〈7〉
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小学生の頃、事故で腕の骨を折った同級生がいた。彼は普段目立つタイプの子どもではなかったが、事故のことがクラスに知れると、なぜか途端に人気者になった。皆が甲斐甲斐しく世話を焼き、彼のことを手伝おうとした。その時十条九は、ひょっとしたら自分も事故に遭えば、人気者になれるかもしれないと思ったものだ。
だがしかし、実際に二週間前に事故に遭った彼に声をかけてくる者は、特にいなかった。いつも通り学校に通い、窓際の席で読書をしている彼をよそに、皆お喋りに夢中になっている。確かに、右腕のギプスを外していて、目に見える負傷がないというのもあるのだろう。だがしかし、一人くらい自分のことを心配してくれる奴がいてもいいだろうと、彼は思った。
十条九は半ばふて腐れたように、小説の中の活字を目で追っていた。全然頭に入ってこない内容に、彼はため息を吐く。そんな彼の机の隣に誰かが立つ気配を感じ、顔を上げてみると、嬉しそうに微笑む少女の姿があった。
「おはよう、十条くん」
「お、おはよう……わ、渡瀬……」
未だ慣れない感覚に、名前を呼ぶ程度の事でも、十条九は顔が熱くなるのを感じる。ぎこちなく応じる十条九のことを、彼女は再びクスクスと笑った。
「……わ、笑うなよ……」
「ふふっ、じゃあ、十条くんが早く慣れればいいんじゃないかな?」
返す言葉もなく、彼は口をつぐんだ。しかし、彼女のことを呼ぶことに慣れた自分というのが、十条九にはどうにも想像出来ず、顔をしかめていた。
「あ、そうそう。『十条くんは今度いつ家にくるんだ』って、お父さんが言ってたよ?」
「……まあ、そのうち……落ち着いたら……」
彼女からの問いに、というより自らの回答に、十条九は目を逸らす。今現在、十条九は渡瀬の家を出て、叔父夫婦の家へと戻っていた。だが、そこに肝心の叔父夫婦は戻ってきていない。例の飛行機事故から二週間近くが経ったわけだが、しかし未だ、十条九は彼らと連絡を取る事すら出来ずにいたのだ。さすがに十条九も違和感を覚え、警察やら自治体への問い合わせを試みたが、所詮高校生に許された手段では、結果も芳しくなかった。そして一連の事を、渡瀬には一切話していなかった。彼女に、余計な気を遣わせたくなかったのだ。
「落ち着いたら」という自らの言葉が結実するのがいつになるか、一番分かっていないのは、十条九自身だった。その不安が表情に出てしまうより前に、早々に話題を変えてしまおうと、十条九は思考を巡らせる。
「ところで、今日って何か行事があった?妙に、クラスが慌しいけど」
彼がそう問うと、彼女は何かを思い出したような顔をして、十条九の席の後ろを指差した。
「ああ、そういえば。言うの忘れてたんだけど、転校生が来るみたいだよ」
彼が横目でそれを辿ると、自らの後ろに設置された、新しい机が視界に入る。繰り返しになるが、十条九の席は先日まで、窓際の一番後ろという、目立つ事を嫌う彼にとっては最良の位置に存在していた。そのポジションが剥奪されてしまった事、その上自分が事故に遭ったということよりも、転校生が来るということの方が話題性に富んでいたという事実に、彼は少し複雑な表情をつくる。
「男の子かな?女の子かな?仲良くなれるといいね」
十条九の内情を知ってか知らずか、彼女はニコニコと笑みを見せる。何の悪気も臆面もない言葉なのだろうが、十条九にはハードルの高すぎる提案だった。
「……そうだな」
恐らくそんなことはあり得ないだろうと、内心で少し自棄っぱちな感想を呟きながら、彼は気のない返事をした。すると、それを目敏く察したらしく、彼女はズイッと十条九へと顔を寄せ、覗き込んでくる。
「とーじょーくーん?どうしてそんな顔してるのかな?」
突然近くに現れた彼女の顔に、十条九はあたふたと慌てながら大きく仰け反る。渡瀬は腕組みをしたまま、十条九をもの言いたげな、ジットリとした目で見据えていた。
「べ、別に俺は……」
「今『どうせ自分には関係ない』みたいな顔してたよ。まだ会ってもいない相手に、それはちょっと冷たいんじゃない?……まあ、私が口うるさく言う事じゃないけど」
少し困ったような、そんな表情で言いながら、彼女は自らの席へと腰を下ろす。その挙動を何とはなしに眺めていると、彼女は机に頬杖をついて、首を傾けながら十条九に視線を返した。
「十条くんが他の人から悪く思われるのは、私も嫌だからさ」
思わず、毒気を抜かれるような一言だった。他意のない、ただの善意から吐かれた言葉は、彼女の委員長気質をよく表していた。そうなると、抵抗する気力は完全に削がれてしまい、十条九は後頭を掻きながら、観念したように肩をすくめた。
「……善処はする」
「本当?政治家の『善処する』はあんまり当てにならないからなー」
そんな冗談を言いながら、彼女はころころと笑う。十条九がつられて口角を上げそうになっていると、担任の男性教師が前の扉から入ってきて、ホームルームの時間を告げた。
「ほら、さっさと席につけー。浮かれるのは分かるけど、それじゃ転校生が入ってこれないぞー」
そう言う教師の声もいつもより弾んでいて、本人の方が浮かれているのは一目瞭然だった。それを見て、十条九は内心で「女だな」なんてことを想像していた。元より、男子と女子で態度の違いを隠しきれない人間なのだ、予想もしやすい。もったいぶる教師と急かす生徒との間であれこれと騒がしい問答が起きているのをよそに、十条九は窓の外に目を向ける。元々なけなしだった関心も、既に大半が削がれてしまっていたのだ。空は一面分厚い雲に覆われていて、十条九はただただ雨が降らないことを祈っていた。
「わ、分かったからそんなに騒ぐな!えっと、それじゃ、トビクラさん、入ってきていいぞ!」
「は~い。失礼しまーす」
ドアの外側から女の子の声が聞こえたかと思うと、勢い良くそれが開かれる。そこから現れた少女の姿に、クラスの全員が息を呑んだ。
長くウェーブのかかった金髪に、西洋系の雰囲気がする、ハーフのように端整な横顔。身長も高く、170センチ近くある。そして何より、胸が大きい。本当にこれが高校生のものなのかと疑いたくなるほど、見事なプロポーションである。胸元がわずかに開けられたワイシャツの上には、ブレザーの代わりにセーターを着ており、それが余計に胸の形を強調している。モデルか何かをやっていると言われた方が、むしろ納得出来てしまうような容姿だった。
少女が教壇の前に立つと、教師は待ちかねていたかのようにチョークを取り出し、「飛蔵曲紫」という字をでかでかと書いた。
「今日からこのクラスの一員になる……」
「あ、先生、ちょっといいですか~?」
小首を傾げながら片手を挙げ、教師の言葉を遮ると、彼女は黒板に書かれた「蔵」の字を指し示す。
「私のクラっていう字、この字じゃありませんよ~?」
「あ、本当か?すまん、えっと……」
教師が慌てて教壇に置かれた学級名簿を確認しようとすると、その左肩越しに少女が覗き込む。当然のように彼女の形のいい胸は男性教師の腕に押し付けられ、大きくひしゃげた。
「あ、ちょ、トビクラさん……」
「ほら、先生見て。これ、この字」
教師の耳元で囁くように言いながら学級名簿を指差すと、たちまち教師の顔が赤色を帯びていく。大抵の男子生徒たちが食い入るようにそれを見ている中、40代に片足を突っ込んでいる大人が女子高生相手に赤面しているという光景に、十条九は白い目を向ける他なかった。
「……うっわ……エロ教師」
その光景を冷めた目で見ていた女子生徒の一人が、ボソッと呟く。すると、教師は我に返ったように姿勢を正し、黒板の字を書き直した。
「そ、それじゃあ気を取り直して」
厳粛を装った男性教師だったが、その声はまだ上擦っている。そんな様子を見て、当の少女はクスクスと小さく笑っていた。既に手玉に取った、というところだろうか。彼女の表情には、ある種の余裕さえ見て取れた。
「今日からクラスの一員になる、飛倉曲紫さんだ。飛倉さん、自己紹介してくれるかな?」
「は~い」
少女は一歩前に出ると、胸を張りながらにっこりと微笑んだ。その様子を見て、男子のみならず女子までもが息を呑む。
「え~っと、改めまして、飛倉曲紫です。気軽にマユカって呼んでね」
冗談めかした口調と共に、少女がクスリと微笑む。その瞬間、クラスの中でも特に喧しい男子連中が沸き立った。口々に名前を呼んだり、はしゃいだりと、事態は収拾から遠退いていく。
「あはっ!みんな、ありがと~!」
袖で半分ほど隠れた手で口元を隠しながら、彼女は楽しそうに笑う。一々男に媚を売るような仕草に、クラスの女子の三分の一くらいが、今にも舌打ちしそうな顔をしていた。
「時期外れの転入だから不安だったんだけど、みんながいい人でよかった。仲良くしてね~」
どこかパフォーマンスじみた振る舞いと、それを見て大いに盛り上がるクラスメイトをよそに、十条九は結局のところ、相変わらず手元の文庫本に目を落としていた。別に、転校生に全く興味がなかったというわけでもない。少女が教室に入ってきた時には確かに目を奪われたし(主に胸に)、彼から見てもこの少女はとてつもない美人である。
しかし、だからこそ彼は悟っていたのだ。恐らく、今後一切、この少女とは関わらないであろうということを。もしかしたら卒業までに肩の一つでもぶつけて謝るくらいの事はあるかもしれないが、それでも交わす言葉は一言二言程度だろう。十条九がこういう種類の人間と接点を持てるような性格なら、そもそもクラス内で孤立などしていない、ということだ。
「こら、十条くん」
ふと、小声で彼を諫める言葉が聞こえてきて、十条九は隣の席へと視線を向ける。その先で、少しムッとした表情の渡瀬が自分を見咎めている事に気付くと、彼は慌ててページを閉じた。
「うむ、よろしい」
そんな彼の反応を見ると、渡瀬は可笑しそうに口角を上げる。だが、そうやって彼女にたしなめられたり、からかわれたりする感覚も、まるで不快ではなかった。何なら、また彼女の家を訪ねた時にでもからかい返してやろうかと、らしからぬ企みを思い付くくらいには、彼女とのやり取りは心地よかった。
「マユカさんは、どうして転校してきたの?」
渡瀬の言葉の手前、十条九は改めて意識を教壇の方へと向ける。知らぬ間に転校生への質問コーナーが開催されていたらしく、最前列の席に座っていた女子の一人が、そう尋ねる。それを聞いた十条九は、わずかに眉をひそめた。
親が離婚した際に転校を経験している彼としては、転校初日の転校生に対してそんな質問をするのは、少し不躾だと思ったのだ。それに、こうも中途半端な時期の転校だというだけで、ある程度察しがつく部分もあるだろう。それをあえて尋ねているあたり、悪意に近い何かを感じ取らずにはいられなかった。もっとも、当の転校生自身が、あえてクラス中の女子生徒を敵に回すような振る舞いをしているが故ではあるのだろうが。
「ああ、転校してきた理由?」
だが、質問された当の本人は気にした様子はなく、相も変わらない端整な微笑を彼女へと返す。
「実は~、どうしても会いたい人がいてぇ、わざわざここに来ちゃったんだよね~」
その、瞬間だった。ただでさえ浮き足立っていた空気が、投下された爆弾発言に、ここ一番のざわつきを見せる。いよいよ事態の収束危ぶまれ、十条九や渡瀬ら一部の生徒たちは、表情を曇らせ始めていた。そんな中、彼女は快活な声で言ったのだ。
「十条九、くん!」
その瞬間、空気が凍った。クラス中の視線が十条九へと突き刺さり、それを一身に浴びた彼は、蛇に睨まれた蛙のように萎縮してしまう。
「……え?」
何が起こったのか分からないといった表情で、彼は周囲を見渡す。普段から極力人の注意を引かぬよう立ち振る舞っている彼にとって、それは拷問にも近い一時だった。
「十条くん、あの子知り合いだったの?」
「……いや……」
小声で話しかけてくる渡瀬に、同じように声を潜めて返す。実際、彼はこの転校生と面識はないはずだし、彼女の名前にも聞き覚えがない。全く以て、初対面だった。
「あ!キミが十条くん?」
クラスメイトの視線をたどり、件の転校生は嬉しそうに声を上げる。彼女は突然教卓から離れると、軽やかな足取りで教室を横切り、あっという間に十条九の席の前に立った。近くで見ると、否が応でもその優れた容姿が目に入ってしまう。長いまつ毛を湛えた大きな目がこちらを見てくるのに耐え切れず、十条九は彼女の視線から目を逸らそうと、視線を下げた。
「……っ!?」
途端、今度はその大きな胸へと視線が向いてしまう。こちらを覗き込むように前かがみをしているせいか、余計に胸の形は誇張されていて、十条九は思わずその蠱惑的な物体から目が離せなかった。
「……十条くん?」
隣の席から聞こえてくる声がいつもより低い事に気付いて、彼はハッと我に返る。恐る恐る横に目を向ければ、ジトっとした視線で事の成り行きを眺めている渡瀬の姿が、そこにはあった。
「い、いや、違うぞ渡瀬!別に俺は……」
身振り手振りで何とか弁解しようとする十条九の左手が、不意に何かに包まれた。
「……え?」
彼が恐る恐る前へと視線を戻すと、ニコニコと笑う転校生が、両手で十条九の手を握っている。その瞬間、彼は雷にでも打たれたかのように硬直していた。まさに、青天の霹靂。その衝撃たるや、天啓にうたれるほどのものだった。
幼稚園の頃、お遊戯会の発表で手を繋いでダンスを踊るはずだった女の子は、ペアの相手が十条九だと気づいた瞬間に泣き出した。小学生の頃の遠足で森林の中を歩いた際、何故か十条九だけは生徒同士ではなく、先生と手を繋がされた。中学の修学旅行でキャンプファイアーをし、皆がフォークダンスをしていた時も十条九だけ相手がおらず、皆がキャンプファイアーと十条九を取り囲んだまま周囲を回るという、悪魔を封じるための儀式のような光景になった。
つまり結論を述べるならば、彼は今まさに、生まれて始めて女の子と手を繋ぐという状況に陥っているのである。思いのほか柔らかい女の子特有の手のひらに加え、鼻腔にはほんのりと甘い匂いが香ってくる。彼は、思いがけず自らの頬に血が集まっていくのを感じていた。それと同時に、自分を取り巻く男子の視線に殺気がこもっている事に気づくと、ただひたすらに慌てふためく。
「よかった~、早速十条くんを見つけられて。私ね、キミに会いたかったんだよ~?」
ギュッと、その手に力が込められると共に、顔を覗き込まれる。無論女子に耐性のない十条九がこんな状況に耐えられるはずも無く、彼は口をパクパクさせながらオロオロとしているだけだった。すると、見兼ねたらしい渡瀬が、彼の隣で小さく肩をすくめていた。
「飛倉さん?横から口を出して悪いんだけど、さすがに少しやり過ぎかな?ほら、十条くんだって困ってるし」
隣から、渡瀬が諫める声が聞こえてくる。さすが常識人というべきか、彼女は穏やかに微笑みながら注意を促していた。
「あははっ、ゴメンね。つい嬉しくて。でも私、本当に彼に会うためだけにここに来たわけだから」
「それはそうなのかもしれないけど。でも、ごめんね。今はちょっとタイミングが悪いと思う。実は時間が押してて、もう一限目の授業が始まる頃なんだよ。それも、移動教室だし」
人差し指を立てながら、彼女は落ち着いた、穏やかな声で口にする。十条九への助け船と、この場の収拾を試みての発言だろう。
「だから、十条くんに話があるなら、後にしてあげて?積もる話があるなら、ゆっくりの方がいいでしょ?」
「おー、正論だね。ご忠告どうもありがとう」
彼女は渡瀬に向かって意味深な笑みを浮かべると、十条九へと視線を戻す。
「けど、私の言う事は変わらないかなぁ。私がここに来たのは、十条くんに会うためなの。だから」
彼女は真っ直ぐに十条九の方を見つめる。ニッコリと口角を上げ、そして口にした。
「他はぜ~んぶ、い~らないっ」
その瞬間、何かが空を切る高い音が、十条九の耳朶へと響いていた。




