9‐10 デチューンしちゃう?
■二週間後
街の異常通報件数、減少。
行方不明、減少。
怪異被害、減少。
結果。
■境界堂
机の上。
請求書。
請求書。
請求書。
積むと、ちょっとした遺跡になる。
ファニー、震える手で一枚持つ。
「……なんで研究設備修繕費が三件あるの」
シエル、淡々。
「カノンです」
「なんで壁面補修が入ってるの」
「カノンです」
「なんで天井が抜けたの」
「高出力共鳴試験とのことです」
「カノンーーーッ!!」
一週間前。
地下研究区画。
カノン、満面の笑み。
「素晴らしいです!!観測と認識が多重化した状態でなお人格同期を維持しているなんて!!」
マスター。
「ねぇこれ危なくない?」
「もちろん危険です!」
即答。
次の瞬間。
バゴン。
壁、吹き飛ぶ。
「今なんか壊れたぁ!?」
「実験設備です」
「他人事みたいに言うな!!」
現在。
ファニーが請求書を叩く。
「反省は!?」
カノン、背筋ぴしっ。
「はい!ごめんなさい!楽しかったです!」
「最悪だよ!!」
ファニー、真顔。
「ねえ」
シエル。
「はい」
「仕事は?」
「ゼロです」
「ゼロぉ!?」
叫びが響く。
マスターはソファへ沈む。
綺麗に。無駄なく。諦めるフォームだけ完成度が高い。
シエルは淡々と続ける。
「理由は明確です」
「聞きたくないけど聞く」
「怪異側の逃避行動が広域化しています」
「うわ」
「現在、“境界堂周辺は危険”という認識が拡散中です」
ファニーが頭を抱える。
「うち環境災害扱い!?」
「結果として、事件化前に対象が移動、あるいは潜伏。市民側から見れば、“最近静か”になります」
「強すぎて仕事減ることある!?」
マスターはソファの背に頭を預けたまま。
ぽつり。
「……困ったねぇ。強すぎるのも、考えものだ」
「今さら!?」
マスターは少し笑う。
でも、視線だけはぼんやり天井を見ている。
まだ、どこかズレたまま。
ファニーの深いため息。
「強すぎて生活が死ぬんだけど。あとカノンの暴走も」
沈黙。
その直後。
ぐう、と腹の音。
四人は止まる。
マスターがゆっくり視線を逸らす。
「……誰?」
「マスター!!」
空気が、少しだけ崩れた。
マスターはソファからゆっくり起き上がる。
「……僕、デチューンしちゃう?」
「…は?」
軽い声。
でも、空気がほんの少しだけ沈む。
「……正気ですか?」
「“ちょうどいい強さ”に戻せばいいでしょ。勝てるけど、逃げられない程度に」
シエルは思考を回す。
数秒。
「……合理的です」
「嫌な合理性!!」
「あっ!そんなもったいない!!」
「うるさーい!」
「……実行するのですか」
「うん」
一拍。
「今のままだと、仕事にならないしねぇ」
目を閉じる。
深く、息を吸う。
吐く。
■内側
境界。
まだ、重なっている。
完全な一体。
でも、無理に重ねているわけじゃない。
綺麗に噛み合っていたもの。
『……外す?』
「うん」
空気が、わずかに沈む。
静か。
でも。“何かがほどける前”の、あの張り。
軽く息を吐く。
「……じゃ、いくよ」
『うん』
短い返事。
でも。
それだけで、十分すぎるほど近い。
「……戻れ」
そう思った瞬間。
身体の奥で、“拒否感”が走る。
今の方が、速い。
今の方が、静か。
今の方が、“綺麗”。
――戻したくない。
その感覚が、一番自然に浮かんだ。
マスターはほんの少しだけ眉を寄せる。
「……あー」
苦笑。
「これ、依存性あるなぁ」
『まあね』
最初にズレたのは、呼吸。
ぴたりと合っていたリズムが、
ほんのわずかに――ずれる。
マスターの胸が上下する。
その奥で、
“もう一つの呼吸”が、遅れて追いかける。
境界が、浮く。
切断じゃない。
剥離でもない。
もっと曖昧な――
“重なっていたものが、重なるのをやめる”感覚。
マスターは眉をわずかに寄せる。
少しだけ、名残惜しそうに。
「これ、戻すの……ちょっともったいないねぇ」
空白体はくすっと笑う。
『でしょ?』
軽い。
でも。その軽さが、逆に引っかかる。
ズレが、広がる。
視界の奥。
もう一つの“焦点”が、すっと後ろに下がる。
さっきまで当たり前にあった“重なり”が、
静かに、距離を取る。
目を閉じる。
「……また呼ぶよ」
ほんの少しだけ、声が柔らかい。
『呼ばなくても、いるけどね』
その瞬間。
境界が、ほどける。
音もなく。
光もなく。
ただ――
“二つだったものが、一つに戻る”のではなく、
“二つとして分かれていく”。
ふっと。
空気が軽くなる。
同時に。
どこか、少しだけ――寂しい。
マスター、目を開ける。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ。
瞳の奥にあった紫が、 遅れて消える。
「……あー」
肩を回す。
「……静かだ」
でも。
その言葉の後に、ほんのコンマ数秒だけ間がある。
内側。
“いた場所”だけは、まだ温度が残っている。
「戻ったーー!!」
ぴょんぴょん跳ねる。
音が、やけに現実的。
シエルは動かない。
ただ、見る。
じっと。
「……いえ。戻ったように見えるだけです」
「そう?」
軽く笑う。
でも、今度は、笑うまでにほんの少し考える時間がある。
「なにそれ怖いこと言うのやめて!?」
マスターは立ち上がる。
その動きは相変わらず滑らか。
でも、よく見ると、ほんのわずかに引っかかりが戻っている。
「大丈夫だって」
その軽さは、前より少しだけ人間的だった。
指先を見る。
軽く、握る。
開く。
「……うん」
小さく頷く。
「ちゃんと、戻ってる」
でも。
その言葉の奥に。
ほんの少しだけ――
戻りきっていない何かが、残っている。
窓の外、風。
カーテンが揺れる。
その時。
影だけが、一拍遅れて揺れる。
■境界堂
ガラッ。
ドアが開く。
クロードと新渡戸。
新渡戸、紙袋を机へ置く。
ドン。
「遅くなったが、達成金。あと、預かり物だ」
空気が、少しだけ変わる。
「……なにそれ」
「制御用呪具だ」
短い。
「へぇ、アクセサリー?」
紙袋を覗く。
銀色。
黒い刻印。
耳に掛けるタイプのカフス。
持ち上げる。
その瞬間。
シエルの視線が、わずかに細くなる。
「……異能制御術式。出力抑制型ですね」
「え、ヤバいやつ?」
数秒沈黙。
それから。
「……必要だと思われます」
「賛成なんだ!?」
「現状のあなたは、止まる側ではありません」
クロード、壁際。
腕を組んだまま。
「付けろ」
即答。
「待って待って待って。なんでみんな割と本気なの!?」
マスターだけが軽い。
「あはは。信用ないなぁ」
新渡戸、こめかみを押さえる。
「……お前が言うな」
短く息を吐く。
「こいつは、クロードから回ってきた案件だ。今のままは危険だってな」
沈黙。
ファニーはゆっくりクロードを見る。
「……マジで?」
「止まれなくなる前に落とす」
低い。
迷いがない。
その言葉だけで、空気が少し重くなる。
マスター。
ほんの少しだけ、目を細める。
でも。
笑う。
「へぇ。そこまで心配されてたんだ」
「制作は専門に投げた」
「専門?」
「呪具師だ。名前はトルク」
「……聞いたことがあります」
「ああ!トルクさんですか!」
「制御系では上位だな」
クロード。
「付けろ」
二回目。
圧。
「怖っ」
マスター、苦笑。
「はいはい」
軽い調子で。
左耳へ。
カチッ。
デレデレデレデレデーン!
\マスターは呪われてしまった/
沈黙。
「なんでSE鳴ったの!?」
「世界法則が演出に屈しました」
「……あれ?」
引っ張る。
動かない。
もう一回。
動かない。
「えっ!本当に外れないよ!?」
「来たぁ!!」
「最初だけ固定仕様だ。基準値測定が終わるまで外れない」
「怖っ」
さらに引く。
びくともしない。
「いや待って。普通に嫌なんだけどこれ」
「ちなみに製作者は、装着直後に外れなくて焦る反応を観察したいって言ってた」
沈黙。
「外したい」
「気持ちは分かる!!」
「技術者としては優秀なのでしょう」
「安定のトルクさんですね!」
「今は別件処理中だ。現場見れないのを残念がってた」
「余計嫌!!」
「外したらペナルティ入るし」
「だから言い方!!」
「具体的には」
「電撃」
「耳から!?」
「当然だ」
当然ではない。
マスター、こめかみを押さえる。
眉が、わずかに寄る。
「……あれ。なんか、落ち着かない」
「え?」
「ソワソワする感じ」
シエル、即座に観察。
「反応速度、低下。迷い、増加」
さっきと逆。
「……ちょっとだけ、重い」
「……興味深いですね」
「なにが!?」
「先ほどまで削ぎ落とされていたものが、戻っています」
「えー」
少しだけ笑う。
でも今度は。
ほんの少しだけ、考えてから。
「じゃあ……こっちの方が、いいかもねぇ」
沈黙。
「……うん!そっちの方が安心する!!」
誰も気づかないところで。
空白体の声が、かすかに残る。
『ちゃんと、選んでるねぇ』
マスター、カフスを指で弾く。
コツン。
外れない。
「……これ、外したらどうなるんだろうねぇ」
「考えんな!!」
「同意します」
“ノイズ”があるから、人はちゃんと自分でいられる。
■境界外縁
薄暗い路地。
壁。
水溜まり。
電線の影。
その奥。
“何か”が、じっと境界堂を見ている。
眼ではない。
顔でもない。
ただ、観測だけがある。
昨日まで。
見えなかった。
視線を向けた瞬間、ノイズ化していた。
でも。
今は違う。
境界堂。
窓際。
マスターは依頼書を読んでいる。
その動き。
ほんの少しだけ、遅い。
怪異、止まる。
『……変質確認』
ノイズ、微弱。
『観測可能領域、増加』
沈黙。
逃走反応。なし。
崩壊兆候。なし。
以前より危険度低下。
その瞬間。
路地の奥へ、ざわりと波紋が走る。
影が動く。
配管裏。
地下。
遠方。
止まっていた“何か”が、ゆっくり動き始める。
『境界堂』
『再接触可能性』
『監視段階へ移行』
ノイズ混じりの信号。
拡散。
■噂
『最近、境界堂また動いてるらしい』
『例の“観測不能”は?』
『……制御入ったらしい』
沈黙。
『なら、視界に入れても死なないか』
■一週間後
依頼人。
「ちょっと危ない案件でして…。……実は、三件断られてまして」
「なんで!?」
「攻撃が通ったり、通らなかったりするんです。術者ごとに、“見えてる色”が違うらしくて……」
「認識依存型」
「一人は、“赤しか見えない”って錯乱して。もう一人は、味方を対象と誤認しました」
「うわぁ……」
「しかも、観測が増えるほど、変質速度が上がる」
「……集団戦闘との相性が悪い」
マスター。
「任せてよ」
「戻ったね」
「ええ」
「……あの、“観測不能”って噂は」
「誇張だよぉ。半分くらい本当だけどね!」
「半分で済むならお願いします!!」
「来たぁぁぁ!!!」
「市場が再起動しました」
■現場:市場地区
人の気配が戻り始めたエリア。
完全な廃墟でも、安全地帯でもない。
――ちょうどいい危険。
いた。
人型。
だが輪郭が曖昧。
色が、ゆっくりと遷移する。
赤 → 青 → 緑 → 無色
「は?」
「視覚攪乱、もしくは位相変動」
「昨日のやつの親戚かな」
「キモ!!」
「観測依存型です」
「なるほど」
一歩、前へ。
「見方で変わるタイプか」
怪異が踏み込む。
速い。
マスターは、
遅い。
「避けて!!」
「うわっと」
紙一重。
地面が裂ける。
「回避精度、約12%低下」
「下がってる!!」
「重いねぇ、これ」
耳のカフスを軽く叩く。
怪異、変色。
透明に近づく。
「視認困難」
「見えないって!!」
マスター、止まる。
視線。
色。
輪郭。
ズレ方。
考える。
前なら、もう殴って終わっていた。
「……いや」
一歩、ズラす。
「これ、消えてるんじゃない。認識を滑らせてる」
手刀。
軽い。
だが――
当たる。
色が乱れる。
「なんで!?」
「仮説と試行。……人間的です」
怪異、激変。
空間が歪む。
マスター、踏み込む。
――わざと、遅れる。
攻撃がかすめる。
布が裂ける。
「ちょっと!!」
「前なら、避けきってたんだけどねぇ」
マスター、笑う。
少し息が上がっている。
「今の――」
少し息を吐く。
「読めた」
色が切り替わる。
その瞬間。
“隙”が生まれる。
マスター、そこに手を入れる。
押す。
それだけ。
怪異、崩壊。
色がほどけて、消える。
風。
遅れて、現実が戻る。
依頼人。
「……終わった?」
「終わったぁぁぁ!!」
■帰り道
「ねえ!弱くなってるのに、強くない!?」
「精度低下、対応力上昇」
「褒めてる?」
「事実です」
「前なら一瞬だったよね?」
「まあね」
一拍。
ちゃんと、考える。
「でもさ」
歩く。
「それだと――つまんない」
『いいねぇ。ちゃんと“不完全”を選べる』
カフスを弾く。
コツン。
外れない。
でも。
「……これくらいが、ちょうどいい」
「そうだね!」
「非常に扱いづらいです」
「ひどくない?」
笑う。
今度は、ちゃんと“会話のあと”に。
ファニー「ねぇマスター。請求書、お菓子代10万円ってなに?」
マスター「ぎく」
シエル「食品庫にギチギチに入っていました」
マスター「ほら、皆で食べれば怖くない」
ファニー「食べ切れるかー!!」
シエル「無駄遣いですね」
マスター「じゃあ非常食」
シエル「なるほど」
ファニー「納得するな!!」
マスター「バレたか」
シエル「…は?」
シエル「……本当に非常用だったのですか」
マスター「災害用」「怪異封鎖用」「徹夜作業用」「気分が沈んだ時用」「なんとなく食べたい時用」
ファニー「最後でもう非常食じゃない!!」




