたかった。
洋食か和食か、冷蔵庫の中身を見つつ決めよう──そう思っていた十条九はしかし、冷蔵庫のドアを開いたその瞬間、口を開けたままで固まった。
「……こ、これは……」
目の前の光景に、十条九はただただ唖然とする。容量の大きい冷蔵庫の中、果たしてそこには、食品が一つも収められていなかったのだ。代わりにギッシリと詰められていたのは、ボトルに入った大量のサプリメント。ビタミン剤のようなものや、中には十条九の知らないものまで、多種に渡るサプリメントのボトルが、所狭しと置いてある。
「上の段のサプリメント、ボクだと背が低くて取りづらいんです。本当に助かります」
「……一応聞いておくけど、これ何だ……?」
何を尋ねているのか分からないと言うように、彼女は首を傾げる。
「サプリメント、栄養剤の類ですが」
「それは分かるけど……本当に、サプリメントだけなのか?食べ物は?お前、何も食べないとでも……」
冗談半分で尋ねた瞬間、しかしその質問に、彼女は間髪入れずに頷く。
「はい。別に、物を食べずとも、必要な栄養素とカロリーさえ摂っていれば、死ぬことはありませんから」
「いや、そうは言っても……」
「単純に、効率の問題です。レモン1000個分のビタミンCを摂取したいからといって、実際にレモン1000個を食べるわけにはいかないでしょう?突き詰めていけば、食事はこういう形になるんですよ」
「それは極論だろ……」
淡々と答える少女を見て、十条九は次第に気味の悪さを感じつつあった。無愛想で、無感情で、その上必要な栄養をサプリメントで摂っている。食事を非効率なものとして切り捨てている。それではまるで、燃料で動くだけの機械と何ら変わらない。人間らしさというものが、まるで感じられない。それ以上言葉を返すこともできず、彼はボトルの一つを手に取った。
「では、そのボトルと、そこの列のボトル全部を取って下さい。それから、その下の段の……」
彼女に言われた通りに、十条九はボトルを手にする。言われたものを全て抱えると、彼はダイニングのテーブルへとそれを運んだ。
「ありがとうございます。どうぞ」
そう言って、彼女はコップを一つ差し出してくる。それを受け取ると、彼女は2リットルのペットボトルをどこからか取り出し、水を注ぎ始めた。体にそぐわない大きなペットボトルを両手で持ち、何とも危なっかしい手つきでコップを満たしていく。見ている側の方が、冷や冷やとしてしまう光景だった。
水を注ぎ終えると、彼女はもう一つコップを取り出し、同じようにそれを満たす。席に着きながらボトルの一つを手に取ると、オペレーターは中の錠剤を数粒手に乗せ、小さな口に放り込んだ。コップの水を使い、それを飲み下す。小さな喉が、コクンと音を立てた。
「すみません、そこのマグネシウム取ってもらえますか?」
「あ、ああ」
十条九は自らの手元にあったボトルを、オペレーターへと渡す。まさかそんな、「醤油取って」みたいな感覚でマグネシウムを取らされることになるなど、思ってもみなかった。彼は、先ほど渡された自分の分のコップに視線を落とす。
「…………」
お前も飲め、という意味なのだろう。拒否する事が出来ないわけでもないが、これから生活を共にする同居人に対して、頭ごなしの否定をするのも憚られた。加えて、今は食欲こそないが、それでも丸二日間何も口にしていない体を、栄養失調にするわけにもいかない。ひどく気が進まないが、彼は手近にあったボトルの一つを取った。ラベルの記載に従って、3粒の錠剤を口に含む。同じように用量を確認して、彼はテーブルの上にあったサプリメントを一通り服用した。それは、食事というより、車に燃料を入れているような感覚だった。
オペレーターは十条九がサプリメントを飲み終えたのを確認すると、そそくさとボトルを片付け始める。小さな腕にいっぱいのボトルを抱えて、よろよろと冷蔵庫の方へ進む姿が頼りなく、そこだけが唯一、年相応に見える動作だった。十条九は慌てて後を追いかけ、ボトルを受け取った。
「ありがとうございます。ところで……」
十条九が冷蔵庫にボトルを戻していると、オペレーターは不意に声をかけてくる。
「局長から、何か指示は受けていますか?」
「いや……指示って?」
「ここにいる間、何かするように言われたか、という意味です」
十条九はしばらく考え込んだ後、首を横に振った。
「いや。保護するから、しばらく待機してろとしか……」
朝陽と面会する機会は、もう少し待ってほしいと言われていた。それなりに事情はあるのだろうが、詳しく説明をしてくれないだけに、変に勘ぐってしまいそうになる。
「そうですか。分かりました」
そう答えると、彼女は踵を返し、白衣の裾をズリズリと引きずりながらキッチンから出て行こうとする。唐突に打ち切られた会話に、十条九は戸惑っていた。
「ちょ、ちょっと待った。どこ行くんだ?」
慌てて呼び止めると、オペレーターは相変わらず無表情なままで振り返った。
「自室です。仕事に戻ります」
当たり前だとでも言うように、彼女は答える。
「じゃあ、俺は?俺は何をしてれば……」
昨日の夜から、やることがなくて手持ち無沙汰なのだ。何もすることがないというのも、ある意味で一種の苦痛だろう。
「さあ……待機してればいいんじゃないですか?」
無情にも、小さな少女は淡々とした口調でそう告げる。十条九はこっそりとため息を吐きながら、困ったように頭をガシガシと掻いた。
「じゃあ……何か手伝えることは?」
「ありませんね」
考える素振りも見せず、彼女は即答する。いよいよ、頭でも痛くなってきそうだった。
「……あ、そういえば」
さっさと部屋に戻ろうとしていたオペレーターは、何かを思い出したように十条九の方を振り返る。
「管理人には、まだ会っていませんよね?」
「え?ああ、言われてみれば……」
昨日は会うことはおろか、声を聞くことさえできなかった、管理人という存在。話を聞く分にはあまり素晴らしい人物とは言い難そうだが、これから厄介になるのだから、挨拶くらいしておくべきだろう。
「じゃあ、これから挨拶しに行ってもいいか?」
そう尋ねると、オペレーターはそこで初めて、考えるように少し口をつぐんだ。
「……彼女に会うなら、昼過ぎ頃に行くべきです。恐らく、彼女はまだ寝ているでしょうから」
件の管理人について聞く度に、会ってもいないのに印象が悪くなっていく気がする。とりあえず、ロクな人物ではなさそうである。
「分かった。じゃあ、後で訪ねてみるよ」
「はい。お気をつけて」
その瞬間、十条九は「え?」と聞き返していた。
「気をつける……って、何に?」
まさか、マンションの管理人を訪ねるというだけで、危ない目に遭うとでも言うのだろうか。そんなわけないと思いつつ、彼はそう尋ねた。
「彼女……管理人に、です。過去に、挨拶に行ったまま帰ってこなかった人が、数人いるので」
「……はい?」
オペレーターの言っていることが分からず、十条九は首を傾げる。
「え?つまりどういうことだ?挨拶に行っただけなのに、帰ってこないって……何があったんだよ?」
「さあ?大方、彼女の機嫌でも損ねたのではないでしょうか」
オペレーターの口調は相変わらず淡々としており、嘘を吐いているようには聞こえない。ただ挨拶に行くというだけの話が、虎穴に入って虎と戦ってくるくらいの話に誇張されているような気がしていた。
「……何者なんだよ、その管理人さんは」
そう尋ねると、オペレーターは再び口をつぐんだ。答えていいものか、迷っているのかもしれない。
「……元、ICSAの戦闘員です。一時期、彼女は部隊長を務めていました」
「部隊長って……甲鐘さんと同じか?何でそんな人が、マンションの管理人なんて……」
「問題行動が多く、手に負えなかったからです。しかし、そんな彼女を野放しにするということもできないため、適当な役職を与えて、手元に置いて『管理』しているんです」
ずいぶんとひどい言われようである。ひょっとしたら、「管理人」というポジションは何かの皮肉なのではないかと、彼は一瞬思った。
「問題行動って?」
「……例を挙げるなら……」
何の気なしに尋ねた質問に、オペレーターは少し間を置いてから答える。
「隊員を殺した、とか」




