〈8〉
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びちゃり、と粘度の高い液体のような音と共に、教室の壁や黒板に赤い横一文字が描かれる。それと同時に、クラスメイトたちの動きが、時が止まったかのように静止する。
「……え?」
場違いのように、間の抜けた疑問符が口から溢れる。何が起きたのか分からず、十条九は隣の席の渡瀬の方へと、ゆっくりと──本能的な忌避感に背くように、顔を向けた。その視線の先で、先ほどの表情のまま、彼女は机から身を乗り出した姿勢で固まっている。
「わ……渡……瀬?」
何かを懇願するような、そんな呼び掛けだった。掻き立てられる不安の中、ただ彼女の声を聞いて安心したくて、祈る程の気持ちで吐いた言葉に、しかし返答がなされる事はない。
「……何、で……」
不意の事だった。スッ──と、渡瀬の首筋に、赤い一直線が刻まれる。そして十条九の見ている前で、その線に沿って、頭部がゆっくりと、まるでスライドパズルのように、ずれ──
「ダメだよ~十条くん。女の子と話している時に、余所見なんてしちゃ」
バサッ、という鳥が羽ばたくような音とともに、十条九の視界を何かがふさぐ。それは、大きな翼だった。真っ黒な蝙蝠のような翼が、転校生の腰の少し上くらいの位置から、制服の後ろ側をめくりあげるようにして伸びている。
「今は私のことだけ見てて、ね」
そう言ってニッコリと笑う少女の後ろで、ボーリング玉が床に転がるような、ガツンという物々しい音が、それこそ雨のように連続して鳴り響いた。
「…………っ!?」
視界が明滅し、頭の中が空白で満たされる。もしかしたら、一瞬気を失っていたのかもしれない。途端、汗が滝のように、凍った背筋を伝う。熱くなる肺が、呼吸すら忘れていた事を、ようやく思い出させる。思わずのけぞりそうになるが、足に力は入らず、おまけに左手を掴まれていて、逃げることができない。それでもどうにか足を動かそうと試みると、わずかに動いた爪先が、ピチャっと何かをはねるような音を立てた。
「あ……ぁぁ……っ!?」
気づいた時にはもうすでに、真っ赤な血溜まりが床一面に広がっていた。全身の総毛が立ち、思わず声を上げそうになるも、口の中がカラカラで渇いた無様な音しか出てこなかった。
「あはっ!十条くん、震えてるの~?か~わいい」
茶化すような口調で言いながら、彼女は笑う。妙に端麗なその笑顔が、余計に異質なものを感じさせた。
「でもね、安心して?十条くんを傷つけるつもりは、全く無いから」
そう言って、彼女は十条九へと整った顔を近づける。それから、まるで子供を脅すような口調で言った。
「今のところは、ね」
大きく目を広げ、必死で逃げるように、十条九はのけぞる。椅子からずり落ちそうになる姿を見て、彼女は吹き出した。
「ぷっ……あははっ!ホントかわいいな~十条くん。ちっちゃい動物みたい」
気が遠くなりそうになる感覚と、それを許さない緊張感で、心臓の鼓動が気持ち悪いほどに高まる。何とか息を吸って吐くのを繰り返し、十条九はやっとの思いで意識を保っている。無理してでも呼吸をしなければ、次の瞬間には肺も心臓も止まってしまいそうだった。とても、正気を保っていられる状況ではない。
「……な、んで……こんなっ……!」
いっそ、狂ったように叫び散らす事が出来れば、楽だったのだろう。だが、微かに残った理性は、十条九が現実から逃避する事を許さなかった。ガクガクと、恐怖に対峙した子供のように身を震わせ、わななく口で辛うじて尋ねる事で、十条九は平静を保とうとしていた。
「ん?んー……」
人差し指を自らの唇にあてがい、少女は考え込むような素振りを見せる。
「私、同じ説明を何回もするのは嫌いかなぁ」
それまでと打って変わって、低い声だった。そして、彼女はその人差し指で、十条九の首筋を、ゆっくりと横になぞる。
「だからね、十条くんが自分から、自主的に、私について来てくれると嬉しいんだけど」
従わなければ直後に死が待っているという事は、考えるまでもない。十条九はその瞬間、恥も外聞もなく、首を縦に振っていた。目前の恐怖に、何の抵抗もなく素直に屈してしまう程に、彼の心は折られていたのだ。
「うん、じゃ、行こうか」
その姿が、如何程か滑稽に見えたのだろう。彼女はその頬に冷笑を浮かべながら、十条九の手を引いた。しかし、それに従おうとする十条九の意識に反して、彼の足は動かない。膝がガクガクと震えて、力が入らないのだ。必死で、それこそ死を目前にした人間のように焦りながら、彼は額に汗を浮かべる。
「あれ~?ひょっとして腰抜けちゃった?」
反抗の意思はないのだと、そう目で訴える。その様子に気づいた彼女は、困ったように、形のいい眉をひそめた。
「う~ん……まいったなぁ。十条くんのこと担いで行くのは、私のキャラじゃないし……かといって、あんまりぐずぐずもしてられないし……」
彼女は目を閉じ、「うーん」と唸るようにしながら、あれこれと思案に暮れる。やがて、彼女は逡巡した後で、ため息を吐き出した。
「仕方ないなぁ。今はそんなにお腹すいてないし……ホントは、後でゆっくりとやりたかったんだけど……」
そう言うと、彼女は十条九の膝の上に腰を下ろした。グッと身体を近づけられ、彼女の甘い匂いが強くなる。死の淵に立たされた状況だからだろうか、その香りは、毒花を彷彿とさせた。
「な……何を……!?」
スッと、彼女の人差し指が十条九ののどに突き立てられた。その瞬間、先ほどのクラスメイトたちの末路が脳裏をよぎり、彼は微動だにできなくなる。
「大丈夫。痛くしないから……」
たったそれだけで動作を封じられた十条九の姿を見て、彼女はクスリと微笑んだ。その口の端から、鋭い犬歯が姿を現す。彼女の指は十条九の首筋をなぞりながら、胸元の方へと下がっていった。やがて彼の着ているワイシャツへたどり着くと、ネクタイを下げ、留めてあったボタンが外される。ちょうど、首元までを露出するような格好だ。しかし、何かされると分かっていても、十条九は指一本動かす事すら出来なかった。
「さて。いっただきま~す」
露になった首元へと、彼女の顔が近づく。彼女が口を開け、首筋へと牙を突き立てようとした、その時だった。
ガシャン、と何かが割れる盛大な音が、背後から響く。その直後、十条九の身体は後ろから突き飛ばされていた。
「うぁ──っ!?」
突き飛ばされた彼の身体は、教室の壁際まで吹き飛ばされ、床を濡らしていた血溜りを大きく跳ね上げた。
「っ……な、にが……っ!?」
背中を強く打ったせいかぼやける視界で、彼は周囲を見渡そうとする。その瞬間、先ほどまで視界を塞がれていたせいで見えなかった惨状が、十条九の目に飛び込んできた。
ある者は席についたまま、ある者は床に伏したまま、皆一様に首から上がない。鮮やかすぎる断面から盛り上がった筋肉と、その中に埋まっている白い骨。それらから目を逸らすように教壇の方を見ると、担任の教師の身体が黒板にもたれかかっていて、同じように頭部を失った首から血が滴り、黒板を赤く濡らしている。
喉元に酸味の強い液体がこみ上げてくるのを感じ、十条九はどうにか吐き気を抑えようと、口元を手で塞ごうとする。しかしその時、口元に運ぼうとした左手に、何か糸のように細いものが絡んでいることに気づいて、彼は動きを止めた。
「……ぁ?」
──見てはいけない。
頭の中で、警鐘のようなものが鳴り響いている。
しかし彼の視線は、自らの左腕をなぞっていく。その先にある左手に、床に転がった誰かの髪の毛が絡みついている。
──そこに、つい先程まで言葉を交わしていたはずの、渡瀬紅葉の頭部があった。
「うぐっ」
限界だった。身近な人間の死を──その死に顔を知覚する事に、彼の精神は耐えきれなかったのだ。身体を強く打ったことも手伝い、十条九はついに嘔吐した。呼吸ができず、涙がボロボロと頬を伝う。吐瀉物が口を塞いでいなければ、喉を潰す程の絶叫が上げられていた事だろう。胃がひっくり返ってしまいそうな感覚に襲われながらも、彼は必死に左手に絡みついたモノを引き剥がしていた。
「おい──おい!無事か!?」
ひどい吐き気に苛まれながら、ほとんど反射的に、怯えるように顔を上げる。状況を理解している余裕などないが、それでも今は、そうしないと正気を保っていられなかったのだ。声の主は、仰向けになった少女を取り押さえる、大柄な男だった。両手に小刀のような物を握り、両翼にそれらを突き刺し、少女の事を床に捩じ伏せている。
周囲に窓ガラスが散乱しているところを見ると、窓を突き破って飛び込んできたという事なのだろうが、今の十条九にそこまでの思考は出来ていなかった。ただ、自分が束の間の生を得たという事にしか、頭が回っていない。
「おじさぁん、どいてくれないかな?私、強引に押し倒されるのはキライじゃないけど、これはちょっと野暮じゃない?せっかく十条くんとお楽しみ中だったのに」
男のことを見上げながら、彼女は不満そうに言った。床の血が飛び散ったのか、彼女の頬には赤い水滴がいくつか付着している。
「あと、おじさんはあんまり私のタイプじゃないかも」
「ははは!こりゃあ一本取られたなぁ!」
男は朗らかに笑ったかと思うと、次の瞬間には射殺すような視線を、眼下へと向けた。
「化け物の相手なんて、こっちから願い下げじゃ。……さっき、十条ゆぅたの?さしずめ、兄貴の方の血ぃ吸って、われの傀儡として朝陽ちゃんの元に送り込むつもり、ちゅうところじゃろ?」
「さあ、どうでしょう?」
二人の会話が聞こえた瞬間、それまで嘔吐くだけだった十条九は、頭に冷水でもかけられたように、一瞬で正気を取り戻した。今確かに、この男は朝陽の──死んだはずの妹の名前を口にしたのだ。十条九がそのことに反応するより前に、男はこちらへと視線をやり、「われが十条くんか!?」と叫ぶような声で尋ねてくる。十条九は、戸惑いながらも黙って頷いた。
「まだ、噛まれてないな!?」
その問いに何の意味があるのか分からなかったが、彼はもう一度頷く。それを見て、男は微かに安堵の表情を浮かべた。
「何とか……最悪の事態は防げたか!十条くん、われは早ぉここから逃げんさい!ワシは、この吸血鬼の相手せにゃあいけん!」
男に対して、聞き質したい事はいくつもあった。状況だって、まだほとんど飲み込みきれていない。それでも十条九は、どうにか立ち上がろうとした。逃げる気力があったわけではない。ただ、一刻も早くこの惨状から目を逸らしたくて、たまらなかったのだ。状況を把握するより先に、今すぐこの場から逃げ出さなければ、狂ってしまう。血溜りで何度か足元を取られながら、どうにか壁に手をついて身体を持ち上げる。すると、押し倒された状態の少女は顔を上げて、十条九に視線を向けた。
「十条くん、このおじさんの言うこと聞くの~?」
クスッと、意味ありげな笑みを十条九へと寄越す。
「それより、私と一緒に行こう?そうしたらぁ……十条くんにイイこと教えてあげるよ?例えば……」
その瞬間、男は左の翼に突き刺していた短刀を素早く引き抜くと、少女の首元めがけて振り抜いた。二回りは太さの違う男の手を、しかし彼女は両手で受け止める。
「耳貸すな!早ぉ行け!」
男は、叫ぶように大きな声で言った。それはまるで、何か知られてはいけないことを隠すかのようで、わずかな疑念に、十条九の足が鈍る。十条九が逡巡する隙を見計らって、彼女は言った。
「キミの妹が、まだ生きてる……とかね」
「──え?」
十条九は、耳を疑った。その瞬間、男が苦虫を噛み潰したような顔をする。それが、真実であることを肯定しているようなものだった。
「……何を……言って……?」
予想だにしなかった一言に、十条九は唖然と立ち尽くす。彼が足を止めたのを見て、少女は口角を上げた。
「妹……?妹って、朝陽のことか……?」
「そーだよ。他に誰かいる?」
余裕のある表情で小首を傾げながら、彼女は十条九の顔を窺う。十条九は、ただ困惑に目を見開いている事しか出来なかった。
「け、けど、朝陽は飛行機事故で……」
「死んでないよ~?」
彼女の言葉に、動悸が早くなる。脳裏には、まだ記憶に新しい少女の遺体が、はっきりと思い浮かんでいた。
「俺は、あいつの死体を……」
「確認した?ちゃ~んと顔まで」
「……顔……」
暗に、顔はとても見られたものではない、と示唆された十条九は、結局布のかけられたその顔を、見ようとはしなかった。それに気付いた瞬間に、背筋にゾクッという寒気が走る。
「その辺の死体に、朝陽ちゃんの制服でも着させたんだろうね。たぶんだけど、顔は見られても平気なように潰しておいて」
「なっ……何で……誰が、そんなこと……!?」
そこまで言って、彼は何かに気付いたように、小さく息を吸い込む。説明を求めるように男の方を見るも、彼は都合の悪い事実から逃れるように、目を逸らすだけだった。
「そーだよ。この人たち。この人たちが、朝陽ちゃんを連れてったの」
その一言に、頭を殴られたような衝撃を受ける。十条九は混乱していた。たった今十条九を助けたこの男が、朝陽を拐ったなどと、突然言われて信じられる訳がない。しかし、男自身がそれを否定しようとしていない現状が、余計に不安を煽っていた。もはや、何を信じたらいいのか、どう行動すべきなのか、何も分からない。
飛行機事故が起きた。妹が死んだ。転校生が来た。クラスメイトが殺された。そして今、妹が生きていると知らされた。現状は、彼が許容できる範疇をとっくに超えている。
「訳が、分からない……」
理解の追いつかない現実の連鎖に、十条九は頭を抱える。しかし、今すぐにでも思考を停止してしまいたいこんな状況でも、彼は決断を迫られていた。
「十条くん、朝陽ちゃんに会いたくない?私なら、会わせてあげられるよ?」
「ボサッとすな!十条くん、早ぉ行けっ!」
矢継ぎ早に投げ掛けられる言葉に、十条九はどうすることもできず立ち尽くす。そんな彼を正気に戻したのは、突如聞こえてきた悲鳴だった。金切り声。それも、一人二人のものではない。何十という人間が、絞め殺される寸前のような悲鳴を上げている。それは、先日の飛行場で、逃げ惑う人々が上げていたのと同じ絶叫だった。
「……まさか、お前……っ‼」
男が、少女のことをギロリと睨んだ。それを見て、少女はクスッと微笑む。
「うん、そうだよ~。さすがに何の策もなしにこんなことするほど、バカじゃないし」
ニコニコと、楽しそうな笑みを浮かべたままで、彼女は告げた。
「全学年、各クラスの生徒一人か二人ずつ、吸血鬼にしておいたの。私の身に何かあったら、他の人間を襲うように言ってあるよ。今頃、み~んな吸血鬼になってるんじゃないかな?」
「……っ、この下衆がっ……‼」
男はギリッと歯ぎしりをすると、十条九に目を向ける。視線だけで人を殺せそうな目に、思わず一歩後退するほどだった。
「聞こえたじゃろ!?こがぁな奴のゆう事、聞くに値せん!早ぉせんと、吸血鬼の群れがここに来る!」
怒鳴る声に気圧され、十条九はよろよろとドアの方まで下がる。そこに、続け様に男が言った。
「ええか、途中誰におうても立ち止まるな!全員振り切れ!絶対に、噛まれるな!」
再び、建物全体を揺らすような叫喚が響き渡る。投げ掛けられた言葉を聞き返す余裕もなく、十条九はただ、恐怖から教室を飛び出して行った。
「さぁて、こっちもはよぉ終わらすか」
宣告と共に、男は右手に力を込める。少女の両手を押し返すようにして、短刀の切っ先がだんだんと首元の方に近づいていく。
「おじさん、ひょっとして……んっと、なんだっけ?かん……」
「……巫、か?」
「あぁ、そう、それそれ」
今思い出したというような顔で、彼女は言った。その表情には幾分余裕が見え、まるで追い詰められた素振りが見られない。
「トーマが言ってた。怪力ジジイに会った~、あいつは巫だ~、って。それって、おじさんのこと?」
「そうじゃの。まあ、拳骨をお見舞いしちゃったけぇ。で、その口ぶりからすると、われもあんなぁの仲間か?」
「うん、まぁ……仲間っていうか、兄弟かな。一応」
ほう、と納得したように男が呟く。その手に握られた短刀は、すでに彼女の首元に届きそうだった。
「なら、われも『女王』の子、っちゅうことじゃな。で、今背中から生えてんのが、『女王の翼』か……それだけで飽き足らず、朝陽ちゃんの『目』と『心臓』も狙ってるっちゅうことか。それにしても、回りくどいやり方じゃの」
「まあね。ここの制服可愛かったし、ついでにこれ着て登校してみたかったから」
冗談めかした様子で、彼女は微笑む。その瞬間、男の顔から表情が消え失せた。
「人間ごっこも大概にしろや」
男は素早く左の短刀を引き抜くと、大きくそれを振りかぶった。それを見て、少女はクスリと笑みをこぼす。
「確かに、『女王の翼』を持ってるのは私だけどぉ……」
少女は、自分の頬に付いていた血の雫を舌で舐めとりながら言った。
「私まだ、『自分の羽』しか使ってないんだよねー」




