〈2〉
―2―
「…………」
「…………」
さほど広くないエレベーターの中で、十条九は女性と二人きりになっていた。互いに一言も話さず、視線も合わせずにドアの方を向いて立っている。無意識の内に近寄りがたさを感じているのだろう、十条九は、操作盤の前に立つ女性と対角にあるエレベーターの隅へと、身を寄せていた。異様な気まずさの中、しかし十条九は、なんとか彼女へと話し掛ける機会を探っている。今を逃せば、次に彼女と話を出来るのがいつになるか、分からなかったからだ。
「あ、あの……た、隊長……さん?」
おどおどと、それでも対話能力の低い彼なりに頑張って、十条九は口を開く。恐らくは先程から、彼が言葉をかけようとしているのを察していたのだろう、女性はチラリと、視線だけで後ろを見た。
「……甲鐘だ」
短く、そう答える。会話を拒絶される可能性まで考えていた十条九は、それを聞いて少しばかり安堵の気持ちさえ抱いた。戸惑いつつも、「甲鐘さん」と彼女の名を呼ぶと、彼女は応じるように振り返る。
「何だ?」
だが、改めて彼女と対峙した瞬間、十条九は身が萎縮するような感覚さえ覚えていた。目の前にいる女性は、今でこそ武装していないが、つい数時間前まで、その手で人の形をした怪物を──十条九と同じ学校の生徒達を、躊躇なく殺していた人間なのだ。何も感じるなという方が、無理な話だった。
「……ありがとうございました。その……助けてくれて」
感情の幾らも込められていない言葉で言って、十条九は頭を下げる。もし、自分も血を吸われていたら、この女性は迷いなく自分を撃っていただろう──そんな可能性を考えながらも、礼を言う。今自分が生きている事に何の感情も抱いていなくても、彼は感謝を口にする。
「仕事だからな」
十条九の内心を見透かすように、短くそう答えて、再び視線を前に向ける。二人の間にある溝は、あまりにも深かった。その一因が、鮫島という隊員の死だという事は、想像に難くない。そして、彼が十条九を助けようと駆け付けた事を思えばこそ、十条九自身も容易な言葉をかける事は出来なかったのだ。彼女と八神医師が交わしていた会話を考えれば、尚の事である。
十条九は黙ったまま、エレベーターの階数表示にぼんやりと目を向ける。時間が経つのが、妙に長く感じられる中、口を開いたのは甲鐘だった。
「……すまなかったな」
予想外の一言に、彼は思わず聞き返す。甲鐘は振り返りもせずに言葉を続けた。
「キミに、銃を向けただろ?」
そう言われて、彼は納得の表情を浮かべる。「あの状況なら仕方ないです」と答えると、何を思ったのか、彼女は数秒間沈黙した。
「試すような真似をした。敵の狙いが……いや、すまない。言い訳はやめよう」
一旦言葉を切ると、甲鐘は後ろを振り返る。
「あの時の私は、冷静さを欠いていた」
泰然自若な印象の強い彼女が、ほんの一瞬だけ激情を滾らせた、僅かな間を思い出す。マユカと対峙し、鮫島の遺体を辱しめられたあの時の甲鐘の表情は、今でも脳裏に焼き付いていた。
「……すみません。俺のせい、ですよね……その……副隊長さんが……」
罪悪感から、十条九は小さく呟いた。鮫島が亡くなった原因が、その大元が自分にあるという事を、彼は自覚していたのだ。故に、十条九は安易な謝罪に逃げた。そんなものが、果たして何を解決するわけでもない事は理解していても、重すぎる罪の意識に耐えかねたのだ。
「……私に、何と言ってほしいんだ?」
ため息を吐いた後、彼女は閉じていた目を細く開くと、視線だけを十条九に寄越す。それは、十条九を責めているようにも、そうでないようにも見えた。ただ、核心を突くような彼女の問いに、十条九は狼狽えていた。
「どうすればキミは楽になる?『お前のせいだ』とキミを責めればいいのか?それとも、『キミのせいではない』と慰めればいいのか?」
全てを見抜いているかのように、甲鐘は冷たく問い掛ける。そこに彼女との温度差を感じて、十条九は知らぬ内に、顔を背けてしまっていた。
「……そういう、わけじゃ……」
「悪いが、こんな状況だ。他人の胸中を慮れるほど、私は器用に立ち振る舞えない。……そういう、全部自分が悪いみたいな言い方は、やめてくれ」
突き放すように、彼女は淡々と言った。どれほど見透かされていたのかは、十条九にも分からない。しかし甲鐘は間違いなく、十条九の事を諌めていた。謝って、判断を相手に委ねて、それで話を終わらせ楽になろうとする十条九に、それは違うと、そう告げていたのだ。
十条九は、ただ小さく頷くしかなかった。それを見て、再び甲鐘は視線を外す。それから十条九と同じように階数表示に目を向けると、居心地が悪そうに腕組みをした。再び口を開く者はいなくなり、聞こえてくるのはエレベーターの駆動音のみになる。
「……いつか」
ポツリと、甲鐘は沈黙を破った。
「いつかこんな日が来ることは、分かっていたよ。命を懸ける仕事だからな。誰もが覚悟を決めている。けど、それがいつになるかなんて、ましてやそれが今日になるなんて、考えていなかった。……考えたくなかった。いくら戦場に出る者でも、頭では分かっていても、仲間の死体を見ることなんて、想像したくないんだよ。その分、余計にキツい思いをすることになってもな」
十条九は、黙って話を聞いていた。彼女がそれを自分に語る理由は分からなかったが、それでも彼女の話に聞き入っていた。
「昔から、ああいう奴だったんだよ。私が前線に立つのを嫌がって、全部一人で背負い込もうとして、無茶をする。今日の事だってそうだった。上が、キミを保護するという決議を出す前から、あいつはキミの襲われる可能性を考慮して、無断でキミの周囲を張っていたんだ。だからあいつは、一番初めに現場へ駆け付けられた。……きっと、私が出向く前に、片付けるつもりだったんだろうな」
その目が、何かを懐かしむように細められる。
「長い付き合い、なんですか」
「いや……二年と少しくらいだよ。けど、一番古い付き合いだったかもしれない。私がここに来てから、ずっと組んでいたからな。……ああ、そうか」
彼女は、拳を握り締める。その表情に、隠しきれない悲哀の色を浮かべながら、ここではない何処かに思いを馳せるように、宙を見上げる。
「──道理で、つらいわけだ」
その横顔を、十条九は思わずじっと見つめていた。あれだけ気丈に振舞う人間が、吸血鬼を撃つ事に躊躇いを持ち出さない彼女が、そこまで悲しい表情をするなどと、思ってもみなかったのだ。だが、考えるまでもなく、それは当然の事だった。武装に、そして戦闘能力の陰に隠されていても、彼女もただ、一人の人間だ。それも女性で、その上、他の隊員達の命を預かる立場にしては、あまりに若い。感傷がないはずはない。責任を感じないはずはない。それでも気丈に振る舞わなければ、人を率いる事は出来ないのだろう。鋭い目つきは、固く引き結ばれた口は、彼女が押し殺しているものの、表れなのではないだろうか。多くの隊員を引き連れ、毅然とした態度で指示を出す一方で、彼女が隠していた弱い部分を、そのアンバランスさを、十条九は垣間見たような気がした。
胸の奥に痛みを覚えたのは、多くの戦場をくぐり抜け、その度に先立つ仲間を見てきた彼女の姿が、飛行場の一件や学校での出来事を生き抜いた自分に、重なってしまったから──遠い存在に見えていた彼女が、その実自分と何も変わらないという事に、気付いてしまったからだった。
「あ、あの、甲鐘さ……」
その背に何か声をかけようと、十条九は言葉を選ぶ。だが、彼が口を開くのと、エレベーターのドアが開くのは同時だった。言いかけられた言葉に、甲鐘が視線でそれを尋ねるが、十条九は「何でもありません」と首を横に振るだけだった。
エレベーターを降りた先、広がっていたのは地下駐車場だった。
「確か、Bブロックと言っていたな」
そう言って先導する甲鐘の後を、十条九は黙ってついていった。周囲を見渡すと、普通の乗用車をはじめ、大型のトラックや、名前のよく分からない軍用車が、ところ狭しと駐車してある。
「……あれだな」
甲鐘が視線を向ける方向を見ると、一台の黒塗りの車の横に、一人の男が立っていた。黒いスーツを身に付け、サングラスで双眸を隠した男──一見すると、ステレオタイプなヤクザ風に見える──は、甲鐘たちに気づくと片手を軽く挙げた。
「おう、甲鐘。お前だったか」
「ああ、まあな。……後は頼む」
それだけ言うと、甲鐘はその場に十条九を残し、ポケットに手を突っ込んだまま、駐車場の奥の方へと去っていった。振り返る素振りも見せない背中を見ながら、サングラスの男はため息を吐く。
「相当堪えてんな、ありゃ……まあ、当然だけどよ。しかし、鮫島のおっさんがねぇ……見田園隊長の次くらいに、古株だったんだけどなぁ」
何かを惜しむように呟いてから、男は腕を組む。そのまま何かを考え込むような仕草をしていたが、彼はやがて十条九の方へと向き直った。
「よし。んじゃ、俺たちも行くか。これから行く先は、局長から聞いてんだろ?」
「はい」
八神医師の診察を受ける前、局長との会話の中で、当座の住居を用意する旨を聞いていた。身柄の保護を打診された以上、もっと仰々しいものを想像していたが、話に聞く分には、その限りではないらしい。ICSAの隊員が利用している、集合住宅の一部屋を、貸し与えられるそうだ。
「OK。細かい説明が省けて助かるわ。じゃ、乗りな」
促されて後ろの席に乗ると、運転席に乗り込んだ男が十条九に何かを投げて寄越す。手にとって、それがアイマスクである事を確認すると、十条九は内心でその意味合いを把握して、納得する。
「そいつ着けといてくれ。道を覚えられると困るからな。あ、いや、別に信用してないってわけじゃないぞ?」
慌てて言い繕う男をよそに、十条九は別段説明も求めないまま、さっさとそれを身に着けていた。
「俺が口を割らないため、ですよね?分かってますよ。誰かから情報を引き出されそうになっても、俺がしゃべれないように」
可能性の話だが、今後自分が吸血鬼と遭遇することがあるかも知れない。その時にICSAの本部の場所を問いただされたら、自分の身可愛さにさっさと口を割るだろう。これが、そんな事態を避けるためのものだということくらい、すでに分かっていた。
「……物分りいいな、お前」
「話の流れ的に、そう思っただけです。まあ、俺も拷問とかされたら知ってること全部話して楽になろうと思うでしょうし」
程なくしてエンジンの音が鳴り、車が動き出すのを、十条九は視角以外で感じた。そのまま車が直進し、しばらくしてスピードに乗り始めたところで、男は徐に口を開く。
「まあでも、奴らに拷問なんて必要ないんだけどな」
「……どういうことですか?」
「吸血鬼ってのは、自分より偉い奴に逆らえないんだよ。つまり、血を吸われて吸血鬼にされたが最後、『本部の場所を吐け』って言われたらそれっきり」
お手上げだと言うように、男は肩をすくめる。
「それじゃあ、ICSAに関わる人全員が、奴らにとっての情報源になり得るって事じゃ……それこそ、前線で戦う隊員なんて……」
「ああ。だから、俺たちもその『対策』はしている。知らなくて済むなら、知らねえ方がいいけどな。あれは……取り分け、胸糞悪いからよ」
心底からの言葉だったのだろう、その口振りからは、露骨な嫌悪感が聞き取れた。故に、十条九はその『対策』とやらを、言及出来なかった。
「だからまあ、なるったけオリジナル共には近づきたくないわけよ、みんな」
「……オリジナル?」
「ああ。『女王』の血族のことを、そう言うみたいだぜ?俺らみたいな下っ端には、理由まで知らされちゃいないけど」
『女王』亡き今、その子供たちが吸血鬼のヒエラルキーのトップになるということになる。つまり、オリジナルの一人であるマユカが十条九の血を吸っていれば、彼はマユカの操り人形になっていたということだろう。それこそ、朝陽から『目』と『心臓』を奪うよう指示されればその通りにしただろうし、朝陽のことを襲わせて朝陽を吸血鬼にすることも可能だったはずだ。そうなれば、朝陽もまたマユカの傀儡になる。
「……なるほど」
十条九は、珠王局長の言葉を思い出す。自分が普通の生活には戻れないということの本当の意味が、彼にはようやく分かった気がした。




