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「十条くん、服、大丈夫そう?」
浴室で服を着ていると、衣服を用意した当人である委員長が、ひょっこりと顔を出した。
「うん、まぁ、一応……」
「そっか、よかった。私の一番大きいTシャツなんだ、これ」
「……委員長の?」
彼は思わず聞き返した後で、しげしげとTシャツを見る。黄色いクマのキャラクターがプリントされた大きめのTシャツは、確かに中年男性が着るようなデザインではない。委員長が160cm程度の身長だったのに比べ、その父親はいくらか背が低かった事を思い返すと、十条九はそれで納得した。
「……委員長のTシャツ……」
委員長のTシャツを、自分が着ている。意識してしまうと、少しばかり妙な気分になってくる。しかし、その下に履いているのが彼女の父親の下着かと思うと、何故だか微妙に残念な気がしないでもなかった。
「あ、そうだ十条くん、髪乾かすの手伝おうか?片手だと大変でしょ?」
答えるより先に、委員長はその手にドライヤーを構える。「いや、でも……」と十条九が戸惑いの声を上げるが、しかし十条九が口答えする間もなくドライヤーの電源が入れられ、髪に温風が当てられる。
「ほら、じっとしてて」
そのまま委員長は十条九の頭部へと手を伸ばし、グイッと前を向かせると、髪を掻き撫でる。他人の手で髪に触れられるという、妙にこそばゆい、慣れない感覚に戸惑いつつも、十条九はされるがままになっていた。ふと、先ほど適当に拝借したシャンプーの香りが、鼻に漂ってくる。ちなみに、委員長が使っているシャンプーを使っていると思うと妙にドキドキした彼だったが、頭を洗い終わったところで実はそれが父親の育毛シャンプーだと気づき、少しショックを受けた。
「そういえば十条くん、お腹空いてない?何か食べたいものある?」
ドライヤーの音に負けないように、委員長は大きめの声で尋ねる。
「え、いや、えっと……」
「私、こう見えて料理得意だからね。うちは、お母さんがいないから家事は全部私の仕事なの。……よし、っと」
ドライヤーの電源を切り、それを手際よく洗面台の戸棚にしまう。その様子を、十条九はわずかに、居心地の悪そうな顔で見ていた。
「あ、ごめん……少し、無神経だったね」
十条九の視線に気づいて、彼女は申し訳なさそうに目を逸らす。それに、十条九は首を横に振った。
「別に、そこまで気にしてない。けど、委員長は平気なの?その……お母さんのこと」
「まあ、だいぶ前のことだし。さすがにもう、立ち直ってるよ。忘れないことは大事だけど、いつまでも引きずっているわけにはいかないしね」
思いの外さばさばとした口調で、彼女はそう言って微笑む。
「こういうのってさ、後に残される人の方が大変なんだよね。なんて言うか、何の前触れもなく、リレーのバトンとかタスキが自分の手に渡ってきたみたいで。覚悟も準備も出来ていないのに、『さあ、後は任せた!』っていろんなものを託されちゃったような感じ……本当、困っちゃうよね」
わざとらしく肩をすくめ、いかにも軽口を叩くような素振りで、彼女は口にする。ただ最後の一言だけが、何かを懐かしむような、古い傷に触れたような、そんな何とも言えない表情を伴っていた。
「だから私は、そういう人たちの分まで頑張って生きているのです」
茶化すような口調でそう言うと、彼女はわざとらしく「えっへん」と胸を張る。それが虚勢でも何でもないという事は、彼女の人となりを考えれば察する事が出来た。
「……そういう人たちの分、まで……?」
「うん。それくらいならせめて、自分にも出来そうじゃない?……なんて、偉そうなこと言っちゃった」
自らの言葉に、彼女は恥ずかしそうに頬を掻く。それを誤魔化すように、彼女はくるりと回れ右をして、戸口へと足を向けた。
「さーて、三人分のご飯を作るわけだから、まずは買い物に行かないと」
「……あ、あのさ、委員長……」
洗面所を後にしようとする彼女の背中に、そう呼び掛ける。すると、十条九も予想していなかった、不満げな顔が振り返った。
「そう、そういえばずっと気になってたんだけど、その『委員長』って呼び方」
十条九の鼻先をピッと指差しながら、少し頬を膨らませる。突然の事に十条九は目を見開き、思わず背筋を伸ばしてしまった。
「私の名前は紅葉。渡瀬紅葉だよ。隣の席なのに、いつまでそんな呼び方するつもり?」
「え……あ……えっと……」
十条九は、動揺のあまりひたすら視線を泳がせた。女子に「名前呼ばないで」と言われた経験には事欠かない彼だが、その逆を言われるのは初めてだったのだ。そもそもが、彼の人生において、相手の名前を呼ばなければならない程度まで会話の発展した経験が、ほぼない。故に、十条九は目を逸らす。キョロキョロと目を動かし、そわそわと落ち着かない様子で、彼は居住まいを正していた。
「じゃ、じゃあ、その……」
そして、散々迷った挙げ句、口ごもりながら言った。
「ありがとう……わ、渡瀬。俺も……頑張ってみる」
「……ぷっ、あはは!何でそんなに照れてるの?」
堪えきれずに噴き出す彼女を見て、十条九は自分の顔が熱くなっていくのを感じた。
「ふふ……じゃあ、私は買い物行ってくるね」
そう言い残し、彼女は洗面所を後にする。気のせいか、その足取りは軽く見えた。居心地の悪いような、それでもどこか不快と思えない感覚に、十条九は目を逸らしていた。
十条九は、非常に戸惑っていた。恐らく、こういう『普通の家庭』に触れる機会が、今までなかったからなのだろう。自分にこんな風に接してくれる人に、出会ったことがなかったのだ。彼は、こそばゆさに似たものを感じるとともに、生まれて初めて、誰かとの間に居心地の良さを見出していた。その居心地の良さゆえだろうか、彼はその後、引き止められるがまま、この家に一週間近く滞在してしまうことになるのだった。




