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孤ノ影闘記 / Anti-Nexus  作者: 鰓鰐
第3章 名残―Call me by the name―
22/58

〈1〉

 ―1―



 ベッドとパーテーションが並んだ一角、そして診察台と、事務作業用のデスクが、十数畳程の広さに納められている。壁や床は清潔さを感じさせる白色で、誰の目から見ても、ここが医務室だという事が分かるだろう。診察台に腰掛けた十条九は、それらを眺めていた視線を前方へ向けて、デスク前に座った人物へと目をやった。


「その調子なら、サポーターを付ける必要はないね。あ、もちろん無理に動かしたりしたら駄目だけど」


白衣を纏った人物は言いながら、十条九に背を向けて、壁に掛けられた棚へと手を伸ばしている。棚の中には、カセットケースのような入れ物が数十個ほど。その中に収納されていたのは、どうやら処方薬らしく、そのいくつかを見繕っている。


「……てっきり、普通の病院の先生だと思ってました──八神先生」


その医師の名を呼びながら、十条九は診察のために脱いでいたシャツを羽織る。彼の言葉に苦笑いしながら、八神医師は頭を掻いて振り返った。


「いやあ、はは……ICSAに関する情報は、極秘事項だから……」


十条九は再び、周囲に視線を走らせる。医療設備が一通り揃えられたこの部屋は、珠王局長と十条九が会談した部屋の、数階上に位置していた。さしずめ、隊員用の医務室といったところか。他にも、病室とおぼしき部屋が並んでいるのを見る分に、この階全体が、そういう目的で存在していると見て、間違いないだろう。


 対吸血鬼組織ICSAは、再び十条九が狙われる危険性を考慮し、その身柄を保護する決定を下した。無論十条九自身にそれを拒むだけの理由もなく──或いは、自分自身の行く末を考えるだけの余裕もなく──その局長の申し出に対して、首を縦に振った。そして今、珠王局長に進言され、彼は再びの身体検査を受けている。そこで患者を待ち構えていた医者こそ、八神医師だったというわけだ。二週間前、飛行機事故の後に十条九を診察した、件の医師である。


「……本当は、あの病院を手伝いに来たってわけでもなかったんでしょう?」


そう言うと、八神医師は困ったように視線を泳がせる。誤魔化すわけにもいかないと判断したのか、彼はため息を吐いた後で少し真剣な表情をした。


「お察しの通りだよ。朝陽ちゃんの死体と診断書をでっち上げたのは私だ」


観念したように、八神医師はそう言った。


「言い訳みたいになるけど……君を巻き込まないようにするためには、そうせざるを得なかったんだよ」


「……そう、ですか」


しかし、その結果としてこの場所にいる現状を思い、十条九は目を細める。八神医師は彼の言葉少なげな訴えに、苦い顔をした。


「……本当に、申し訳ない。なんと言ったらいいか……」


「本当の目的は、患者の中に吸血鬼を見た人がいないか、確認する事だったんじゃないんですか?情報が公になったら、まずいでしょうから」


八神医師の言葉を遮るように、十条九は言った。淡々と、しかし確信を持った一言に、八神医師は無言のまま、目線でそれを肯定した。


「少し考えれば分かりますよ、情報操作の必要性があったことくらいは。……とはいえ、ここに来るまでは気付きませんでしたけど」


朝陽に関する情報を隠蔽されていたが故か、彼の声は自然と冷たさを伴っていた。重苦しい空気に、八神医師は視線を泳がせる。沈黙を破ったのは、不意に響いたノックの音だった。


「はい、どうぞ」


 タイミングの良い来客に、八神医師が少しの安堵を浮かべた表情で応じる。ドアを開けたのは、銀色のショートカットの、「隊長」と呼ばれていた女性だった。彼女は室内にいた十条九を認めると、わずかに眉の間に皺を寄せる。その瞬間、十条九は彼女の視線から逃れるように、顔を背けた。恐らくは、負い目からだろう。自分のせいで隊員の一人が亡くなったという現実は、十条九が彼女を直視する事を、許さなかったのだ。


「サイカちゃん、どうかしたの?」


「いや。局長と話をしたついでに、寄ってみただけだが……間が悪かったか」


十条九は自分のことを言われているのだとすぐに気づくと、黙って席を立った。それを、「いや、いい」と制す。


「別に、大した用があったわけじゃない。これで失礼するよ」


そう言って彼女は、何事もなかったように踵を返す。しかしその瞬間、振り返った彼女の銀髪が揺れるのを見て、八神医師は彼女を慌てて呼び止める。


「サイカちゃん、ちょっと待った!それ、右目の下、どうしたの?」


八神医師の言葉に、彼女は右頬へと触れた。赤い切り傷が、頬骨から目の下辺りまで伸びている。それは、マユカとの戦闘で、翼による一撃を凌いだ際に負った傷だった。


「ただのかすり傷だ。大した怪我じゃ……」


「何言ってるの!いいから、こっち来て診せなさい!」


少しきつめの口調で言いながら、八神医師は診察台を叩いて示す。彼女はげんなりとした様子でため息を吐くと、後頭を掻いた。


「……こうなると聞かないんだよな……」


「よく分かってるじゃないか。さぁ、ほら、こっちに来る!」


彼女は渋々と、先ほどまで十条九が座っていた診察台に腰掛けた。八神医師は慎重に怪我の様子を確認すると、デスクの近くから、治療道具の入った小箱を取り出す。


「……この程度の怪我で、大げさな……」


「女の子が顔に傷作って、何言ってんの!後が残ったらどうする気?」


むすっとした表情のまま、彼女は八神医師の治療を受けていた。一通りの処置を終えると、彼女は礼も言わずに立ち上がる。


「……『女の子』、か。あいつも、よく同じことを言って私を諌めていた。戦場に、男も女も関係ないのにな」


ぽつりと呟きながら、頬の傷に張られたテープにそっと触れる。何を──誰を思っているのか明白なほど、彼女の表情には痛々しさが浮かんでいた。


「……鮫島くんのことは、残念だったね」


胸中を慮かるように、八神医師が言葉をかける。その一言に、彼女はほんの一瞬、痛みを堪えるような、眉をひそめるような表情をした。だが次の瞬間には何もなかったかのように、口を固く引き結び、隊長然とした顔を作る。


「この世界では、誰もが避けては通れないことだよ。同胞が死ぬのなんて珍しいことじゃないし、次は自分の番じゃないと言い切れない。いちいち引きずっていたら、それこそ寿命を縮めるだけだ。抱えて、前に進む。それだけだ」


性分なのだろう、人を率いる立場である人間の彼女は、それが当然だというように口にした。


「……こんな時にまで、強がる必要ないだろうに」


八神医師は、彼女に向ける視線に、憐憫の色を混ぜる。その目が一瞬、十条九と彼女を見比べたように見えたが、彼は何も言わなかった。


「私は、悲しいよ。また、お酒を飲む相手がいなくなってしまった」


隠す風でもなく、八神医師は心情を吐露した。素直に打ち明けられた言葉に何を思ったのか、女性は目を閉じて何かを思考する素振りを見せ、そして顔を上げる。


「いい機会だ、禁酒でもするんだな」


冷たくそう言うと、彼女は顔を逸らした。それを見ながら、八神医師は苦笑する。


「誰か代わりに、酒盛りの相手をしてくれると嬉しいんだけどなぁ」


「知るか。私は、酒をやらないからな」


「おーう、どギツイ反応。しかし、嫌いじゃないんだよね、そういうの。でも、それはそれとして、少しくらい悩む顔をしてくれたっていいんじゃない?」


取り付く島もない様子に、八神医師は乾いた笑い声を漏らすばかりだった。そこに追い撃ちをかけるように、女性はさっさと背を向けてしまった。


「他に用がないなら、私はもう行くぞ」


「いやいや、待ちなよ、サイカちゃん。私の目は誤魔化せないよ?」


ふと、八神医師は人差し指を横に振りながら、口角を上げる。何かを見透かしているような表情に、思わず女性は怪訝な面持ちで振り返った。彼女が目で意味を問い掛けると、八神医師は得意気に口にした。


「サイカちゃんの事だ、本当は服の下にも怪我を隠してるんだろう?ああ、分かっている。分かっているとも。サイカちゃんがそういう無理をする子だっていうのはね。さあ、診察用のベッドの上に横たわりたまえ。診察の為に、まずは上着と靴とパンツを脱いで……」


ワキワキと、手を握ったり開いたりしながら、八神医師は怪しい挙動を見せる。十条九は、拍子抜けした。いかにも何かを見破ったかのような八神医師の物言いは、その実言葉ばかりの、セクシャルハラスメントだったのである。だが、呆れで視線を外しかけた十条九は、その次の瞬間、目を見開く。ヒュ、という空を切る音が聞こえたかと思えば、直後、女性は八神医師の道具箱から目にも留まらぬ速さでハサミを抜き取り、その喉元に押し当てていたのだ。


「先生、医師として一つご教示願いたい。セクハラ癖というのは、どうすれば治るんだ?……個人的には、一度痛い目を見た方がいいと思ってるんだが」


「ハハハ、ヤダナー、ジョウダンデスヨーサイカチャーン」


頬を引きつらせながら、彼は片言で答える。十条九は、その光景を、ハラハラとした心持ちで眺めていた。


「いや、サイカちゃんいっつも怪我を隠そうとするからさ~。そのくらいしたほうがいいんじゃないかと……」


「……まったく」


彼女は八神医師からハサミを離すと、それを道具箱に投げ入れる。呆れたようにため息を吐きながら、彼女は十条九の横を通り過ぎると、ドアの方へ向かった。


「……なあ、先生」


 そのまま部屋を出るとばかり思われた彼女は、しかしドアの手前で一度立ち止まる。それが予想外だったのだろう、十条九も八神医師も、思わず彼女の背に視線を向ける。そんな中、女性は振り返りもせずに言った。


「あいつの告別式、近いうちにやるそうだ。だから……」


そこから先、彼女の言葉は続かなかった。無言のまま、しかし彼女の背は何かに堪えるように、そこにあった。八神医師はその意を酌むように、ゆっくりと頷く。


「うん。もちろん行くよ」


「……そうか」


安堵からか、彼女は険のない声で小さく呟く。その瞬間、彼女の肩に入っていた力が、ふっと抜ける。十条九にはその背中が、戦場で見た時よりも小さく見えるように、感じられた。

 唐突に、室内に電話の音が鳴り響く。「お、内線だ」と八神医師が受話器を取ると、女性は一瞬振り返ってそれを見て、会話の終わりを察したように、何も言わず部屋を出ようとする。


「うん、うんうん……あ、サイカちゃん、ちょっと待って!」


八神医師に呼び止められ、彼女は再び足を止める。何事かと目で問い掛けると、彼は「一つ、頼まれごとしてくれるかな?」と尋ねた。


「どうせ、後は帰って報告書を書くだけだ。時間ならある」


「助かるよ。けど、時間は取らせないから大丈夫」


受話器を置きながら、八神医師は視線を十条九へと向ける。予想していなかっただけに、十条九は少しばかり目を見開いた。


「十条くんのこと、駐車場まで送ってくれるかな?」


そして続いた言葉に、十条九はいよいよ目を剥く。恐る恐る視線を動かせば、それを見返す女性と、目を合わせる形になった。


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