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十条九が、やはりすぐに病院を出て行きたいという旨を口にしたのは、朝陽と直面してから、たった十分後の事だった。その立ち直りの早さ──もっとも、それが尋常ならざる無理をした結果だという事も、目に見えていた──に、看護師はしばらく面喰っていたが、先ほどと同様、保護者がいなければ許可できないという旨を告げられる。怪我人を、それも保護者のいない高校生を一人で帰す事が、病院側の正しい対応ではない事は、十条九にも分かっていた。病院の周囲をマスコミが張っているのも、想像に難くない。だがそれでも、十条九はこの場に居る事に、耐えきれなかった。これ以上ここに居て、少しでも自分の何かが回復していくとは、到底思えなかった。
だが、意外なところから声は上がった。委員長の父親は、一連の出来事を、今にも泣きそうな表情の娘から聞かされて、迷う事なく、十条九を自分の家で引き取ると提案したのだ。
「こんな事が恩返しになるとも思えない。……でも、少しでも十条くんの助けになりたいんだよ。今の十条くんには……少し、休息がいると思うし」
十条九はその提案に、無言のまま頭を下げた。感謝の意が胸中を占めるが、それ以上に、ここから離れられるのであれば何処でも構わないという、どこか投げやりで卑しい感情が、彼の中に巣食っていた。とりあえずは、一度委員長の家に厄介になって、その後で適当に理由をつけて自宅へ帰れば、それでよかった。
病院側はこの申し出に対して、首を縦に振った。実際のところ、今の状況では病院側にしても、治療対象の数が減るというのは好都合ではあるのだろう。ただ条件として、病院から出て行く前にもう一度診察を受ける事と、すぐに専門機関で精密検査を受ける事を、念押しされた。
少しの間二人には待っていてもらい、十条九は話の流れのまま看護士に連れられて、診察室へと向かう。部屋の前では数人の患者がベンチに腰掛けていて、十条九もそれにならって最後尾に腰掛けた。どうやら、ここで待っている患者達が、未だ廊下に寝かされている者達に比べて重傷ではないらしい事は、その外見から分かる。だが、彼らの表情は例外なく、死んでいた。恐らくは彼らも、十条九と同じような理由で、ここで待っているのだろう。十条九はこの場所で、自分の名が呼ばれるまで、四方の廊下から聞こえる悲鳴に耐えながら待っていた。
「十条さん、診察室へどうぞ」
看護士の声に導かれ、十条九は診察室の扉をくぐる。中はそれ程広くなく、別な部屋を急遽診察室に模様替えさせただけのような、そんな印象を受ける場所だった。実際、この緊急事態に際して、本当にそういう処置を施した部屋だったのかもしれない。中にいたのは、白髪交じりの50か60歳くらいの男性一人だけだった。
「やあ、こんにちは……っと、そこに腰掛けてくれるかな?」
手元のカルテに忙しそうに何かを書き込みながら、彼はそう言った。チラッとその手元を見たが、それらは全てドイツ語で書かれていて、十条九には理解出来なかった。大人しく椅子に腰掛けると、医者は別なカルテを取り出し、十条九と見比べる。
「せわしなくてすまないね。えっと……キミは十条くんで合ってるかな?」
「はい。トオジョウヒサシ、です」
恐らく名前の読み方を尋ねられるだろうと思っていた彼は、予め告げた。すると医師は、納得したように一人で何度か頷く。
「へえ、珍しい名前だねぇ。いや、名前自体は珍しいわけじゃないけど、漢字が、かな。数字の九でヒサシ、か。名前に数が二つ入ってる。私と一緒だね。あぁ、私の名前は八神数則って言うんだけどね。で、私の父の名前にも数字が入っていたから、息子に名前付ける時には悩んだものだなぁ。結局、数字の七っていう字をつけてさ……」
一人でベラベラと喋り出した医者を見て、十条九は言葉を挟むタイミングを失っていた。すると、診察室のドアの隙間から看護士が顔を覗かせ、咳払いをする。無言の威圧に、彼は首を縮めてわざとらしく萎縮して見せた。
「あーごめんごめん、つい話が逸れたよ。……分かったからそんなに睨まないでってば」
困ったように八神医師がそう言うと、声にこそ出さなかったものの、「後がつかえてるから早くしろ」という内心を表情だけで表してから、看護士は顔を引っ込めた。それを見て、彼はため息を吐き出す。
「おお、こわいこわい。まったく、ただでさえ応援で来た余所者の医者なのに、その上看護士たちに毛嫌いされたら、疎外感がパないよね」
そんな、わざとらしく年齢にそぐわない喋り方をしながら、医者は微笑んだ。
「……ここの先生じゃないんですか?」
「うん、まあね。あんな事故の後だから、応援に来てる先生もわりと多いんだ。で、私もその一人ってわけ」
肩をすくめながら言う八神医師は小さく笑う。それを見て、表情のコロコロ変わる人だな、なんて事を、十条九は思っていた。
「でもさ、私も長いことこの仕事やってるわけだけどさ、威厳ってものがないのかな?いや、こう見えても私ね、それなりに……」
「……あの、先生?」
十条九が口を挟むと、八神医師は我に返ったように口を止めた。そして、十条九が視線を向けている方向を目で辿る。その先のドアの隙間から、先程とは別の、少し高齢のベテラン風の看護士が、睨みを利かせていた。
「……えっと、十条くん。確か、右肩の亜脱臼と右耳を怪我してるんだったね」
そう言いながら、彼はカルテで顔を隠した。それを見た看護士は、大きく咳払いをしてからドアを閉め、その場を去る。恐る恐るその様子を見た後、八神医師は安堵のため息を吐いた。
「……さて、そろそろ本当に診察を始めないとね」
彼は、自らの顔を隠していたカルテにチラリと目をやった後、まじめな顔で口にする。それから、簡単な問診や、肩周りの触診をし始めた。
「うん、ちゃんとレントゲン撮って元に戻してはあるみたいだね。カルテ通りだ。一応、痛みや腫れが引かないようなら、もう一度病院に行ってね。で、耳の方は……」
それまで肩の触診をしていた医師が、今度は右耳にライトを当てながら、その中を覗き込む。応援の医師だと言っていたが、彼は何科の専門なのだろうかと、十条九が不思議に感じていると、医師はそれを察したように笑いかけた。
「昔の医者はね、自分の専門しか診れない、なんて言えない状況も、あった訳ですよ」
「時代だよね」などと、おどけたような口調で口にする。だが、ふとした瞬間医師は口を閉ざすと、その表情を固くした。
「……十条くん、少し重い話になるんだけど、いいかい?」
耳から手を離しながら、彼は尋ねた。頷いて返すと、「そうか」とだけ答えて、医師は難しい顔をする。それだけで、何か思わしくない事態なのだということは察しがついた。
「……右耳が聞こえなくなる、とか、そういうことですか?」
「いや、聞こえなくなるわけじゃないんだけどね。この分だと、手術の必要も無いだろう。薬剤投与だけで大丈夫。ただ……間違いなく、右耳の聴力は今の半分以下になるだろう」
悩んでいるような医師の表情とは対照的に、十条九はなんでもないような顔で「そうですか」とだけ答えた。思った以上に淡泊な反応に、八神医師は少し面喰う。
「……ずいぶんと、落ち着いているんだね」
「……それは……」
十条九は少し考えた後で、「そうでもないです」と首を横に振った。
「これでも、意外とショック受けてるみたいなんですよ。……正直、未だに現状を受け入れられてもいないですし。その……あんな事のあった後ですし……それに、妹が……」
自分のことを話しているのに、まるで他人のことでも話しているかのような、そんな口ぶりだった。彼の口調に、医師は何か気付いたように、目を細める。
「別に妹のことなんかなんとも思ってなかったんですけど……『実は心の奥底では』とか、そういうやつなんですかね」
「……誰でもそうさ。人の死なんてもの、平気で受け入れられる方がどうかしている。ましてや、それが身近な人ともなると……」
八神医師はカルテに何かを書き込みながらそう答えた。ペンを置くと、悲しそうな顔を十条九に向ける。
「仕事柄、こういうことに立ち会うことも無いわけじゃなくてね。でも……慣れないものだよ」
「……でしょうね」
その後、いくらかの問診の後で、八神医師は診察を終えた。
「ありがとうございました」
「大変だとは思うけど……お大事にね」
十条九は頭を下げると、どこか生気の抜けたような、トボトボとした足取りで診察室から去って行く。さすがにそれを放っておく事は憚られたのだろう、医師は十条九の名を呼んで、彼を呼び止めた。
「つらい時は、誰かに頼ってもいいんだよ?……人は一人で生きていけるものじゃない。そう思わないかい?」
十条九は立ち止まると、ゆっくりと振り返った。その目が、何か言いたげに八神医師を見る。平静を装ってはいるが、深い湖のような、底の見えない暗さを伴った目だった。十条九は何かを言おうとして口を開きかけたが、諦めたように口を噤む。「お世話になりました」と無表情で告げて、診察室から出て行った。
「……一人じゃなければ、生きていけるってわけでもないでしょう」
十条九が去り際に呟いた言葉は、ドアを閉める音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
出て行った十条九と入れ替わるように、看護士が顔を覗かせる。その手には、すでに次の患者のカルテが握られていた。
「次の方をお呼びしてもよろしいですか?」
「あ、ごめん。その前にちょっとだけ電話かけても構わないかな?」
露骨に怪訝そうな顔をする看護士に向かって、「緊急だからさ、ね?」と両手を合わせて嘆願すると、看護士はしぶしぶと出て行った。
「……私の威厳ってどうなってるんだろう」
ぶつぶつと言いながらカルテの山をかき分け、彼はその中から固定電話の受話器を取り出す。手早く数桁の番号を入力すると、受話器を耳元に当てた。
「……もしもし、私だよ。……うん、『例の子』のお兄ちゃんを見つけた。大丈夫、何かに感付いている感じは無かったし。……ああ、当然のことだけど、ショックでそれどころじゃなかったみたいだね」
彼は先ほどのカルテを見ながら、体を椅子の背もたれに預けた。
「感情を表に出さないようにしているみたいだったけどね。その分内側に溜め込むタイプの子なんだろう。経歴を見るにしても……親の離婚だとか両親の他界だとか、その辺が原因で、誰かに何かを打ち明けるという方法が、分からないままなんだろうね。……アレキシサイミア?自分の感情を自覚しにくい、というあれかい?いや、そんな難しい事じゃないよ。ただあの子は……」
八神医師はしばらく受話器を耳に当てたまま相手の話を聞いていたが、やがてため息混じりに眉をひそめた。
「分かっているよ、深入りはしてない。確かに、何とかしてやりたいっていうのが本音ではあるけどね。……ああ、こっちの世界には関わらないのが一番だ」
カルテを机の上に無造作に置くと、彼は「じゃ、そういうことで」という言葉で会話を切り、受話器を下ろした。
「……知らない方がいい事もある、とは言うけどね。知った上で乗り越えなきゃならない事もある。どっちが幸せなんだろうね」
彼は物思いにふけった顔で、診察室のドアの方を見る。すでに彼がそこにいたという痕跡はなく、廊下の方から慌しい音が聞こえてくるだけだった。




