〈9〉
―9―
教室のドアを勢いよく開け、十条九はがむしゃらに駆け出した。現在の位置ならば、廊下を一直線に横切った後、階段を下りれば昇降口まで辿り着ける。しかし、彼が隣のクラスの横を駆け抜けようとした瞬間、その扉が唐突に開かれた。反射的に、十条九が足を止めた直後、中から一人の女子生徒が飛び出してくる。
「いやっ!やめっ……」
何かから逃げるように後退する少女は、しかし足を縺れさせて後ろ向きに倒れてしまう。咄嗟にその場へ駆け寄ろうとした十条九は、しかし直後の光景を見て、足を止めた。彼女の後に続いて、ぞろぞろと教室から他の生徒たちが姿を現す。違和感──というより、悪寒に近い感覚を覚えたのは、その瞬間だった。必死の形相で逃げようとする少女に対して、その後を追う生徒たちには、表情がない。ただ無機質な目で、少女の事を見下ろしている。そして、あまりにも血色の悪い肌からは、まるで生気を感じられない。直感的に、それらが正常ではないことを気取った瞬間、十条九はその場から動けなくなる。
「やめて!来ないでっ!」
じたばたと抵抗する女子生徒を、数人の生徒が取り押さえる。その光景に、十条九は何をする事も出来なかった。ただ恐怖に萎縮した体で、眼前で起ころうとしている惨事から、目を逸らせずにいる。群がった生徒の一人が、少女の首元に勢いよく噛み付こうとも──その最中、十条九の存在に気付いた彼女が、助けを求めるように手を伸ばそうとも、彼は何も出来なかった。
「嫌だ!たす、助けて!助けてよ‼見てないで、助けてってば‼い、やああああっ‼」
劈くような絶叫が廊下中に響き、呆然と立ち尽くす十条九の耳を通り抜けていった。目の前の事態に、十条九が一歩後ろに下がったその時、血液で濡れていた十条九の上履きが、床と擦れて音を立てた。その瞬間、女子生徒を取り巻いている生徒たちの何人かが顔を上げ、十条九の方へと視線を向ける。生気の感じられないいくつもの視線に射抜かれたその瞬間、彼はようやく我に返った。
死にたくない、という明確な意思があったわけではない。ただ、目の前で起こっている事が怖くて、恐ろしくて、気付いた時には無我夢中で反対方向へと駆け出していた。
「くそっ……」
背後から聞こえる、地鳴りのような多数の足音で、振り返らなくとも、追われているという現状は理解出来た。しかし十条九は、つい先ほどまで立ち上がるのでやっとの状態だったのだ。そんな中で、この生徒たちから逃げ果せるイメージというものが、まるで浮かんでこない。
彼がちらりと後ろに視線をやると、廊下を埋め尽くさんばかりの数の生徒がこちらへ押し寄せてきているのが見える。それはまるで、ゾンビ映画のワンシーンを、今まさに見せつけられているようだった。今のところは廊下の狭さに救われているが、おそらく、正攻法で逃げていては追いつかれることは明白だろう。十条九は、酸素の回らない脳細胞を総動員して、必死に逃走経路を考える。
「いや、無理だ……」
どう考えても、昇降口に向かうには階段を通る必要がある。しかし、もしも彼のいる二階のクラスだけでなく、一年や三年生の生徒たちまでこのような状況だった場合、それこそ袋のネズミだ。そして何より、自分の足の速さではいずれ追いつかれるのが自明の理だ。
安全なルートなど、存在し得ない。
そう悟った彼は、観念したように足を止めた。もはや、十条九は限界だったのだ。精神的にも、肉体的にも、彼は現状へ向き合うだけの力を全て使い尽くしていた。倦怠感とも諦念ともつかない感情が胸中を支配して、意味も分からず泣き喚きたい衝動に駆られる。そして、その状況に追い討ちをかけるように、廊下の反対側からも生徒たちの群れが押し寄せてきていた。前後の通路は、完全に塞がれた。やがて、その間隔がジリジリと、獲物を追い詰めるように狭まってくる。
「どうしろっていうんだよ。こんな状況で、何が出来るっていうんだよ」
悪態のような言葉ばかりが、口をついて出る。十条九は、思わず自らの顔を覆った。現状を嘆き、思考を放棄しようとする。だが、その時不意に、彼は自らの指に、髪の毛が絡んでいる事に気づく。
「──委員長」
ふと、先日の会話が頭をよぎった。残された者の方が大変なのだと、笑った彼女の姿が目に浮かんだ。
「……ああ、そうだな。すごく、苦しい」
あの飛行機事故の光景は毎夜の如く夢に現れ、ふと気を抜いた瞬間にそれがフラッシュバックする。あの一件で、たくさんの死者の中で生き残ったという現実で、十条九は生きる気力の大半を、奪われたと言っていい。その上での、今の状況だ。惨劇という言葉では生ぬるい程の現実だ。優しい言葉をかけてくれたクラスメイトは、もういない。辛うじて十条九を繋ぎ止めていた存在は、消失した。これから先、今日の出来事を一生忘れることが出来ずに背負い続けていかなくてはならないのだと考えると、死への恐怖とは裏腹に、いっその事楽になってしまいたいという、死への憧憬すら沸き上がってくる。
「……でも」
だがそれでも、十条九は極限の状況で、逃走する事を選んだ。首を刎ねられたクラスメイトを見ても、襲われている生徒を目の当たりにしても、彼は逃げる事を選択した。──たった一つ、彼女からかけられた言葉があったが故に。
「──頑張って生きる、だったよな」
もはや、記憶のみの存在となった彼女の笑顔が、脳裏に浮かび上がる。その瞬間、実態のない疼痛が胸の内から溢れた。
「……死ねない」
死んだ人間の分まで生きろと、彼女は言った。それに対して、自分は頑張ると答えたのだ。
「……まだ、死ねない」
多くの犠牲の中で、自分は生き残った。きっと誰も、死にたいと思った人なんていなかったはずだ。なら、少なくとも今ここで、諦める事は出来ない。生き残った以上、生き続けなければならない。生きたかった誰かの分まで、生きる事──それが贖いになるのなら、どれだけ苦しくとも、受け入れるしかない。
十条九は胸中の痛みを、胸に爪を立てて、強引に押さえ込む。そして、これでもかという程に歯を食い縛りながら、意を決して顔を上げた。
「考えろ……」
残された時間は何秒もない。それでも、思考を止めず、考え続け、状況や知識から打開策を導きだそうと、自分自身に発破をかける。脳細胞を焦がすような勢いで、思考を巡らせる。
「……吸血鬼。十字架、銀、日光、聖水、流水──水?」
その瞬間、頭に一つの考えが浮かぶ。可能なのかどうか確証はないが、しかし迷っている暇はなかった。十条九は大きく深呼吸をすると、覚悟を決めたように顔を上げ、すぐ隣にあった窓を、開け放つ。
その瞬間、彼が何をしようとしているのか察したのか、一斉に生徒たちが駆け寄ってくる。それと同時に彼は、素早くその縁に足をかけた。
「…………」
二階とはいえ、それなりに高さはある。飛び下りれない高さではないが、下手な落ち方をすればそのまま死ぬ。それどころか、足を挫いただけでも逃げ切る事は不可能になる。背筋にゾクッと寒気が走り、身体が萎縮するような感覚が全身を駆け巡る。だが、時間はわずかたりとも残されていなかった。
「……どうにでもなれっ……!」
彼は、思い切り窓の縁を蹴って、跳躍した。空中に投げ出された十条九の身体は、重力に絡め取られて落下を始める。だが、その瞬間だった。前に向かって飛び出したはずの十条九の体が、何かに引っ掛かったように進みを止める。
「──ッ!?」
窓から身を乗り出した生徒の指が、十条九の靴の踵部分にかけられていた。獲物を逃がすまいとするように、咄嗟に伸ばされた手が、十条九の足を捕らえていたのだ。結果、十条九は前へとつんのめる格好になる。靴こそ脱げて、十条九の体は解放されたものの、本来の意図とは異なり、彼は頭からの落下を始めていた。
寿命が縮んでいくような感覚が、身体のいたるところを這い回る。それは、時間にすると瞬間的な出来事だったのだろうが、彼の目にはその一瞬、校舎中の窓に生徒の群れが押し寄せているのが見えた。おそらく、その数は全校生徒に匹敵するはずだ。落下の恐怖とは別の恐怖が、彼を萎縮させた。その全ての目が自分の動きを追っているのを見ながら、彼の体は落ちていき──
大きく、水しぶきを上げた。
「……ぶ、はっ……」
程なくして、十条九はプールの水面から顔を出した。肩で息をしながら、彼は顔についた水滴を乱雑に手で拭う。
「なんとか……なったか……」
この学校には、プールが二つある。一つは、この校舎がまだ木造だった頃に作られたもの、もう一つはこの校舎が改築されてから後付けされたものである。校舎が改築される際、誰の意向かは知らないが前者のプールを残すこととなり、その結果増築された校舎は旧プールに面するような形となっていた。そのため、校舎の窓の一部からは眼下に旧プールを覗くことが出来る。全力で跳べば、届かない距離ではない。
彼はすぐさまその場を離れようと、両手で水を掻いてプールサイドを目指した。運動神経のさほどよくない自分にこの芸当が出来たということは、その他の生徒が後を追ってくることもまた明白だからだ。伝承にある吸血鬼が嫌うのは、あくまで流水である。水関連でプールの存在を思い出し、飛び下りる事に成功はしたが、プール自体が吸血鬼の進路を妨げるかどうかの、確証はない。
「……っ、痛っ」
右肩に走る痛みに、彼は医師から三週間以上は安静にするように言われていたことを思い出した。だからといって、立ち止まるわけにはいかない。彼はどうにかプールサイドまでたどり着くと、半ば転がるようにしながらプールから上がった。水を吸って重くなった制服が、ビシャリと音を立てる。
ちょうど、それとほぼ同時だった。ゴキン──と、彼の背後の方から何か、堅い物が叩き折られるような音が、聞こえてきたのだ。恐る恐る振り返ってみると、そこに一人の女子生徒が、仰向けに倒れている様が見えた。彼女の身体は不自然に腰の辺りで折れ曲がっており、上半身だけがプールの水に浸かっている。自分を追ってきたのか、押し出されたのか、いずれにせよ飛距離が足りず、プールとプールサイドの間に腰を打ちつけてしまったのだろう。凄惨な光景ではあったが、しかしそれに反応をしている余裕はなかった。
十条九は素早く視線を上げると、自分の飛び降りた窓を見上げる。大勢の生徒が押し寄せ、今にも何人かの生徒が飛び降りようとしているのは、その窓に限った話ではなかった。見上げた校舎、そのほとんどの窓に生徒たちが集まり、それを自ら開け──或いは叩き割り──今にも、十条九の後を追おうとしている。
次に自らが取るべき行動を思索していた十条九は、しかしその時、眼下から聞こえた水を撥ねるような音に、顔を下ろす。そして、その先に待っていた光景に、目を見開く。
「なっ……っ!?」
先ほどまで倒れていたはずの女子生徒が、ゆっくりと上体を起こしている。彼女は水滴をしたたらせながら立ち上がると、具合でも確かめるように腰を数回ひねる。そして、ゆっくりとした動作で十条九の方を振り返った。表情のない青白い顔に、十条九の背筋が凍る。既に、何度となく人間とは思えない存在を目にした後ではあるが、この光景ばかりは、十条九を再び心底から震え上がらせていた。
彼がじりじりと後退を始めるのとほぼ同時に、生徒たちは窓から一斉に飛び降りた。二階から、三階から、生徒たちは何の躊躇いもなく宙に身を投げ出し、そして地に足が着いた次の瞬間には、すでに十条九の方へと全員が駆け寄り始める。
「……くそっ……」
彼は素早く踵を返すと、プールのフェンスに手をかけた。そのまま勢いをつけて飛び越えると、十条九は校庭へと躍り出る。しかし、その背後にはすでに、生徒の群れが追い付きつつあった。これまでは、あの人数と廊下の狭さに救われていたが、その制約から解き放たれた彼らに、今や枷となるものはない。もつれる足で校門の方へと進むものの、後続の生徒たちとの距離は縮まりつつある。今回ばかりは、本当に打開策などなかった。
「……まだっ……!」
それでも、十条九はひた走った。例え死が目前まで迫っていても、この死が免れないとしても──十条九は、死ぬまでは生き続けなければならない。どこか諦めを含んだそんな決意は、しかし突然に終わりを告げた。
突如、前方から大きな金属音が響き、十条九は弾かれたように顔を上げる。その先の光景に、十条九は目を剥いた。視界に入ったのは、撥ね飛ばされて大きく形状を変えた校門。そして、それを突き破り進入してきた、一台の装甲トラックだった。轟音と共にトラックは、十条九目掛けて直進してくる。
「うわっ──!?」
あれだけのスピードで突っ込まれては、さすがに避けようがない。十条九は立ち止まると、無意識の内に、激突に備え両腕で頭を庇う姿勢をとった。砂を巻き上げたタイヤが、迷彩色のバンパーが、眼前へと迫る。しかし、トラックは十条九のすぐ目の前で、その挙動を大きく変えた。トラックは十条九すれすれのところでタイヤの回転を止めると、そのまま前輪を軸に大きく旋回し、ドリフトで後続の生徒たちのみを跳ね飛ばしたのだ。
驚きに目を見開く十条九のすぐ隣で、トラックから何人もの人影が舞い降りる。プロテクターやヘルメットを装備した軍隊のようなその集団は、手にした自動小銃を生徒たちに向け、横一列になり十条九を守るように立ちはだかった。
「……どう、なって……」
突然の事態に困惑の表情を浮かべ、十条九は立ち尽くす。ここにきて更なる乱入者が登場するという、予想だにしていなかった状況に、十条九の頭は現状を理解しきれずにいた。ただ彼らが、先程教室で十条九を救った男性と同じ戦闘服を着ている事だけが、十条九に微かな安堵を覚えさせている。
故に、彼は気付くのが遅れていた。生徒たちを撥ね飛ばした装甲トラック、その底面に、しがみついたままの女子生徒が、ただ一人いた事に。
十条九がその存在を認識したのは、トラックの下に潜んでいた彼女が這い出て、自らに向かって飛び掛かかってきた、まさにその瞬間になってからだった。唐突な事に、十条九本人はおろか、隊列を組んでいた戦闘員ですら、応対が出来ない。目を見開く程度の反応しか出来ないまま、十条九の顔や頭部へと爪が突き立てられる。そのまま、露出した彼の首へと、女子生徒が牙を剥いた、その直後だった。
ガツン、とバットで人の頭部を殴ったような重い音と共に、十条九に掴み掛かっていた女子生徒が、突如として姿を消す。気が付けば、彼女は何かの衝撃を受けたように中空へと浮いており、2メートル程の距離を飛んだ後、トラックの側面へと叩き付けられていた。
「──」
突然の事に、十条九は目と口を開いたままで硬直する。その眼前に立っていたのは、他の隊員と同じ戦闘服に身を包んだ、一人の女性だった。十条九が襲われた瞬間、ただ一人それに反応した彼女が、鋭い後ろ回し蹴り──あまりに流麗過ぎる動きは、舞踏を見ているようだった──で、それを蹴り飛ばしたのである。短く切られた銀の髪が挙動に合わせて揺れ、その間から、大きくも鋭い目がこちらを覗く。それは、見惚れる程に洗練された動きだった。
「トオジョウヒサシ、で、間違いないか?」
20代前半か、あるいはもっと若いのだろうか。銀の髪の麗人は、短くそれだけを尋ねる。声をかけられ、ようやく我に返った十条九は、躊躇いつつ頷いた。それを見て、女性は右耳のインカムに手を当てながら口を開く。
「対象を保護した!オペレーター、住民の避難は!?」
『問題ありません。すでに終了しています。これより、発砲を許可。殲滅活動へ移行してください』
インカムからの指令を耳にした瞬間、隊員達は一斉に、持っていた小銃を前方へと構える。ただ一人、交わされた会話の中身を知らない十条九だけが、突如生徒達へと向けられた物騒な器具に悪寒を覚え、目を見開いていた。
『目標は、吸血鬼化した全校生徒と教員合わせて約500体、及びオリジナル1体。ミッション、スタートです』
その、瞬間だった。凄まじい銃声が鳴り響き、雷雨に直接打たれたようなビリビリという衝撃が、皮膚の上を駆け抜けていく。群れを成して迫る全校生徒に、銃弾が雨のように降り注ぎ、弾丸が作った傷口からは黒い体液が飛び散って、まるで噴霧のように舞っていた。絶え間なく繰り出される弾丸に、徐々に生徒たちが倒れ始める。
「は……!?」
目の前で起きた事が、一瞬理解出来なかった。
「何、して……!?」
思わず、十条九は女性に詰め寄った。だが、彼女は冷静な目で十条九を一瞥した後、「あれが人間に見えるか?」と、銃の先で生徒たちを指し示す。それを目線で辿った十条九は、すぐにその光景から顔を背け、歯噛みした。撃たれても──顔や胸に穴を空けられてもなお向かって来るその集団に、もはや人間らしさなど残されていなかったのだ。
「一度噛まれてしまえば、もう元には戻らない。血を吸う怪物になり果てる。もし彼らを一人でも見逃せば、被害は二次的に増えていき──今日のような事が、延々と繰り返される事になる」
ゾクリと、背筋を蛇が這うような寒気がした。まだ、こんな状況になってまで、あれだけの惨劇見た後でさえ、自分は人の形をしたものが死んでいく場面を見ていなければならないのだ。自分と同じ制服を着た生徒たちが、目の前で躊躇無く撃ち殺されていく。その光景に、十条九は膝を折った事すら気付かなかった。だが、何より堪えたのは、彼らがこの場に駆け付けた時点で、こうなる事を薄々予測出来てしまっていた自分がいた事──そして、隣に立つ女性の目が、明らかにそれを見抜いていた事であった。
「全員、撃つ手を休めるな!数は多いが、それだけだ!弾幕を張って、範囲をカバーしろ!短期でケリを着けるぞ!」
銃声の鳴り響く中、銀髪の女性が大きな声で叫んだ。自らも小銃を撃ちながら、的確に指示を飛ばしていく。生徒の群れは次々と倒れ、校庭はだんだんと彼らの体液で黒く染まっていった。
「……隊長、何なんですか、これは。ほとんどの個体が自我を失っている……こんなの……」
仲間がどれだけ撃ち殺されても一様に真っ直ぐ向かってくる吸血鬼の群れを見て、隊員の一人が小さく呟く。吐き気を堪えるような、そんなひどい表情をした隊員の顔を横目で見ると、女性は小さく頷いた。
「オリジナルの強制力の強さ、と思うしかないな。……もっとも、ここまで酷い状態は、私も初めて見る」
静かな声で、女性が応じる。その、直後の事だった。校舎の方から何かが崩れるような爆音が轟き、その一角から砂煙が立ち込める。まるで、大型の重機で破壊したかのように、瓦礫や窓がガラガラと落ちていった。
「──ッ!撃ち方止め!」
女性が短く叫ぶと、隊員たちの手が止まり、視線がそちらへと集中する。それに合わせるように、生徒たちの行進も、いつの間にか止まっていた。
「あはっ!いっぱい集まったねぇ」
まるで大きな刃物で抉り取ったように、教室の外壁が崩れ落ちている。その中から、十条九の聞き覚えがある声が聞こえてきた。
「……お出ましか」
忌々しげに、女性が呟く。その瞬間、隊員たちの間に緊張が走った。
「じゃあ、みーんなそろったところで、もう一度自己紹介しよっか。こういうのちゃんとしとかないと、ダンにぃがうるさいしね~」
何者かが、砂煙の中から近づいてくる気配がする。やがて、崩れかけの教室の縁に一つの影が立った時、その場にいる全員が息を呑んだ。
「じゃあ、改めて。私はマユカ。吸血鬼。ついでに言うと、『女王』の七人の子どものうちの四番目」
そう言いながら姿を現したのは、端麗な顔に不敵な笑みを浮かべた、先ほどの転校生──その背に『四枚』の翼を携えた、吸血鬼だった。腰の辺りから生える、コウモリの翼のような形をした黒い一対の翼。そして、肩の辺りから紅蓮の色をした大きな翼が、彼女の背中を飾っている。美醜と禍々しさが入り交じるその姿は、四枚の翅を持つ蝶を連想させた。
「……『女王の翼』、か……」
銀髪の女性が、小さく呟く。マユカはそれに応えるように視線を向けると、ニッコリと微笑んで言った。
「で、この人はあなたたちのお仲間でいいんだよね?」
その右手が、スッと掲げられる。直後、彼女の掌に乗せられたモノを見て、隊員たちは銘々に困惑の声を上げた。そんな中、これまで表情一つ変えず、冷静さを保っていたはずの女性さえ、その光景に目を見開いていた。
「──鮫、島──?」
当惑した、ただただ年相応な顔。それを見て満足したように、マユカは微笑んだ。見せつけるように差し伸ばされたマユカの手の上には、先ほど十条九に逃げるように促した男の頭部が、乗せられていたのだ。その断面からは未だ血が滴り落ち、生きていた頃の名残を、生々しく表していた。
目の前の光景に堪えきれず、十条九は再び嘔吐した。地に両手をつけ、まるで謝罪でもするように頭を下げながら、彼は口から吐瀉物を溢す。胃の中が完全に空となり、胆汁以外吐き出すものがなくなろうと、十条九は顔を上げる事が出来なかった。
「あはっ、みんないいカオ。そうそう、『残りの部分』はこの辺に落ちてるからね。って言っても、全部輪切りにしちゃったけど」
ゴミでも放り投げるように、マユカは頭部を投げ捨てた。その瞬間、石でも噛み潰したようなギリッという歯ぎしりの音が鳴り響き、それと共に女性の目に憎悪の光がともる。素人でも分かるほどの殺気は、この極限の状況において既に虚脱状態だったはずの十条九を、再び震え上がらせる程のものだった。
「さ~て、これからどうしようか?全力の私と戦う?それとも、十条くんをこっちに渡す?あ、ひょっとして隊長さんのあなたを人質に取ったら、朝陽ちゃんと交換できたりするのかな~?……なーんて、そう単純にはいかないよね。組織っていうのは往々にして、尻尾切るのが大好きだから」
手で作った鋏の形をチョキチョキと動かしながら、マユカは冗談めかした様子で口にする。波濤のような殺気を一身に浴びながらも、彼女はクスクスという笑いを止めなかった。幾分の余裕さえ見せる表情で、彼女は眼下の女性を見下ろしている。
「……お前の目的は何だ?なぜ、十条九を欲しがる?人質にして、十条朝陽を呼び出そうという魂胆か?それとも、吸血鬼にして朝陽の元に送り込んで、襲わせるつもりだったのか……」
目に見える程の怒りを身に纏いながらも、女性は声を荒げずに尋ねる。期待していた反応と異なっていた為か、マユカは少しつまらなそうに口を尖らせた。
「ん~、そういうことができれば苦労はしないんだけどね。さすがに、そんなチープな作戦は通用しないでしょ?まあ、ヒントをあげるなら……『将を射んと欲すればまず馬を射よ』、ってやつ?」
「……何だと?」
「あはっ、ダメダメ。これ以上はヒ・ミ・ツ」
可愛らしく小首を傾げながら、マユカは人差し指を唇に当てる。
「まあ、とにかくそういうわけでぇ、私はまず十条くんを仲間に引き入れたいんだけど……」
「……そうか。なら、こういうのはどうだ?」
ガチン、と金属の鳴る冷たい音が響く。その音を、十条九は側頭部で聞いた。
「……え?」
横目で、恐る恐る、十条九は目の動きだけで女性へと視線を向ける。銀髪の女性が拳銃を自分の頭に押し当てているのが見えた瞬間、もはや驚愕という感情さえ沸かないほど、彼はただただ唖然としてしまっていた。その表情には何の迷いもなく、今すぐにでも何かのきっかけで引き金を引くだろうと、十条九は肌で感じ取っていた。
「ふ~ん、なるほどね。利用されるならその前に消しちゃおうと……けど、本当にやるつもり?」
「……試してみるか?」
引き金にかけられた指に、少しずつ力が込められる。それに応じてギチギチと不吉な音を立てる引き金に、十条九は身動ぎ一つできなかった。
「あはっ、本気なんだ?けど、止めておいた方がいいんじゃない?ここで十条くんを殺すような組織を、朝陽ちゃんは信用しないと思うよ~。ま、私にしてみれば、それをネタに朝陽ちゃんを味方にできそうだし……どっちでもいいんだけどね?」
そう言いながら、マユカは校舎から飛び降りる。地面に着く前に一度だけ羽を大きく羽ばたかせると、彼女はゆっくりと、幾分の優雅ささえ感じさせる動作で着地した。
「さて、と。あんまり時間かけちゃうと増援が来そうだし……そろそろ返事──」
言いかけた言葉は、しかしそこで唐突に途切れた。代わるように、金属同士がぶつかったような甲高い音が鳴り響き、彼女の目の前で火花が散る。常人の目にはその動きがまるで見えなかったが、いつの間にか彼女は、何かから身を守るように、翼を顔の前へと翳していた。
「ふぅん……話に集中させておいて、スナイパーがこっちを狙う。最初から、そういう算段だったわけね」
近隣の建物にチラリと視線をやりながら、彼女は呟く。恐らくはその方向にいるだろう狙撃手を見据えながら、マユカは足元に叩き落とした弾丸を踏みつけた。
「残念だけど、交渉決裂かぁ。じゃあ、しょうがないけど……」
マユカはため息を吐きつつ、顔を下げる。そして、次にその顔が前を向いた瞬間、今まで見たことのないような残忍な笑みが、頬に浮かべられていた。
「実・力・行・使、かな」
「──ッ‼全員左右に散開しろっ‼」
瞬間、銀髪の女性の怒号が飛んでいた。彼女はそれと同時に全速力で駆け出すと、前方へ向かって自動小銃のトリガーを引く。狙いは、恐ろしい程に正確無比だった。放たれた無数の弾丸は、寸分の違いもなく目標へ向かって飛んでいく。しかし、その銃弾がマユカの体に穴を空ける事はなかった。
「私に銃とか、意味ないんだよねぇ」
浮かべられた笑みは冷たく、嘲りの色に満ちていた。肩から生えた両の翼は、盾のように銃弾の悉くを弾き返す。まさに、鎧袖一触。どれだけ正確な銃撃も、その防御の前では意味を成さなかった。
ふと、放たれる銃弾の音に混ざって、タン──と地を蹴るような音が、小さく響く。それが、マユカの踏み出した一歩であり、そして、飛翔への足掛かりだった。四枚の翼によって浮力を得た彼女の体は、地を離れた瞬間に、驚異的な速度を獲得し、前方へと直進する。それこそ、彼女は弾丸を思わせる速度で隊列目掛けて飛来していた。それに合わせて、予めこの展開を見越していたかのように、銀髪の女性は半ば強引に隊員たちを左右に押しのけ、彼らを庇うように前へと進み出た。
「へぇ、反応早かったね」
目前にマユカが現れた刹那、その翼が大鉈のように空を裂く。その動きを、視認出来た者はいなかった。大振りの刃物の如きその翼を、しかし女性は身を反らしてかわす。ただ、わずかに翼の先端部で掠められた小銃が、真っ二つに切断されていた。
「ぼさっとするな‼生徒たちがこっちに向かってきてる‼」
女性はホルスターから拳銃を抜きながら、素早く口にする。先ほどまで動きを止めていた大量の生徒たちが、再びこちらへ向かって行進してきていたのだ。
「くそっ……援護射撃を……!」
「やめろ!隊長の邪魔になるだけだ!俺らは向こうを片付けるぞ!」
隊員たちの間で会話が交わされ、陣形が変わり始める。マユカと女性のことを避けるように旋回しながら、隊員たちは生徒の群れへと向かっていった。
「私の相手をしながら隊員たちの動きまで指示する、かぁ。すごいね、素直に感心したよ」
言葉と共に、四方から翼が繰り出される。その速度はいずれも、『目にも留まらぬ』と評するべきものだった。しかし、それらが女性の体に触れる事はない。上の翼が首を刎ねようとするのを屈んで避け、下の翼が足首を薙ごうとするのを後退してかわす。数秒の間に何十と繰り出される翼を、女性は寸分の狂いなく回避していた。全て紙一重の回避行動は、あまりに的確。しかし一方で、反撃するほどの余裕はなく、女性は全く攻撃に転じることができない。
「けど、相性が悪かったね」
戦況が変わったのは、不意の事だった。これまで全ての攻撃を回避していた女性の体が、唐突にカクンと傾いたのだ。
「っ、しまっ──」
後方へと倒れていく女性の眼下、屈み込んだマユカがニヤリと口角を上げる。女性が四枚の翼への回避に専念する中、マユカは彼女の眼下に潜り込み、その脚を蹴り飛ばしていたのだ。
「じゃ、バイバ~イ」
バランスを崩した女性の首元に向かって、腰から生えた翼の一枚が高速で迫る。地から足が離れた状態の女性に、どう考えてもそれを避けることはできない。次の瞬間、空を切る高い音が鳴り響き──女性の体は、大きく跳ね飛ばされた。
「っ、隊長‼」
砂ぼこりを巻き上げながら転がる女性へと、他の隊員たちが駆け寄ろうとする。しかし、それを留まらせたのは、女性の「来るな!」という一喝だった。
「……っ、この程度で騒ぐな……」
隊員たちが不安げに見守る中、女性はよろよろと立ち上がった。その手には、刃が砕けてバラバラになったナイフが握られている。右頬に横一文字についた傷からは、真っ赤な血が滴っていた。
「……いやいや、あの状況からナイフ一本で攻撃を逸らすとか、人間業じゃないし」
その時初めて、マユカの顔に驚愕の表情が浮かんだ。翼の大きさや体積を考えれば、1m超の大剣のフルスイングをナイフだけで受け流したに等しいのだ。驚きに目を見開いたマユカの口角が、だんだんと上がっていく。
「あっははっ!どうしよ?私、戦闘狂ってわけじゃないんだけど……少し楽しくなってきちゃったかも」
マユカの四枚の翼が、敵を威圧するように大きく開かれる。その目には、もはや眼前の敵一人しか映っていないようだった。
「さっきは、ついクセで自分の羽使って叩いちゃったけど……今度は『女王の翼』でやっちゃうから。もちろん、これはナイフなんかじゃ防げないよ……‼」
そう口にするや否や、マユカは高速で女性へ向かい飛翔する。女性は素早くナイフを投げ捨てると、再び銃を構えた。女性が放つ弾丸を、今度は防がずにかわしていく。即座にその距離が縮まり、マユカは目前へと迫っていた。
「……楽しい、か」
彼女の言葉を反芻しながら、迫りくるマユカを一瞥する。静かにその場に佇んだまま、女性はゆっくりと、ホルスターから弾倉を抜き取った。
「──鮫島を殺った時も、そうだったんだろうな」
手早い動きで弾倉を入れ換えると、銃口は再び火を吹き、弾丸がマユカへと迫る。顔面を狙うその銃弾を、彼女は翼の一つで防いだ。
「だから、無意味って──」
だが、彼女が翼を前方から退けたその瞬間、女性の姿はマユカの視界から消失していた。マユカの翼をブラインド代わりに、彼女はマユカに自身の視界を塞がせ、その間に姿を眩ましていたのだ。
「──ッ‼」
素早く気配を辿ったマユカは、即座に視線を下げる。その先、自分の真下に女性が潜り込んでいた事に気付くと、マユカは目を見張った。地面と体が平行になるように飛んでいたマユカに対して、女性はスライディングでその真下に、地に背を預けるような格好で、滑り込んだのだ。互いに相手と向き合う状態、そして女性の銃口は、真っ直ぐにマユカへと向けられている。咄嗟にそれを防ごうと、翼を翻そうとしたマユカは、しかしそれが不可能な状況にある事に気付いた。
低空を、それこそ地面を擦るような高さで飛行していたマユカに、下からの攻撃に対して、翼を充分に振るえるだけの高さがなかったのだ。銃弾を叩き落とすにしても、引き金を引かれるより前に女性を切り刻むにしても、それ以前に、翼を地面に擦ってしまう。故に、マユカが相手の攻撃を防ぐ事は、不可能だったのだ。
「ヤバ──」
躊躇いなく引き金が引かれ、至近距離で銃弾が放たれる。しかし、マユカは地面に翼を突き立ててエッジ代わりに使う事で、強引に体を傾かせた。直撃するはずだった弾丸の射線からわずかに体が逸れ、銃弾は右耳の端を掠めるだけに留まる。ちぎられた髪が一房、宙に舞っていた。
直後、女性はマユカの胸ぐらを強引に掴むと、そのまま力任せに、自らの方へと引きずり下ろす。それでマユカの回避行動を封じると、彼女はマユカの口内へと、拳銃の銃口をねじり込んだ。
「ん、ぶぁ、ぐ──!?」
くぐもった声が響く中、女性は一瞬の迷いもなく引き金に指をかける。ついに、その頭蓋を銃弾が貫く──誰もがそう確信した瞬間、しかし事態は急変した。
突如、拳銃を握っていたはずの女性の右手が、見えない何かに激突されたかのように弾かれる。ちょうど真横から腕を叩かれたように、彼女の手は銃から離れてしまっていた。それを好機と見るや、マユカは大きく後方へと飛び退く。自らの口から拳銃を抜き取ると、彼女は涙を浮かべながら咳き込んだ。
「はぁ~、びっくりした。こんなの突っ込まれたの初めてかも」
マユカが安堵のため息を吐く一方で、女性は身を起こしながら、自らの右手を不思議そうに見つめる。
「今……確かに何か……」
言いかけた女性は、しかしその瞬間、違和感に気付いた。空気中に、何かが漂っている。肉眼で視認出来るそれは、細かい水の粒のようなものだった。
「……霧……?」
唐突な状況の変化に、女性は戸惑いの声を上げた。確かに、空は分厚い雲に覆われていて、日光を遮っている。直後に雨でも降りだしそうな天候ではあるが、しかし、この霧の発生はあまりにも急過ぎた。そして何より、その霧を構成する水の粒が、目に見て分かる程の『黒色』をしていた事が、この状況における異常を示していた。
「全員、警戒を怠るな!何か──」
女性が、隊員達へ注意を促そうとした、その瞬間だった。
「かはっ……!?」
突如、何の前触れもなく、女性の体が後方へと吹き飛ばされる。まるで、見えない何者かに腹部を殴打されたかのように、女性の体は「く」の字に曲がったまま、2m程飛んだ後で地面へと転がった。だが、それも束の間、女性は咳き込みながらも瞬時に立ち上がると、周囲へと視線を走らせる。
「っ、どこだ……!?」
しかし、その間にも霧は段々と濃さを増していく。もはや、数メートル先の光景すら見えない霧の中、女性は背後に気配を感じ取ると、振り向き様に、腰のホルスターから抜き取ったナイフを振るう。だが、刃が裂いたのは霧ばかりだった。手応えも何もなく、ナイフが宙を泳ぐ。しかし直後、彼女は再び、何もないはずの空間から物理的な衝撃を受け、大きく吹き飛ばされていた。受け身を取るほどの余裕もなく、女性は地面へ投げ出される。マユカとの戦闘でかなりの距離を前進していたのにも関わらず、今や女性は、呆然と事態を静観する十条九のすぐ目の前まで後退させられていた。鳩尾に一撃を受けたらしく、もう一度立ち上がった彼女は、痛みに歯を食い縛りながら、腹部を押さえていた。
「くっ……気配、すら……離れていろ。どこに敵が潜んでいるか……」
砂のついた口元を手の甲で乱暴に拭い、十条九へと声をかける。肩で荒い呼吸をしながら、それでも彼女はナイフを構えたまま、敵の姿を探っていた。しかしその直後、事態はさらに一変する。
突如、女性の右手から、握っていたはずのナイフが落ちる。当人の意図せぬ事態に、自らの右手へと視線を向けた女性は、困惑に目を剥いた。まるで、見えない何かに腕を捻り上げられているかのように、女性の腕はギリギリと音を立てながら、後方へと曲がり始めていたのだ。咄嗟に左手でナイフを拾い上げようとするが、同様に左腕も拘束され、身動きが取れなくなる。彼女は見えない何かに両腕を持ち上げられ、空中へ磔にされたように、一切の挙動を封じられていた。
「がっ……あっ……!?」
関節が軋むような音を上げ、彼女の口からも苦悶の声が漏れる。それは、今にも腕がへし折れるのではないかという程の勢いだった。しかし、目の前でそんな異常事態が起きようとも、十条九はただただ狼狽える事しか出来ない。よしんば、彼女を救う方法や手段があったとしても、今の十条九はそれを実行に移すだけの精神状態になかった。
「リズねぇ、助けてくれる事に関してはありがたいけどさ、その辺にしといてくれる?この人、今殺しちゃうと都合悪いんだよね」
状況を変えたのは、マユカの一言だった。少しの先も見えない霧の中、その奥から再び姿を現したマユカは、身動きの取れない女性の前に立ち、その姿を見下ろす。
「……分かってるってば。それより私、動いて汗かいたから、お風呂入りたいなぁ」
見えない何かと会話するように、霧に向かって言葉を発する。それが誰に対する言葉なのか、十条九には理解が出来なかったが、しかしその瞬間、霧に変化が生じた。まるで、マユカの体を包み込むように、霧の粒子が渦を巻き始めたのだ。それは──霧というものに対して適切な表現かは分からないが──まるで、なついた動物が主人に向かって纏わりついているかのようだった。
「ちょっと、そんなに急かさないでよ。もう、せっかちなんだから」
あしらう言葉を口にした後で、マユカは改めて女性と向かい合う。「ってわけで」と言葉を繋いだ後で、彼女は女性の顎に指先で触れると、未だ身動きの取れない女性に、自らを見上げさせた。
「今日のところは見逃してあげるね。『隊長』さん」
意味ありげに微笑みながら、マユカは女性を見下ろす。女性は平静を装った表情で対峙していたが、その内心が穏やかではないであろうことは、誰の目から見ても明らかだった。怒りから、動かないはずの体が小刻みに震えている。
「さぁて、じゃあそろそろお暇しようかなぁ」
緩慢に言葉を吐きつつ、マユカは両手を組んで伸びをする。一連の出来事を傍観するだけだった十条九は、その時近付いてきた足音に、顔を向けた。
「ふぅん、もう全員倒しちゃったんだ?500人くらいはいたと思うんだけど」
感心したような声を上げながら、マユカが周囲を見渡す。彼女から数メートルの距離のところで、隊員たちが銃を構えながらマユカのことを包囲していたのだ。恐らくは、生徒達全員の掃討が完了したのだろう、怒りに満ちた彼らの表情には、黒色の返り血がべったりと付着していた。マユカを逃がすまいとするように武器を構える隊員達を見て、彼女はクスッと微笑む。
「そういう向こう見ずはキライじゃないんだけど……これ以上、やる?」
浮かべられた冷笑は、これまで以上の残忍さを伴っていた。それは、あれだけの数の吸血鬼を相手にした隊員達であっても、一瞬の躊躇いを覚えてしまう程の威圧感だった。戸惑う一同の中で、マユカだけが微笑んでいる。ふと、その視線が十条九の方へと向けられた。
「じゃあね、十条くん。生きてたら、また会おうね。今度は……」
片目を閉じながら、マユカは自らの唇に人差し指を当てる。
「誰の邪魔も入らないところで……ちゃぁんと、最後まで相手してあげるから、ね」
その言葉を最後に、マユカは濃くなった霧の向こうへと消えていった。




