9‐10 ……あー、最悪
■境界堂
朝。
静か。
窓から、薄い光。
湯気。
紙をめくる音。
マスターはソファ。片手で資料を読みながら、もう片方でコーヒー。
カフス。
左耳。
いつもの位置。
ファニーは机に突っ伏している。
「平和だねぇ……」
「依頼件数は回復傾向です。ただし危険度平均は上昇しています」
「嫌な回復!」
マスターは小さく笑う。
「でもまあ、前よりは普通かな」
その時。
カチ。
小さい音。
「……ん?」
ぽろ。
銀色。
机へ落ちる。
転がる。
コロン。コロン。
止まる。
沈黙。
ファニー、瞬き。
「……え?」
マスター、自分の耳を触る。
「外れた」
シエル、視線だけ落とす。
「測定完了でしょう」
静か。
マスター、机の上のカフスを摘まむ。
軽く回す。
「へぇ……」
ファニー、ゆっくり起きる。
「いや待って、外れて大丈夫なの?」
「さあ?」
軽い。
でも、少しだけ空気が違う。
マスターはカフスを指先で弄ぶ。
「……軽いねぇ」
その言葉。
ほんの少しだけ、温度が低い。
シエル、観察。
視線。
呼吸。
指先。
反応速度。
全部、見ている。
「……変化あり」
ファニー、嫌そうな顔。
「聞きたくない」
「認識負荷、減少。思考速度、上昇傾向」
「戻ってるじゃん!」
マスター、苦笑。
「そんな急には変わらないよ」
でも。
言いながら。
視線が、一瞬だけズレる。
時計。
窓。
ファニー。
シエル。
見る速度が、少しだけ速い。
ファニーがそれに気づく。
「……ねえ」
「ん?」
「付け直さないの?」
沈黙。
マスター、答えない。
ただ、指の上でカフスを回す。
コツ。
コツ。
その時。
『外れたねぇ』
声。
内側。
静かに。
『もう、好きにしていいよ。疲れるでしょ?もう、頑張らなくていいのに』
優しい声。
責めない。
急かさない。
ただ、選択を渡してくる。
マスターは目を伏せる。
「……んー」
軽く息を吐く。
「正直」
笑う。
「外してる方が、楽なんだよねぇ」
ファニーの表情が止まる。
シエルは静か。
「静かだし、速いし、全部綺麗に見える」
ぽつり。ぽつり。
「ノイズ減るんだよ」
その言い方は、人間らしさを、処理落ちみたいに言う。
ファニー、小さく眉を寄せる。
「……でもさ」
視線を向ける。
「今のマスター、ちょっと怖い」
冗談じゃない。
ちゃんと本音。
マスター、瞬き。
その言葉を、少し考える。
考えて、それから。
「そっか」
笑う。
今度は、ちゃんと間がある。
シエル、静かに口を開く。
「制御は、性能低下ではありません」
「うん」
「選択可能であるという状態です」
沈黙。
カフスを見る。
銀色。
小さい。
でも、妙に重い。
『付けるの?せっかく自由なのに』
苦笑。
「……自由って、面倒だねぇ」
それから。
カフスを耳へ当てる。
カチ。
小さい音。
その瞬間。
呼吸が、ほんの少しだけ乱れる。
思考速度。
認識。
演算。
落ちる。
でも。
「ふー………」
肩の力が抜ける。
「なんか、安心する」
「そっち!そっちの方がいい!!」
マスター、笑う。
「失礼だなぁ」
でも。
さっきより。
ちゃんと、人間っぽい。
シエルはわずかに目を細める。
「自主装着を確認」
「言い方ぁ」
その時。
ぐう。
沈黙。
「……今の誰」
マスターは即座に視線を逸らす。
「……さあ」
「お菓子備蓄量から考えて、マスターの可能性が高いかと」
「統計で殴るな!!」
空気が崩れる。
笑い声。
ため息。
いつもの騒がしさ。
その奥で。
左耳のカフスだけが、
静かに、小さく光を反射していた。
■閉鎖区画
音が吸われる場所。
依頼は救出。
でも、相手が、逃げない。
「やりにくい相手だね…」
「撤退の概念が薄い個体です」
戦闘開始。
マスター、カフス装着状態。
押し切れない。
「……ちょっと、硬いねぇ」
怪異が嗤う。
『その程度か』
一瞬。
味方が危ない。
マスターの視界に、ルートが開く。
A:守れる。でも勝てない
B:勝てる。でも“何かが変わる”
指が、カフスに触れる。
その時。
瞳の奥で、光が揺れる。
緑の中に――
ほんの一瞬、違う色が混ざった気がする。
「それ、ダメなやつ」
「優位は取れます。ですが、不可逆の可能性」
マスター、笑う。
少しだけ。
「……戻れなくてもさ。今、助けられない方が困る」
「マスター……!」
「――了解」
カチッ。
音が、消える。
世界が一段、静かになる。
瞳。
明るい緑、のはずなのに。
焦点の奥が、やけに明るい。
「――さて」
動きが変わる。
無駄ゼロ。
躊躇ゼロ。
感情ノイズ、消失。
敵の行動が、遅れる。
「速い、じゃない……。最適解の連鎖」
マスター、軽く目を細める。
その瞬間。
光が、わずかに強まる。
けど、何が変わったのかは――分からない。
「終わりにしようか」
一撃。
決着。
静寂。
「……マスター?」
振り向く。
笑っている。
でも。
どこか、ピントが合いすぎている。
「大丈夫。全部、予定通り」
「……予定?」
「うん。問題ないよ」
ふっと力が抜ける。
瞳が戻る。
緑。
ちゃんと、いつもの色。
――なのに。
ほんの一瞬だけ。
さっきの光が引ききらない。
「……あー、疲れた」
座り込む。
「戻った!?」
「……一時的安定を確認」
「あれ!?カフスは!?」
「見当たりません」
空気が、一気に張る。
「ちょっと待って待って待って!?」
「制御装置喪失は重大事態です」
「え、そんな大事?」
現場をひっくり返す。
敵の残骸まで探す。
「絶対ここで落としたって!!」
「可能性は高いですが――」
マスター、ポケットに手。
「ん?」
カフス、出てくる。
沈黙。
「……は?」
「……」
「ポケット入ってた」
「なんで!?」
「いつの間に」
「外したあと、無意識でしまったのかな」
シエル、静かに。
「……無意識で最適行動を取った、ということですね」
「やめてその言い方!!」
カフスを見る。
「……便利だねぇ」
指先で、軽く重さを確かめる。
でも。
すぐには付けない。
夕焼け。
手の中のカフス。
少しだけ迷って。
「……帰ったら付けよ」
――選べる。
……
…
最近のマスター。
速い。
正確。
無駄がない。
理由。
ちょくちょく外してる。
「ねえ最近さ、外す回数増えてない?」
「頻度、上昇しています」
「楽なんだよねぇ」
その瞬間。
瞳に、一瞬だけ反射みたいな光。
「今なんか光った!」
「気のせいでしょ?」
笑うタイミングが、半拍遅い。
会話が、正しすぎる。
「今日、会話が正しすぎて腹立つ」
「感情ノイズが削減されています」
「効率いいでしょ?」
「人間味も削れてる!!」
……
…
依頼:中危険度。
マスターは迷いなくカフスを外す。
「また!?」
「……早すぎます」
敵、瞬殺。
「終わりだねぇ」
……なのに。
戻らない。
「……マスター?」
「戻ってください」
数秒。
マスター、笑う。
でも、瞳はまだ、明るい緑。
「……ん?」
自分の手を見る。
「……あれ。戻り方、どうだっけ?」
空気が、冷える。
ファニーの表情が変わる。
「シエル」
「分かっています」
即座。
青白い構築式が展開。
幾何学模様。
空間固定。
マスターの周囲へ、薄い光のフレームが走る。
「自己座標を固定。これ以上、位相を滑らせません」
光が、マスターを縫い止める。
でも、止まるだけ。戻らない。
マスターは結界へ触れる。
指先が、青白い光を撫でる。
「……静かだねぇ」
シエルは目を細める。
「感情伝達効率、低下。外部刺激が拡散しています」
指先を動かす。
追加構築。
青白い式が、今度は球状に閉じる。
薄い膜。
音。
光。
熱。
全部を、内側へ反響させるような閉鎖空間。
「拡散を遮断。全部、あなたへ返します」
空気が変わる。
外の音が、遠い。
呼吸だけが、やけに近い。
マスターはゆっくり視線を上げる。
「……閉じ込めるんだ」
「逃がしません。あなたを戻すための檻です」
ファニー、舌打ち。
「もう、知らない!!」
床を踏み抜く勢いで、足を叩きつける。
赤い紋様。
感情増幅。
衝撃波、ではない。
流し込む。
怒り。
焦り。
不安。
泣きそうな気持ち。
ぐちゃぐちゃの感情が、シエルの結界で反響する。
逃げない。
薄まらない。
全部、マスターへ叩き込まれる。
「……うるさ」
眉が、わずかに寄る。
ファニーが叫ぶ。
「うるさくていいの!!」
感情が、ぶつかる。
合理。
最適。
静寂。
そこへ、非効率で、曖昧で、矛盾だらけの感情が叩き込まれる。
光が、揺れる。
シエル、即座に補助演算。
「感情波形を固定。自己認識座標、再接続」
青と赤。
二つの異能が噛み合う。
マスターの呼吸が、乱れる。
「っ……」
初めて。
瞳に、“迷い”が戻る。
数秒。
それから。
「……あー、最悪」
深く息を吐く。
声が、ちゃんと人間の温度へ戻っている。
ファニー、その場へ座り込む。
「戻ったぁ……」
シエル、視線は鋭いまま。
「……自己認識の復旧を確認。ですが、再発の危険があります」
マスター、苦笑。
「大丈夫、大丈夫。ちゃんとあとで着けるから」
左手の中。
カフスを、まだ指先で弄んでいる。
「あとでが危ないの!!」
シエルの視線は鋭いまま。
「そんな警戒しなくても」
「戻る意思が希薄化していました。重大事例です」
「このままでも問題ないと思ってたんだけどねぇ」
その言葉に、ファニーが即座に睨む。
「問題しかないわ!!」
マスターは肩を竦める。
でも、その仕草には、さっきまで無かった揺らぎが戻っている。
帰り道。
夕方。
人通り、少なめ。
少し先。
ガシャ。
買い物袋。
りんご。ネギ。パック。
アスファルトへ散らばる。
「あらあら……」
小柄な老女。
慌ててしゃがみ込む。
マスターは視線だけ向ける。
一瞬。
優先度:低
時間損失:小
戦略価値:無し
通り過ぎるルートが、自然に頭へ浮かぶ。
「……他でも代替可能か」
足が、止まらない。
ファニーの表情が、一瞬だけ強張る。
「マスター?」
数歩。
通り過ぎかける。
その時。
「マスターってさ」
まっすぐ。
「損でもやる人じゃん」
その言葉が、頭の奥へ引っかかる。
マスターは立ち止まる。
目を閉じる。小さく息を吐く。
「……あー、もう」
踵を返す。
しゃがむ。
散らばったりんごを拾う。
老女、困ったように笑う。
「ごめんなさいねぇ。歳を取ると、手がねぇ」
「いえいえ」
笑う。
少しぎこちない。
袋を渡す。
老女、何度も頭を下げる。
「ありがとうねぇ」
去っていく。
静か。
マスター、その背中を見る。
長く。
それから。
ポケットから、カフスを取りだす。
少しだけ、迷う。
でも。
カチ。
小さい音。
その瞬間。
「……っ」
呼吸が、乱れる。視界が、わずかに滲む。
遠くの足音、風の温度、通行人の呼吸。
さっきまで、並列で流れていた情報が、急に一列へ押し込まれる。
焦点。
反応速度。
認識処理。
全部が、人間側へ落ちていく。
シエル、静かに観察。
「……位相共存状態の長期維持による反動。認識処理の再同期が発生しています」
「つまり?」
「人間に戻るコストです」
マスター、壁へ軽く寄りかかる。
「……疲れた。なんか、Windows11から98に戻された気分」
「例えが嫌すぎる!!」
シエル、数秒考える。
「……処理能力低下の比喩としては、適切かと」
「検討してから肯定するな!!」
沈黙。
それから、マスターが苦笑する。
「コスト高いなぁ、人間」
視線を落とす。
左耳のカフスへ、指先で触れる。
「でもまあ」
小さく笑う。
「フリーズしながら考えるくらいが、ちょうどいいのかもねぇ」
その笑い方は、ちゃんと迷える人間の笑い方だった。
「提案します。連続使用制限を設けるべきです」
「回数制限!!」
「えー」
二人
「絶対!!」
マスター、肩を落とす。
でも、左耳へ触れる指先だけは、ほんの少し惜しそうだった。
「……あっちの方が、楽なんだけどねぇ」
「やめてその顔!!」
「依存傾向を確認」
マスター、苦笑。
「ま、ほどほどにね」
少し笑う。
夕焼け。
その目は、いつも通りの緑、のはずなのに。
シエルの視線だけが、一瞬、止まる。
光が、“反射”ではなく、内側から滲んだ気がした。
でも、次の瞬間には消えている。
観測不能。
断定不可。
だからこそ、嫌だった。
もし、あれが反射ではなく、内側から漏れたものだとしたら。
楽な答えは、ときどき迷う理由を静かに消していく。
マスター「でも、制御装置がカフスで良かった」
ファニー「なんで?」
マスター「ピアスだったら耳に穴空けなきゃでしょ?」 「人体ってね、穴があくようには出来てないんだよ……」
左耳を押さえる。 真顔。
「怖くない?」
シエル「口や鼻は既に開口していますが」
マスター「そういう話じゃないんだよ!!」
ファニー、シエルの耳を見る。
「でもシエル、穴空いてるもんね」
シエル「演算補助用です」
さらり。
マスター「絶対その用途じゃないでしょ、耳に開ける理由!!」
シエル「効率は向上しました」
マスター「適応済み個体だ……」
ファニー「何その言い方」
シエル、少し考える。
「痛覚は一瞬です」 「その後の管理が重要かと」
マスター「理論で殴ってくる……」
ファニー「じゃあさ」 「もし制御装置がピアス型だったら?」
沈黙。
マスター「全力で別案を提出する」
シエル「観測します」
ファニー「逃がしてくれない!!」
マスター、遠い目。
「人類はなぜ、“わざわざ穴を増やす文化”を発展させたんだろうねぇ……」
シエル「装飾欲求と自己表現です」
ファニー「あとオシャレ!」
マスター「理解はする」 「理解はするけど怖い」
シエル「では、左耳に増設しますか」
マスター「やだ!!」




