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境界堂へようこそ 〜壊れかけの観測者の日常〜  作者: 白鐘
第九章 分ける必要なんてなかった
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9‐8 止まらない輪郭


■境界堂


午前。

くるくると光が踊る。

机の上はやけに賑やかだ。


色。艶。包装のきらめき。

――全部、甘い。


マスターは上機嫌で鼻歌。

指先が、無意味にリズムを刻んでいる。


「どうしたのマスター」

「機嫌が良いですね」


「じゃーん!お菓子大集合ー!」


広げられたのは甘味の群れ。

チョコレート、キャンディ、ゼリービーンズ、マシュマロ、キャラメル。

視界が砂糖で満たされる。


「うわっ甘いのばっかり」

「……あなたは甘党では無いはずですが」


マスター、ひとつ放り込む。

もぐもぐ。すぐに次。


「なんか食べたくてねぇ」


「なんかで動くな」

位相共存(エコー)による燃費悪化です」


「怖いねぇ〜」


包み紙が、軽く鳴る。

キャンディをもう一つ。

ガリゴリ。間を置かない。


「偏りがすごい」

「栄養という概念が消えています」


「美味いという概念はあるよ」


「ねえそれ、止まる予定ある?」

「ない!」


即答。

即、追加。


「その摂取、短期的には有効ですが――」

「後で絶対バグるやつ」


「大丈夫だいじょうぶ」


食べる。


「フラグを確認」

「回収早そう」


「やめて」


さらに一個。


「ねえ今の何個目?」

「数えてないねぇ」


「危険です」

「美味しいねぇ」

「会話になってない!」


減らない甘味。

減っていくのは、理性の方。


ファニー、小さく。


「……これ、なんか起きるな」


シエル、頷く。


「高確率で」



■境界堂


午後。

マスターがバグりはじめる。



●コーヒー


いつもの仕事風景。

静かすぎるくらいの静けさ。

その中心で、マスターがカップに手を伸ばす。


触れるはずなのに、ほんの数ミリ世界が遅れる。


指先が空をなぞる。

遅れて、カップに触れる。

その遅れのぶんだけ、力が余る。


ぱしゃ。


黒が机に広がる。

一瞬、間。

理解が追いつかない。


「……今、触ったよね」


自分の手を見る。

感覚はある。

位置だけがずれている。


「うわああああ!?」

「……やっちゃった」


「視覚と触覚の同期ズレです」

「やめて説明しないで、余計に怖い」


布巾へ手を伸ばす。

空振り。


「……あれ?」


もう一度。

また、空。


「もう一回やってる!!」


マスター、息を吐く。

ゆっくり。意識的に。


「……ズレてるなあ」


世界と自分のあいだに、見えない隙間があるみたいに。



●タバコ


外。

コンビニ前。

午後の光が、少しだけあたたかい。


小さな袋。

その中身を、マスターはじっと見ている。

赤い箱。


「……なんでこれ、欲しくなったんだろ」


自分でも分からない顔。

でも、指は迷わない。


一本取り出す。

ライター。火。わずかな揺れ。


吸う。


「っ、げほっ」


盛大に崩れる。


「下手になってるじゃん!!」


マスター、目を細める。

涙が少し。


「……久しぶりすぎた」


もう一度。

今度は、ゆっくり。


煙が落ちる。肺に沈む。

その瞬間。

ずれていた線が、ほんの少しだけ重なる。


「……あ」


吐く。

細く、長く。


「これだ」

「なにが!?」


「……ズレ、減った」


「神経伝達の安定化を確認」


煙がほどける。空気の中で形を失う。

マスターは少し笑う。


「昔さ」


視線は煙の先。


「こうやって、間作ってたんだよね。何も感じないようにするために」


「……え」


首を振る。


「でも今は」


もう一度、吸う。

今度はむせない。


「ちゃんと感じてる」


吐く。

ゆっくり。


「だから、ちょっと違うね」


袋を見る。

値段の表示に、少しだけ現実が戻る。


「……高くなってたけど」


苦笑。


「まあ、いいか」



●距離感バグ


境界堂。

廊下。

足音が、三つ。

でも、リズムが微妙に揃わない。


ファニーが歩く。

その横にマスター。


近い。やたらと近い。

肩と肩の余白が、ほとんどない。


「ちょ、近――」


言い切る前に、軽く寄る。

迷いがない。躊躇もない。

まるでそこが定位置みたいに。


ファニーが固まる。


「……あの?」

「ん?」


一拍。

自分の位置を認識する。


「あ」


遅れて気づく。

でも、離れる感覚の方がむしろ不安定だった。

まるで、そこに誰かがいる前提で長い時間を過ごしてきたみたいに。


ほんの少し、力が抜けて。

預けるみたいに、体重が乗る。


マスター、ぽつり。


「……落ち着く」

「は?」


「……あ」


言ったあとで、気づく。


「いや、違う。……その方が、ちゃんといる感じする」

「今の絶対本音でしょ!?」


ようやく少し離れる。


「……ごめん」


でも、半歩、また寄る。

無意識に、呼吸に合わせるみたいに。


「バグってる!!」



反対側。

シエルは静かに並ぶ。

マスター、ちらり。


一拍。

――寄る。

さっきより、ほんの少しだけ慎重に。


それでも、近い。

袖が、触れるか触れないか。

その境界に、ぴたりと収まる。


「……」


「……」


沈黙。

ほんのわずか。


さらに寄り、かすかに触れる。

シエルの指先が、ぴくっと跳ねる。


「……近いです」


声は平静。

でも、ほんの少しだけ硬い。


「……うん」


離れない。


「……なぜですか」


マスターは少し考える。

言葉を探す。


「……その方が、安定する」

「……論理が曖昧です」


でも、どかない。


むしろ、ほんのわずかに自分からも寄る。

気づかれない程度に。誤差みたいに。


「……許容範囲です」

「許容するな!!」


その瞬間。

マスターは無意識に動く。

位置を調整する。


ぴたり。

三人の距離が、奇妙なほど整う。


前でも後ろでもない。

左右でもない。ちょうど真ん中。


マスター、小さく。


「……ここ、ちょうどいい」

「だから何の話!?」


呼吸。歩幅。足音。

三人分なのに、一つのリズムみたいに揃う。


シエルはわずかに目を見開く。


「……」


胸の奥のノイズが、 少しだけ静かになる。


「……落ち着きますね」


言ってから、止まる。

自分の発言に気づく。


「ほら!!」

「……発言は撤回します」


「遅い!!」



■日常補正①:ファニー式引き戻し訓練


境界堂、廊下。

ファニー、仁王立ち。


「はい訓練!」

「戦闘?」

「日常!!」


一拍。


「普通に歩く!普通に会話する!普通に距離取る!!」


「難易度高くない?」

「高くしてんの!!」


歩く。マスターが横に並ぶ。近い。


「はいアウト!」


ぐいっ、と押しかえす。


「このくらい!」

「遠くない?」

「普通!!」


再開。

今度は妙に遠い。


「なんで両極端なの!?」

「最適距離探索中だねぇ」

「やめろその言い方!!」


止まる。

向き合う。


「いい?なんでもない距離ってのがあるの」


一歩、近づく。


「ここ」


マスターは見る。

やけに、じっと。


「……なに」

「いや」


一歩、寄る。

近い。


光。伏せ気味の睫毛。近すぎる呼吸。視界いっぱいに、整いすぎた顔が来る。


「近い!!」


でも、離れない。まっすぐ見られる。


その目だけが妙に静かで、妙に優しくて。

心臓が、一拍ズレる。


マスター、ぽつり。


「……顔、赤いよ」


「っ!!」


ばっと離れる。


「無駄に顔がいい!!あああああ!!ムカつくっ!!」


「褒められた?」

「違う!!」



■日常補正②:シエルの制御アルゴリズム


境界堂・机。


紙。式。図。

整然とした理解の痕跡。

シエルは無言で書き続ける。


マスターが覗き込む。


「なにそれ」

「制御モデルです」


さらり。


「あなたの状態を再現・制御するための」

「へえ」


数分後。

ペンが、止まる。


「……破綻しました」

「早っ」


「前提条件が固定できません」

「……あなた、毎回違う」


マスターが少しだけ笑う。


「ごめん」


そのまま自然に手が伸びる。


ぽん。


頭に触れる。

軽い。

なのに、思考だけが止まる。


シエルはゆっくり顔を上げる。


近い。視界の中心。柔らかく細められた目。無防備な口元。距離感だけ壊れたままの顔。


「頑張ってたじゃん」


優しい声。

理解より先に、心拍だけが反応する。


「……」


式が飛ぶ。

理論が抜ける。

制御不能。


「……本当に」


小さく、息を吐く。


「無駄に顔がいいですね……」


でも、ほんのわずかに耳が赤い。



■第三者:クロード


扉が開く。

クロードが入って、一歩で止まる。

視る。


沈黙。


「……なんだ。その状態は……」


絶句。


クロードの視界。

マスターは単体じゃない。


層が重なっている。ズレているのに、重なっている。安定と不安定が同時に存在している。


「やあ」


「……重なっているな。しかも、分離前提ではない」

「正確です」

「見えるの?」


「全部ではないが。…危ういのは、分かる」


マスターが軽く笑う。


「大丈夫だよ」

「そういう問題ではない」



■境界堂地下訓練室


静寂。

床のひび。

空気の重み。


クロードが腕を組む。


「……安定していないなら休め」


マスターは中央で笑う。


「えー。せっかくクロード来たのに」


少しだけ、目が細くなる。


「今の僕が、どこまで行くか試したい」


「断る」


「今の僕、たぶん普通じゃないよ?だから、確認したい」


その言い方にクロードの眉が寄る。


「……自覚はあるのか」

「あるよ」


にこ、と笑う。


「だから試したい」


空気が、少し冷える。

ファニーは小さくボヤく。


「やめた方がいい気がするんだけど」


シエルは視線を細める。


「高確率で制御不能へ移行します」


マスターは笑ったまま。


「だから、止めてよ」


その言葉で、クロードの目が変わる。

試す側じゃない。止める側として立たされる。


数秒。

クロードは低く息を吐く。


「……一度だけだ」


「あ、優しい」


「勘違いするな。危険確認だ」


クロードが構える。

低く。


「……起きろ」


赤が、走る。


「餓狼」


その瞬間。

赤の中から黒が滑り出る。


すとん、と床に降りる小さな影。

豆柴ほどの狼。黒い毛並み。その瞳の奥で、金がちらつく。


ミコト。


『……呼んだか』


一度、体を伸ばす。

クロードは視線を落とす。


ミコトと目が合う。金と琥珀。

言葉は、いらない。


マスターが笑う。


「あ、いいね。二対一だ。楽しそう」


クロードは踏み込む。

迷いなく一直線に。


同時にミコトが横へ弾ける。

低く、速く、影のように。


拳。

正面から来る。

マスターが受ける。


鈍い衝撃。

めり込む。

重い。

骨まで響く。


「っ……」


その瞬間。

ズレていた輪郭が、ほんの一瞬だけぴたりと重なる。

ここにいる感覚が、戻る。


その瞬間、死角からミコトが跳ぶ。

喉元へ、牙がガチン、とかすめる。


わずかに息を飲む。口元が、ゆっくりと歪む。


「……今の、いい」


吐息みたいに、笑う。


クロード、間髪入れず二撃、三撃。

重い、速い、逃げ場を潰す軌道。


ミコト、足元へ滑り込む。

引っ掻く、バランスを崩す。


そこへクロードの拳が刺さる。

連携攻撃。


脇腹。

鈍い音。

空気が抜ける。


マスターの身体が、半歩ぶれる。

でも、笑う。


「……それ」


息が混じる。


「好き」


ぞくりとするほど、楽しそうに。


「ちゃんとここに来る」


殴られるたび、曖昧だった輪郭が戻ってくる。


痛み。衝撃。他人の力。

その全部が、自分がここにいると教えてくる。


クロードの眉が、わずかに寄る。

効いている、だが、止まらない。


むしろ、被弾するたび、マスターの輪郭だけが鮮明になっていく。


視線が動く。

クロード。

ミコト。

交互。


嬉しそうに、目を細める。


「ちゃんと、引き戻してくるじゃん」


マスターが動く。消える。クロードの側面へ。


蹴り。


腕で受ける。重い。

その瞬間、ミコトが逆側から噛みつく。逃げ場を消す。


「……そこだ」


声ではない。

呼吸。


即応。爪。軌道が重なる。


「あははは!いいねいいね!」


軽い。楽しそうですらある。

なのに、一歩ごとに精度だけが上がっていく。


クロードの拳。

ミコトの爪。

牙。

衝撃。


その全部が、ズレていたマスターを現実へ引き戻していく。


マスターの動きが増える。


一つじゃない。取れる軌道が、同時に存在する。

複数の未来。全部が正解。


クロードの視界。

それを読む。でも、追いつかない。


ミコトが低く唸る。


『……面倒だな』


地を蹴る。動きが変わる。直線ではなく円を描くように、マスターの動線を削る。逃げ場を狭める。

ミコトの作った隙間へ、クロードが踏み込む。



拳。

一直線。

ヒット。

頬が切れる。


赤。遅れて、一滴落ちる。


マスターは少しだけ後ろへ。


「おっと」


指で血を触る。目が、細くなる。


「ああ」


呼吸がさらに深くなる。


「いいねぇ」


倒れない。

むしろ、輪郭だけが異様なほど鮮明になっていく。


「来るか…」


クロードは構える。


ミコトが先に地を蹴る。 低く、一直線。

視線がクロードと合う。ここだ。


マスターの踏み込みが深すぎる。

床が、わずかに軋む。空間が歪む。


クロードの視界。

“重なりが増えた”。

一つじゃない。二つじゃない。

同時に存在している。


「……まずい」


マスターの動きが変わる。

速い、じゃない。迷いがゼロ。


次の一手が、完全に決まっている。


クロードは理解する。


「止まらない」



マスターの拳。

無駄のない軌道。

最短距離。

狙いは――首。


受ける。

だが、遅い。


「っ――」


ミコト、床を裂くように駆ける。

牙。腕へ。


ぐっ。

――浅い。


噛んだはずなのに、力が、うまく沈まない。

筋肉の感触が、一瞬だけズレる。


『……っ』


ミコトの目が細くなる。

そのまま、さらに深く噛み込む。

今度は入る。

肉が裂ける。

赤。

同時に、全力で引く。


拳が、わずかに逸れる。

――逸れない。


「……っ!」

『まだ足りんか!』


ミコト、さらに噛み込む。

肉が裂ける。

血。


それでも止まらない。


「だめっ!!」

「止まって下さい!!」


声。


コンマ一秒。

視線が揺れる。

その隙間へ、ミコトが削る。


軌道。

数ミリ。

ズレる。


拳が、首の直前で止まる。


風だけが抜ける。

クロードの髪が揺れる。

ミコトの牙は、まだ腕に食い込んだまま。


沈黙。


三点で止まる。

拳、首、牙。


クロードはゆっくり息を吐く。


「……今のは」


低く。


「殺していた」


マスター、瞬き。


「……あれ」


拳を見る。

震えている。

腕には、噛み跡。

血が、にじむ。


ミコト、離れる。

すとん、と床へ。


『……止めたのは我だけではないな』


金の目が細くなる。

クロードを見る。


『だが、削りは入れた』


クロード、短く。


「ああ。十分だ」


マスターは他人事のように笑う。


「……止まったね」


自分で止めた感覚は、薄い。


「三方向から来たな」


ファニーとシエルを見る。


「外から、声が飛んできて」


視線をミコトへ。


「横から、軌道を削られて」


胸に手を当てる。


「……中で、躊躇った」


ファニー、駆け寄る。


「バカ!!」


シエルも来る。


「制御限界を超えています」


クロードがまっすぐ見る。


「お前は今、加速する側だ。止まる側じゃない」


視線を、わずかにミコトへ。


「……だが、削るものはある」


「ブレーキは外部依存。ただし、干渉点が増えています」


マスターは少し考える。

それから。

あっさり。


「じゃあ」


三人を見る。


「ちゃんと止めてよ」


ミコトを見る。


「噛むのも、ありで」

「軽い!!」

「次は、止まらないかもしれんぞ」

『次は、もっと深く噛む』


マスターは笑う。


「その時は」


ほんの少しだけ、目が細くなる。


「よろしく」


「……やってやる」

「監視と介入を強化します」

「必要なら殴る」

『噛む』


「物騒だなあ」


でも、その笑顔は――


ほんの少しだけ。“楽しそうすぎる”。

まだ、さっきの続きをやりたがっている。


そこでぽたり、と赤が落ちる。


床。

噛み跡。

裂けた腕。

そこでようやく、マスターの視線が止まる。


「……ねえ」


少し遅れて。


「これ、どうしよう」


一拍。


顔色が、すっと抜ける。


「ちょっ――血出てるって!!」


踏み出す。

でも、手が止まる。

触れていいのか、分からない。


「止血!?どうやる!?」


シエル、即座に振り返る。


「圧迫止血を――」


その途中、マスターの身体がわずかに揺れた。


「……ちょっと、クラッとする」


『強く噛んだからな』


悪びれない声。


次の瞬間。

ビリッ。

布が裂ける音。


クロード。

無言。


シャツを脱ぐ。

迷いなく、引き裂く。

一枚、二枚。粗くでも的確に。


マスターの腕へ。

ぐるり。さらに、もう一周。締める。


「っ、ちょ、強――」


「黙れ」


手は止まらずに、ぐっと押し込む。

血の流れを物理で止める。


布の奥で、脈が跳ねる。

もう一度、締める。にじみが止まる。


ファニー、呆然。


「手際よ……」


シエル、すぐ横で観察。


「圧迫止血、適切です」


クロードは結び目を固く作る。

引く。確認。


「……これで持つ」


マスターがゆっくり息を吐く。

呼吸が戻る。

色も、少し。


「……助かった」


クロードは立ち上がる。上半身、シャツなし。気にしない。


「次は噛ませるな」


ミコトが尻尾を一度だけ振る。


『無理だな』

「即答するな!!」


マスターは腕を見る。

巻かれた布。じわりと滲む赤。それを、少しだけ他人事みたいに見て。


ぽつり。 


「……思ったより現実だね」


「現実です」


間を置かない。

ファニー、ぐっと拳を握る。


「だから言ったでしょ!!バグるって!!」


少しだけ笑う。


「うん、バグった」


軽すぎる。


『次はもう少し浅くする』


クロード、即答。


「深く噛め」


「どっち!?」


「目的は止めることです。深さは手段に過ぎません」


全員がマスターを見る。視線が集まる。

マスターは肩をすくめ、


「……じゃあ、ほどほどで」


「ほどほどの噛みって何!?」


少しだけ空気が戻る。笑いの形をして。


でも、軽くはない。

誰も、さっきの寸前を忘れていない。


ぽたり。

遅れて、一滴。

布の端から、赤が落ちる。

床に広がる、ほんの小さな円。


マスターはそれを見る。

目が、わずかに細くなる。


「……まだ、残ってるな」


誰にともなく。


『ああ。消えてはいない』

「当然だ」

「継続観測対象です」

「……終わってないじゃん」

 


マスターはまだ続きを考えている顔で。

ほんの少しだけ、止まり損ねた熱を残したまま、

笑った。



ファニー「マスター、タバコ何吸ってたの?」

マスター「赤ラーク」

ファニー「なんか名前からして強そう」

シエル「匂いも重かったですね」


マスター、少し考える。


「軽いやつより、“吸ってる感覚”が分かりやすいんだよね」

ファニー「感覚?」

マスター「煙がちゃんと落ちてくる感じ」

「ぼーっとしてても、“あ、今ここだ”ってなる」

ファニー「急に説明が危ない!」

シエル「刺激による認識補強ですか」

マスター「たぶん、そんな感じ」

ファニー「たぶんで人体語らないで!?」


マスター、苦笑。


「でも久々すぎて、最初めちゃくちゃむせた」

ファニー「そこだけ安心した!!」

シエル「完全適応していたら止める予定でした」

マスター「怖いなあ」

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