愛の証明
「愛とは何か?」
放課後の教室はオレンジ色に染まっていた。
茜ちゃんが真面目な顔で謎々を出して来た。
「アイとは二乗するとマイナス1になる数である」
「それじゃ、つまらないじゃない」
「じゃあ、アイとは人工知能のことである」
私はノートの落書きを止めて顔を上げた。
「感性が昭和。もっとパリっとした答えが欲しい」
「パリっとした?」
茜ちゃんは立ち上がると、チョークを手にした。
白いチョークだった。
「私は真央ちゃんが好き」
突然の告白。
私の頭はショート寸前。
「は?」
「真央ちゃんは、どうなの?」
逆光で茜ちゃんの表情はよく見えない。
「それは、好きだけど」
茜ちゃんが頷いた。
黒板に振り返って何かを書き始めた。
その背中に私は言い訳を投げつけた。
「好きは好きでも、ラヴじゃなくて、友情みたいなもので」
「友情も愛情も時間が育むものでしょう?」
「そ、そうね」
「つまり、愛は時間Tの関数。だから私の愛はA(T)」
黒板に数列が書かれていく。
「真央ちゃんの愛も同様にM(T)と表現できる」
A(T), M(T)>0
「お互いに好きだがら、A(T)とM(T)は正の数」
「まあ、なんとなく理解できる」
「真央ちゃんの愛は友情」
「そうね」
「私の愛は愛。故に」
A(T)>M(T)
黒板に表現された愛の告白。
茜ちゃんは満足げな様子。
「それは、本当に愛なの!?」
私は叫ぶ。
「愛は一方的に与えるものじゃないでしょう」
A(T)=M(T)
「つまりこれが真の愛」
私は頷いた。
茜ちゃんはさらに書き加える。
A(T)<M(T)
「リーマン予想が正しいと仮定して」
「え、誰?」
「十分大きなTに対し、M(T)がA(T)を上回るTが存在する」
黒板の左半分を茜ちゃんは数式で埋めていく。
「言っていることがわかんないけど、つまり、私の愛が茜ちゃんの愛を上回る?」
「そうよ。そして重要なのは」
茜ちゃんが黒板に水平線を描いた。
それから、赤いチョークに持ち替えて、水平線に交差するように、波線を描き入れた。
「M(T)とA(T)は無限に入れ替わる」
教室はすっかり暗くなって、茜ちゃんの表情はよくわからない。
でも、想像は容易にできた。
「ごめん、ちょっと何言っているのかわからない」
「つまりね」
茜ちゃんは水平線と波線の交差する点を丸で囲んだ。
「この丸の部分はA(T)=M(T)」
「じゃあ、無限に入れ替わるということは」
「愛は無限に存在するの!」
私は茜ちゃんの勢いに気圧された。
逢魔時。
この教室の妙な雰囲気を払拭しないと。
「何、馬鹿なこと言っているの」
そうだ、灯りをつけよう。
私は出入り口に近づいて、スイッチに手を伸ばす。
その手を茜ちゃんが掴んだ。
「馬鹿なことじゃないわ」
茜ちゃんの顔が近い。
これって、本気なの。
それとも冗談なの。
その表情は暗くてわからない。
「待って、まだその時ではないのでしょう?」
「……そう」
「その『T』はいつなの」
茜ちゃんの手から力が抜けるのが分かった。
「わからない」
「え。いったい何をあなたは証明したというの!」
「愛は確かにそこにある。でも」
茜ちゃんはくるりと回転して、大袈裟に両手を振りかぶった。
「具体的なその時について、数式は何も教えてくれない」
じゃあ、それって意味があるの?
という疑問は、教室が突然明るくなって、かき消えた。
「お前たち、まだいたのか。もう下校時刻は過ぎたぞ!」
最悪だ。
数学教師の『イヤミ』が見回りなんて。
この人、早弁している生徒にチョークの粉をふりかけて、『ふりかけ』と呟いたという伝説を持っているやばい人。
「すぐ帰ります!」
私と茜ちゃんはカバンを掴んで全力で走った。
後ろで『イヤミ』が何か叫んでいたけれど、知ったことではない。
玄関まで全力で逃げて、茜ちゃんも憑き物が落ちたみたいに、普通に戻っていた。
ひとしきり笑った後で、また明日ねと別れた。
あ、黒板を消さないと。
次の日。
いつもより30分早く教室に来た。
もう数人の生徒が来ていた。
「おはよう」
予想外に、あの、茜ちゃんの方が先に来ていた。
挨拶してみたけれど、茜ちゃんは黒板に夢中で気づいていない。
「おはよう」
前に回り込んで、顔を見せるとようやく気がついた。
「ああ、おはよ」
「どうしたのよ」
その問いに茜ちゃんは無言で黒板を指差した。
「え、何これ」
昨日、茜ちゃんが書き込んだ数式はまだ残っている。
そこに黄色いチョークで別の数式が黒板一面にびっしりと描きこまれていた。
「愛が生じる時間の上界を示している」
「はあ、全くわからん。日本語でお願い」
「つまりね」
茜ちゃんは黒板に近づいて、右下に書かれた数字?をノックした。
「この時間までに、私と真央ちゃんは愛し合うのよ!」
朝練や補習で早めに教室に来ていた生徒たちが一斉にこっちをみた。
「声が大きいよ茜ちゃん」
「Tの具体的な数字はわからないけれど」
そこには
T=10
と書かれていた。
10の肩には小さな10が乗っている。
そして、その10の肩にはさらに小さな10が。
さらに、その10の肩にはさらに小さな34が乗っていた。
「第1スキューズ数」
茜ちゃんが、ポツリと呟いた。
とんでもなく巨大な数。
それは分かった。
「何桁ぐらいあるの?」
「さあ? 私たちはこの数字を表現できる単位を持ってないから」
「えー」
「少なくとも宇宙の寿命よりも長いわ」
教室の喧騒が大きくなった。
生徒の数が増えて来た。
みっちり書かれた黒板に圧倒されて、みんなが勝手に噂しあっている。
「ああ、やばい、消さないと!」
「もったいない!」
抵抗する茜ちゃんを制して、私は黒板消しを引っ掴んだ。
パラパラと降りしきるチョークの粉が朝日に反射して綺麗だった。
消しながら私はふと考える。
宇宙よりも長い時間の後に生じる、その真実の愛は本当にあるのだろうか?
その答えは、黒板消しでかき消された。




