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エレベーターの階数表示が地下15階になったところで、ドアが開いた。二人の隊員に連れられ、十条九は装飾のほとんどない通路を進んでいく。途中誰ともすれ違うことなく、彼らは最奥にある部屋の前へとたどり着いた。
「どうぞ」
隊員の一人がドアをノックすると、程なくして男性の声が答える。すぐにドアが開かれ、十条九は中へと通された。
「…………」
部屋に入った瞬間、彼は異様な光景に思わず辺りを見渡した。左右の壁が一面ガラス張りになっており、その中に数多の昆虫が、標本となって貼り付けられているのだ。別に昆虫標本自体が悪趣味だというつもりはないが、さすがにここまで度が過ぎると、何か異質なものを感じざるを得ない。
「本来、そこには紙媒体の資料が置かれていたんだ。全てデータに移行してから、何もない空間になってしまってね。それも寂しいからと、私の趣味で色々置かせてもらっている」
十条九の様子に気付いたらしく、部屋の奥からそんな声が聞こえてくる。部屋の真ん中には応接用のテーブルとソファーが置いてあり、そのさらに向こう側にデスクが配置してある。両壁のことを除けば、まるで社長室のようだという印象を受けた。
「報告は聞いているよ。ご苦労だった。君たちは下がっていい」
デスクに座った人物がそう言うと、二人の隊員は部屋から出て行った。眼鏡の奥に鋭い双眸を持ったその人物は、十条九に視線を向けると、わずかに口元を緩めた。
「十条九くん、だね?そんなところに立っていないで、腰掛けるといい」
言われるがまま、十条九はソファーへと腰を置く。それを見て、男性は満足げに頷いた。
「もう、具合の方はいいのかな?」
「……はい」
暗い顔のまま、彼は頷く。答える声は、ひどく嗄れていた。
「心中はお察しするよ。……気分が優れないようなら、もう少し時間を置こうか?」
その視線が、十条九の左手に向けられる。それに気付いた瞬間、十条九は左手を自らの背へと隠した。彼の左手は、手首から先が全て包帯で覆われていた。それが十条九自信の行為による結果なのだという事は、男性も報告を受けていたのだろう。
校庭で意識を失った十条九が目を覚ました直後に行ったのは、自傷行為だった。惨劇の後、自分一人がベッドの上で目を開けたという現実は、彼が平静を失うのに充分すぎたのだ。それは、ほとんど発狂に近かったと言っていい。喉を潰すような勢いで絶叫し、手当たり次第に周囲の物を叩き壊した彼は、隊員達に取り押さえられた後も一時間ほど暴れ続けた。それでも、彼がその程度の時間で会話の出来る精神状態まで回復したのは、彼にとってどうしても確かめねばならない一点が、残っていた為である。
「……大丈夫です。今は……考えることが多い方が助かる」
男性はしばらく無言で彼のことを見つめていたが、やがて「分かった」と頷いて、席を立った。そのまま十条九の方へと歩み寄ると、その向かい側のソファーにゆっくりと腰を下ろす。見目からして、40歳くらいだろうかと、十条九は思った。
「珠王康玖だ。ICSAという組織の、日本支局局長をしている」
「……イクサ?」
聞き返す十条九を見て、当然だというように苦笑する。
「聞いたことなくて当然だよ。この組織は、完全に秘匿のものだからね」
「秘密組織というと安っぽいかもしれないが」と、片眉を上げて見せながら、珠王局長は続けた。
「ICSAは、対吸血鬼用に設立された組織だ。前身となる集団は随分と前からあったらしいが、18世紀頃に今の形に落ち着いたそうだ。この島国に支局ができたのは、明治初期になる」
「吸血鬼」というどこかリアリティーに欠けた単語を、しかし十条九はすんなりと受け入れた。何の抵抗もなく受け入れるだけの惨劇を、彼は経験してしまっていたのだ。
「……あんなのが、ずっと昔からいたっていうんですか?」
何もせずとも、数時間前の凄惨な情景が、フラッシュバックしそうになる。理性でそれを押し留めながら、十条九はそう尋ねた。
「あぁ、そうだね。ひょっとしたら、もっと昔からいたのかもしれない。難しく考えないで、『そういう生き物』が昔からいて、人知れずそれを駆逐するための機関があったんだと思ってくれ」
彼は一旦言葉を切ると、「ドラキュラを知っているかい?」と尋ねた。
「……ブラム・ストーカーの小説なら読んだことありますけど。あれが、事実だと?」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。あれがヴラド伯爵という人物をモデルにした物語なのか、それともドラキュラ公という吸血鬼の伝記なのか、今となっては確かめようがない。私が言いたいのは、昔から人に紛れた吸血鬼という存在がいて、伝承や伝説のように、人と関わってきたということだ」
十条九は黙ったままそれを聞いていたが、やがて眉をひそめた。
「吸血鬼に血を吸われると、吸血鬼になる。……その場面を見たのは事実だし、疑うつもりはありませんけど……そんなことしてたら、いずれ人間と吸血鬼の数が逆転するんじゃないんですか?それこそ、今この世にいるほとんどの人間が吸血鬼ってことになりそうですけど」
「確かに、その通りだ。けど、彼らもその辺は考えなしじゃない。生きていくのに必要な最低限の血しか、吸わないようにしているらしい。そのため、大量の死者を出す事件もほとんどなく、我々も秘密裏に吸血鬼を駆逐することができていた……だが」
珠王局長はわずかに表情を曇らせると、俯きながら言った。
「先日起きた、飛行機事故。あれを期に、吸血鬼たちの動きが活発化している」
「……あの事故が?」
一見何の関連性もなさそうな二つの事象に、十条九は戸惑った。
「この世界にいる吸血鬼たち……彼らには、『女王』と呼ばれる存在がいる。いや、いた、というべきか」
『女王』という単語が、十条九の頭の中で引っかかる。あのマユカという吸血鬼が、何度かそんな言葉を口にしていたはずだ。
「あの事故で、その『女王』が死んだと?」
「そういうことになる。正しくは、『殺された』、だが。今まで統率を取っていた『女王』が死んだことにより、各地の吸血鬼たちが、各々の思う通りに行動を始めてしまった。……皮肉な話だが」
『殺された』という言葉を反芻しながら、十条九は考え込む。それが事実なら、あの事故は、あの災厄は、意図的に起こされたということになるからだ。そうなれば十条九には、後ろ暗い感情の矛先を向けるべき相手が存在する事になる。
「一体、何の目的で?飛行機一つ落としてまで、誰が、何のために『女王』を殺したっていうんですか?」
自然と、声には険がこもっていた。その少年の姿を、局長は値踏みするような目で眺めている。
「『女王』の、子どもたちさ。『女王』というのは名ばかりではなく、その肉体に特殊な能力を有している。それを狙い、『女王』の子どもたちが母親を手にかけたんだ」
その言葉に十条九は、マユカの背中から伸びていた翼を思い出していた。何度か耳にした『女王の翼』というワードが、恐らくはそれに該当するのだろう。十条九はそれを聞いて眉をひそめていた。
「身内を、殺したんですか?」
「そういうことになるが、別に珍しいことでもない。元より、吸血鬼などに人間の倫理観を当てはめない方がいい」
特に表情を変えることもなく、局長はそう口にする。その口ぶりから、彼が吸血鬼に対してどういう感情を抱いているのか、何となく察しがついた。
「大体、事情は分かりました。けど、それと俺が狙われることに、何の関係があるんですか?そもそも、朝陽……妹は……」
核心へ迫る問いに際して、十条九の拳に力がこもる。それを静かな目で見据えながら、局長は頷いた。
「ああ。彼女は生きている」
その瞬間、十条九は身体から力が抜けるのを感じた。その一言を聞きたいが為に、今の彼はこの場を訪れたと言っても過言ではない。柄にもないと思いながらも、彼は安堵の気持ちすら感じている。あんな事があった後だからだろう、今は、たった一人でも誰かが生きているという事実に、例えようのないくらいの安堵感を覚えていた。
「ある理由から、彼女のことを保護させてもらった。もちろん、表沙汰にできないことだから、彼女は死んだことにせざるを得なかったんだ。君には、申し訳ないことをした。しかし、どうか理解してほしい」
そう言って、珠王局長は頭を下げる。ふと、同じように頭を下げた渡瀬の父親の事が頭を過り、十条九は歯を食い縛りそうになった。
「その、理由っていうのは?」
そう尋ねると、彼は複雑な表情のまま、顔を上げる。言いにくそうに口をつぐんでいた彼だったが、しかしやがて、思い立ったように言葉を続けた。
「朝陽さんに、『女王』の『目』と『心臓』の能力が融和している」
「なっ……!?」
告げられた事実に、十条九は思わず席を立っていた。彼が身を乗り出そうとするのを制するように、局長は片手を顔の前へと差し出す。
「落ち着いてくれ。これは別に、朝陽さんが吸血鬼になったというわけじゃない」
「なら……一体、どういう……」
「前例がない故に、はっきりと言及は出来ないが……彼女は人の身でありながら、吸血鬼の能力を有している。それも、『右腕』、『左腕』、『右脚』、『左脚』、『翼』、『目』、『心臓』の七つの能力のうち、二つもだ」
反応らしい反応も出来ず、十条九はただ狼狽えるばかりだった。ようやく得た安堵から、再び底知れぬ不安に叩き落とされるような感覚が、彼を襲う。臓腑まで染み入るような寒気に、十条九は強く歯を食い縛っていた。
「朝陽は……無事、なんですよね?」
懇願するような口調で、問い掛ける。あまりに必死な、すがるようなその目を見返しながら、局長は静かに頷いた。
「彼女は今、ICSAの研究施設で精密検査を受けている。最善は尽くしているつもりだ」
十条九は黙って座りなおすと、ため息を吐きながらうな垂れた。その両手は無意識の内に、祈るように組まれている。
「受け入れがたいのは分かる。恐らく、時間がかかるだろう。ゆっくり、考えるといい」
かけられた言葉は、やけに穏やかな口調だった。
「それに、こちらも少々時間を要することが多い。それこそ、朝陽さんや君を今後どうするか、とかね」
「……俺を?」
予想していなかった一言に、彼は思わず聞き返す。珠王局長は当然だと言わんばかりの表情で続けた。
「察しのいい君なら分かると思うが、君の事を放っておくわけにもいかないんだ。でなければ、今日のようなことがまた起きるかもしれない」
「……それは……つまり……」
その先に続く言葉を察すると、十条九は息を呑む。眼鏡の奥に鋭い光を湛えながら、珠王局長は頷いた。
「これから、君の身柄を預からせてもらう。君はもう二度と、以前と同じように生活することはできないだろう」
第2章 蹂躙―Genocide― 〈了〉




