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境界堂へようこそ 〜壊れかけの観測者の日常〜  作者: 白鐘
第八章 勝った代償は、僕だった
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83/99

番外編「運転免許」


■境界堂


昼下がり。

窓から差し込む光が、

机の端をやわらかく照らしている。

外は穏やかで、風もほとんどない。


その静けさを破るように。

一通のハガキが、テーブルに置かれた。

更新通知。


マスター、ひらりと持ち上げる。


「ふふん、僕はマニュアルのゴールド免許だよ」


どこか誇らしげな声。

ファニー、即座に乗る。


「じゃあ今度運転してよ!」

「17年乗ってないけどね」


空気が、わずかに冷える。

シエル、迷いなく。


「それはペーパードライバーというものですね」

「…むしろ、免許を取ってから車に乗っていないのでは?」


「車、持ってないからねぇ」


腕を組んでじっと見る。


「紙のくせにゴールドって何」


肩をすくめる。


「経歴は輝いているよ」

「実績は空白です」


ファニー、少し前に身を乗り出す。


「クラッチって覚えてる?」

「……左足で踏むやつ」

「情報が浅い」


「じゃあギアは?」

「……雰囲気で」

「事故の気配を検知」


マスター、軽く咳払い。


「いやいや、身体が覚えてるからね」

「17年放置した身体信用できる?」

「長期未使用データです」


少しだけ顎に手を当てる。


「じゃあシミュレーションから始めよう」


「どこで?」

「頭の中で」

「現実に反映されません」


ファニー、間髪入れず。


「じゃあ実車いこう」

「いきなり実戦は危ないねぇ」

「今の発言は正しいです」


わずかに姿勢を整える。


「まずは教習所に通う」

「初心に帰るやつだ」

「合理的です」


外を通る自転車の音が、かすかに聞こえる。

マスター、ハガキを見つめたまま。


「……でも僕、ゴールドなんだよね」


「関係ない!!」

「免許の色は運転技術を保証しません」


少しだけ口元を緩める。


「つまりこれは――」

「“動かないことで守り続けたゴールド”」


「ただの放置!!」

「保存状態が良いだけです」


ハガキを机に戻す。


「じゃあ更新行くかねぇ」

「講習ちゃんと聞いてきてよ?」

「特に“実技の重要性”について」


ドアの方へ歩きながら。


「……運転は、また今度で」


「逃げた!!」

「予測通りです」


ドアが開く。

外の光が差し込む。

そのまま、何事もなかったかのように日常が続く。


ただひとつ。

“運転”だけが、先送りのままだった。



……



教習後。


「よし、完ぺき」

「レンタカー借りて、ピクニックに行こう」


やたらと自信に満ちあふれた笑顔。

とても不安になる二人。


レンタカー。


「えーっと、ブレーキとクラッチ踏んで、よし!エンジンかかった!」


「そこで安心してるの!?」

「不安しかありません」


「で、ギアをローに入れてアクセルを…」



\ブスンっ/



「……エンストしたねぇ」

「怖い怖いこわいぃぃぃ!!」

「今すぐマニュアル車にしましょう」


車、チェンジ。

発進。


ノロノロ。

ぐら、ぐら。

白線、踏む。戻る。踏む。


「……あれ、まっすぐってどうやるんだっけ」

「根本から崩れてる!!」


「空間認識に異常は見られません」

「操作精度の問題です」


さらに揺れる。


「うぇ……」

「運転してる本人が酔ってる!!」

「極めて非効率です」


ファニー、前方を指差す。


「ほら!あそこのマック入って!!」

「休憩を提案します」


視界の先。

マクドナルド。

そしてそのすぐ隣――レンタカー屋。

徒歩数十秒の距離。


「ていうかめっちゃ近いんだけど!?」

「ほぼ出発地点です」


「…そんなことないよ」


駐車。

やや斜め。

だいぶ斜め。


「……入った」

「“入った”の定義を確認したいです」

「斜めすぎるでしょ!!」


店内。

マスター、コーヒーを一口。


「……運転って難しいねぇ…」

「今さら!?」

「教習前に得るべき認識です」


一拍。


「でもまあ、進めたし」

「数メートルね!!」

「誤差の範囲です」


マスター、カップを置く。


「……帰りはどうしようか」


「「電車」」


「……車、どうする?」


「知らないよ!!」

「それも含めて“計画”です」


そのとき。

ガラス越しに、見覚えのある制服。

レンタカー屋のおにーさん。

こちらを見ている。


「……見られてる」

「目撃されています」


数秒後。

ドアが開く。


「すみません、大丈夫ですか?」


三人、同時に振り向く。


「大丈夫じゃないです」

「運転不能です」


おにーさん、外の車を見る。

斜め。


「……あー……」

「よかったら、戻しますよ」


「お願いします!!」

「即決です」

「助かるねぇ」


外。

おにーさん、運転席へ。

エンジン。

静かに始動。


すっ――と発進。

まっすぐ。


「……同じ車だよね?」

「挙動が別物です」


「やっぱり慣れだねぇ」

「慣れ以前!!」


おにーさん、バックミラー越しに。


「ペーパーですか?」

「17年ほど」


間。


「……あー……」


「納得の間です」

「その“あー”やめて!!」


車、店前に到着。

エンジン停止。


「今日はこのまま返却で大丈夫ですよ」


「ピクニックどこいったの」

「概念として消失しました」


マスター、少しだけ笑う。


「……歩いて行くかねぇ」

「最初からそうして!!」

「最適解です」


外。

マクドナルドとレンタカー屋。

ほぼ隣。


そして――

さっきの車。

今度は、ちゃんとまっすぐ。


マスターの運転だけが、

まだ少しだけ、斜めのままだった。




■境界堂


帰宅後。


夕方。

畳に伸びる影。

どこか疲れた空気。

ファニー、ぐったり。


「……生きて帰れたね」


シエル、静かに頷く。


「奇跡的です」


マスター、湯のみを持ちながら。


「そんな大げさな」

「斜め駐車の時点で大げさだからね!?」


ふと。

ファニーが顔を上げる。


「そうだ」


にやり。


「もっと安全な方法あるじゃん」


マスター、嫌な予感。


「……なにかなぁ」


ぴっと指を立てる。


「空白体なら完璧に運転できる説!」


沈黙。

シエル、少し考える。


「……処理速度、反応精度ともに適性は高いはずです」


マスター、視線を逸らす。


「いやぁ、それはどうかなぁ」


身を乗り出す。


「呼ぼう!」

「軽いねぇ!?」


――その瞬間。

“奥”で、 何かが引っかかった。

カチ。

小さな音。


でも、空気の継ぎ目が、

ほんの少しだけズレる。

マスターの笑みが止まる。

瞬きが、一度だけ遅れる。


それから。


『……呼ばなくていい』


声。

同じはずなのに、温度が違う。

喉の奥で、別の誰かが発音しているみたいな響き。


ぴたりと止まる。


「……あ、出た」


マスターの視線が、ゆっくり持ち上がる。


けれど、その目の合わせ方が違う。

“見る”というより、“位置を合わせる”ような視線。


シエル、静かに観察する。


「……完全交代ではありませんね」


ファニー、瞬き。


「え?」

「マスターの発声に、別の発声パターンが重なっています」


「身体主導権はマスター側」

「空白体は“声”と“認識”だけを重ねている状態です」


マスターの指先が、

机を一度だけ、とん、と叩く。

考える癖じゃない。

何かを確かめるような動き。


『ねえ運転できるでしょ?』


数秒。

返事がない。

代わりに、マスターの喉が小さく動く。

飲み込むような動き。


それから。


『……できないよ』


平坦。

静か。

感情の抑揚が、薄い膜みたいに遠い。


でも。

最後の“よ”だけ、ほんの少しマスターの柔らかさが混ざる。


シエル、目を細める。


「発話干渉を確認」

「二人とも喋っています」


ファニー、 ぞわっと肩を震わせる。


「それ怖い言い方しないで」


『……やったことはある』


「あるんじゃん!」


ファニー、少し安心したように笑う。


その瞬間。

マスターの肩が、ほんのわずかに強張る。

でも、口だけが続ける。


『……禁止されてる』


「誰に?」


間。

沈黙。

長い。


そのあいだ、

マスターの指先だけが、微かに震える。

まるで、

内側の誰かが、その答えを嫌がっているみたいに。


それでも。

口は止まらない。


『……未来の君たちに』


空気が、止まる。

ファニーの笑顔が消える。

シエル、静かに問い返す。


「……詳細を」


マスターの喉が、小さく上下する。

飲み込む動き。

けれど次に出た声は、やっぱり空白体のものだった。


『普通に運転したよ』


空白体、珍しく黙る。

言葉を選ぶみたいに、視線が少し落ちる。

それから。


『“絶対に乗るな”って』

『“例外なし”って』


沈黙。

ファニー、眉をひそめる。


「そんなレベルだったの?」


空白体、マスターの身体のまま、小さく頷く。


『普通にやったよ』


『信号、守った』

『車線、守った』

『速度も、守った』


「……法規遵守を確認」

「じゃあなんで禁止!?」


空白体、少しだけ目を細める。

その表情だけ、妙に幼い。


『……まっすぐ走れなかった』


沈黙。

畳の上に、嫌な静けさが落ちる。

マスターの口元だけが、かすかに動く。


『致命的だねぇ』


空白体、こくり。


『発進で止まる』

『曲がるときに膨らむ』

『ブレーキが遅れる』


「全部ダメじゃん!!」

「操作精度、壊滅的です」


『うん』


あっさり。

認識だけは正確。

そして。

ほんの少しだけ、視線が遠くなる。


『……でも』


間。


『着いたよ』


空気が、わずかに止まる。

マスターの喉が、くつ、と鳴る。

笑いをこらえている。


『……どうやって?』


空白体、ゆっくり首を傾ける。


『ずっとズレてたから』


静かな声。


『最後に、合わせた』


シエル、即座に反応。


「意味が不明です。詳細を」


その瞬間。

マスターの指が、小さく鳴る。


カチ。

癖じゃない。

“定義変更”の合図。


空白体、平坦に。


『定義』

『“この車は目的地に到達している”』


沈黙。

ファニー、真顔。


「やめて」


シエル、額を押さえる。


「……過程の消去を確認」


マスターの肩が、微かに震える。

笑っている。

でも、喋っているのは空白体。


『それはねぇ、“運転した”って言わないんだよねぇ』


空白体、即答。


『でも着いた』

『結果は同じ』


「同じじゃない!!」


半分悲鳴。


「それ途中どうなってたの!?」


空白体、少し考える。

本当に、少しだけ。


『普通に怖かったよ』


『止まりかけるし』

『ふらつくし』

『クラクションいっぱい鳴った』


「地獄じゃん!!」

「周囲への影響、大です」


『でも最後に』


また、指が鳴る。

カチ。


『“到達してる”にした』


マスター、ついに吹き出しかける。

喉の奥だけで笑う。


『いやぁ、それはねぇ』

『免許の試験官が聞いたら泣くやつだねぇ』


「ていうか運転じゃない!!」

「ワープです」


『違うよ』


即答。

今度だけ、少し強い。


『ちゃんと運転した』

『最後だけ補正』


「補正の規模がおかしい!!」


マスター、のんびりした声だけ差し込む。


『でもまあ、着いたんでしょ?』

『うん』

『じゃあ遠足としては成功だねぇ』


「成功じゃない!!」

「過程評価が壊れています」



畳の空気が、一気に緩む。

空白体も、小さく頷く。


少しだけ視線を落とす。

それから、ぽつり。


『……楽だったよ』

「そりゃそうでしょ!!」

「再現性ゼロです」


ファニーのツッコミが畳に跳ねる。

けれど。

その瞬間だけ。

マスターの指先が、ぴくりと動いた。


ほんのわずか。

まるで内側で、誰かが小さく引っかかったみたいに。

空白体の視線も、その動きを追う。

短い沈黙。


それを流すように、マスターが肩をすくめる。


『じゃあ結論としては』


のんびりした声。


『運転は、やめようかねぇ』


「「最初からそうして(下さい)!!」」


即答。

畳の空気が、一気に緩む。

空白体も、小さく頷いた。


『うん、合理的』

「お前が言うな!!」


ようやく笑いが戻る。


さっきまでの妙な緊張が、

畳の上をころころ転がって、湯気みたいに薄れていく。

“運転”という概念だけが、静かに封印される。

……はずだった。


「……でもさ」


ファニーが、ふと眉を寄せる。


「全然安心できてないんだけど」


シエルも静かに頷く。


「当然です」


指を折る。


「再現性なし」

「安全性なし」

「検証不能」


「……全面禁止が妥当です」


その言葉に。

空白体の目が、ほんの少しだけ伏せられる。

同時に。

マスターの口元から、笑みが薄く消えた。


空気が、少しだけ冷える。

ファニー、反射的に黙る。

 

空白体は、しばらく何も言わない。

まるで、どこか遠いものを見ているみたいに。


それから。


『そのときの君たち』


静かな声。

間。

短いはずなのに、妙に長く感じる沈黙。


『すごく、怖い顔してた』


ファニーの表情が止まる。

シエルも、わずかに視線を伏せた。

さっきまでの笑いが、静かに引いていく。


空白体は、責めるでもなく続ける。


『だから』

『二度とやるな、って』


小さく頷く。


『うん、正しい』


畳の部屋が、急に静かになる。

誰も、すぐには返事をしない。

未来の話なのに。


その“怖い顔”だけが、妙に想像できてしまう。


だから。

その空気を壊すみたいに。

マスターが、わざと軽い調子で肩をすくめた。


『じゃあ僕がやるしかないねぇ』

「やめて!!」

「却下です」


即答。

食い気味。

空白体、ぼそっと呟く。


『……そっちの方がまだ、過程がある』

「怖さの種類が違うだけ!!」


ファニー、頭を抱える。


「なんでこの家、“まともに危ない人”しかいないの!?」


シエル、静かに訂正。


「一名は“まとも”ですらありません」


『『失礼だねぇ』』


その返事だけ、少しだけ同時に重なる。

マスターの軽い声と、空白体の平坦な声。

同じ口。同じ呼吸。

なのに、微妙に発音のタイミングがズレる。


ファニー、ぴたりと固まる。


「……今、二人いた?」


空白体、瞬き。


『いたよ』


マスター、苦笑混じりに。


『混線したねぇ』


「怖っ!!」

「運転以前の問題です」


笑い声。


けれど。

さっきまで畳に落ちていた、“未来の空気”はまだ少しだけ残っている。

誰も、完全には笑い切れていない。


沈黙。


湯のみの触れ合う、小さな音。

遠くで鳴る、車の走行音。


そして―― 今までただの“背景音”だったテレビだけが、 やけに明るく聞こえた。


♪ テレレレッ テレレレッ


居間の隅。

つけっぱなしのテレビ。


平成懐メロ特集。

画面の端には、派手なテロップ。


“懐かしのヒットソングメドレー!”


ようやく空気がほどける。

ファニー、深くため息。


「……もう運転の話やめよ」


シエルも頷く。


「封印案件です」


マスター、湯のみを揺らしながら。


『まあまあ』

『結果として誰も死んでないしねぇ』

「基準が怖い!」


テレビの中。

色鮮やかな照明。

軽快なビート。


♪ 恋はスリル、ショック、サスペンス〜

『トップバッターは、愛内里菜さんです!』


その瞬間。

ふと。

マスターの目が、すっと細くなる。


『……あ』


にへら。

嫌な笑み。

ファニー、即警戒。


「その顔やめて」


マスター、テレビを見たまま。


『良いこと思いついた』

『じゃあ流れ変えるか』


空白体、即座に反応する。


『何を――』


途中で止まる。

ぴたり。

マスターの顔から、表情だけが消えた。


無。

完全な無表情。

感情の揺れが、一滴もない。


さっきまで笑っていたはずなのに、

顔面だけ空白体に切り替わっている。


シエル、即座に分析。


「表情制御層への干渉を確認」

「主導権はマスター側です」


『……何をした』


声だけが低い。

でも。

身体は、マスターのまま。


すっ。

何事もない動きで立ち上がる。

一歩。 二歩。

テレビのリズムに合わせるように。


そして。

急に。

キレッキレのパラパラを踊り始めた。


「怖っ!!」


ファニー、反射で叫ぶ。


無表情。

完全停止した顔。

なのに身体だけ、異様に滑らか。


シャッ。 タンッ。 スッ。


腕。肩。足運び。

妙に完成度が高い。


テレビでは、サビが流れている。

♪ 恋はスリル、ショック、サスペンス〜


『やめろ』


顔だけの空白体が言う。

でも止まらない。


『……戻れない』


空白体、 珍しく困惑している。


『ロックされてる』

「何その能力!?」


マスター、身体だけで笑っている気配。

でも顔は無。

完全虚無。


『ふふっ、どうかなぁ』


口だけ動く。

表情ゼロで。


「怖い怖い怖い!!」


空白体、内側で抵抗する。

顔の輪郭が、ほんの少しだけぶれる。

でも戻れない。


『なんで無駄に固定が強いんだ……』


『いやぁ』

『せっかくだからねぇ』


ターン。

無表情。

キレッキレ。


『せっかくの顔芸素材を』

『顔芸じゃない』

『無です』


「余計怖い!!」


シエル、冷静。


「身体主導権を保持したまま」

「表情制御層のみ固定しています」

「…最低の使い方です」


さらに曲が盛り上がる。


♪ ダンダンダンダン〜

マスターの動きも、無駄に乗ってくる。

ファニー、ついに腹を抱える。


「なんでそんな踊れんの!?」

『身体が覚えてるからねぇ』


一拍。


『運転を覚えていてほしかった』


沈黙。

その瞬間だけ、パラパラが止まる。

マスター、ちょっと気まずそう。


『……それはそう』


空白体、即座に追撃。


『道路で踊る気だったの?』

「やめてもう!!」


パラパラ。

無表情。

キレだけ異常。

境界堂の空気が、完全におかしくなっている。


そのとき。

ぴたり。

動きが止まる。

空白体が、内側で何かを掴む。


『……ああ』

『ここか』


マスターの身体が、微かに揺れる。

空気が、反転する。

カチ。

今度は、“奥”から鍵を掛け直す音。


次の瞬間。

マスターの顔に、ぽかんとした表情が戻る。

完全に、いつものマスター。

きょとん。


「……ん?」


でも。

身体だけが違う。

背筋。

重心。

歩幅。


音もなく、すっと方向転換。

真っ直ぐキッチンへ向かう。

ファニー、 笑顔が消える。


「待って」

「これ逆!?」


シエル、即断。


「主導権反転を確認」

「今度は身体側です」


マスター本人、完全に置いていかれている。


「いやいやいや」

「ちょっと待ってねぇ!?」


そのとき。

テレビの曲が切り替わる。


♪ 飲もう〜 今日はとことん〜

画面には、笑顔で歌う森高千里。


“気分爽快”。


空白体の動きが、一瞬だけ止まる。


『……あ』


ファニー、青ざめる。


「その“あ”やめて」


でも遅い。

冷蔵庫。

開く。

迷いなく、一番奥へ手が伸びる。


黒い缶。金文字。限定醸造。

クロードのとっておき。


ファニー、悲鳴。


「あっ、それダメなやつ!!」

「クロードが“今日は飲む”って言ってたやつ!!」


空白体、缶を見つめたまま。


テレビから流れる。

♪ 気分爽快〜


そして。


『……これか』


空白体、 淡々と確認。


「確認してる場合じゃ――」


プシュ。

開いた。


「あーーーーーーっ!!」


そのまま。


ぐい。

ぐい。

ぐい。

一気。


喉が鳴る。

飲み慣れてない身体なのに、妙にスムーズ。


空になる。

缶、静かに置かれる。

そして。

マスターの口が開く。


『……苦いねぇ』


平坦。

感情ゼロ。

空白体。


でも次の瞬間。

すっ。

気配が奥へ引く。

急に。

身体から力が抜ける。


「……っ」


ふら。

マスター、その場で壁に手をつく。

顔、真っ赤。

まだ完全には酔ってない。


でも。

“一線”を越える直前。


「……仕返しって」


肩が震える。


「あは」


笑いが漏れる。


「あっ、これダメ」


ファニー、察する。

遅い。


「あはは……っ」


堪えようとする。

無理。


「あっはははははは!!」


完全に入った。

笑い上戸。

冷蔵庫前に座り込む。


「っ、ふふ……」

「おもしろ……」

「急に身体取られるの……っ、あははは!!」


「面白くない!!」


シエル、 即座にコップに水を入れる。


「水分補給を開始」

「酔いの進行が早すぎます」


マスター、もう止まらない。


「いやぁ……」

「空白体、性格わる……っ、ふふっ」


奥から、しれっと声。


『仕返しだから』

「反省してない!!」


そのとき。

ファニーの視線が、空になった缶へ向く。

沈黙。


「……終わった」

「?」


マスター、へらへらしてる。

ファニー、震える指で缶を指す。


「それ」

「クロードの限定ビール」


間。

マスター、笑顔のまま停止。


「……へ?」


シエル、静かに補足。


「入手困難品です」

「三週間前、三店舗回っていました」


沈黙。

マスター、酔った脳で頑張って考える。


「……買えば」

「もう売ってません」


「っ、ふふ……」

「タイミング最悪だねぇ……」


その瞬間。

ガチャ。

玄関。


全員、固まる。

低い声。


「……帰ったぞ」


空気、死。


ファニー、頭を抱える。


「最悪のタイミング!!」


シエル、 淡々と。


「因果律が仕事をしています」


マスター、笑いを堪えきれない。

肩が震える。


「っ、だめ……」

「怒られる未来しか見えな……っ、あははは!!」


『……成功』


奥から、満足げな声。


玄関。

足音。

一定。

重い。

逃げ場のないテンポ。


境界堂の空気が、じわじわ冷えていく。


ファニー、小声。


「どうする?」

「誰が説明する?」


シエル、即答。


「原因者です」


視線。

一斉にマスターへ。

マスター、笑いながら自分を指差す。


「僕ぅ!?」

「あはははっ!!」


「酔っ払いが悪化した!!」


ガラッ。

扉が開く。

クロード。

静かな視線。


テーブル。

三人。

キッチン。

空の缶。

黒い缶。

限定醸造。


沈黙。

クロード、止まる。

視線が、缶に固定される。


「…………」


長い。

静か。

でも。

その沈黙が一番怖い。


マスター、へらへらしながら手を上げる。


「いやぁそのぉ」

「飲まされたねぇ」

『飲ませた』


奥から即訂正。


「いるの!?」


クロード、ゆっくり缶を持ち上げる。

見る。

裏面まで見る。


小さく。

本当に小さく。


「……あぁ」


悲しそう。


ファニー、顔を覆う。


「ダメだ」

「ちょっと悲しみ入った」


シエル、頷く。


「精神ダメージを確認」


クロード、深く息を吐く。


「……それ」

「今月、一番楽しみにしてたやつなんだが」


マスター、酔った顔のまま固まる。


「……あ」


空白体、奥で静止。

さすがに少し気まずい。


沈黙。

マスター、ふらっと立ち上がる。


「だ、大丈夫……」

「ぼ、僕がまた探して……っ」


ふら。

転ぶ。


「あ」


クロード、無言で襟を掴む。

ぴたり。

宙吊り。


「たすかるねぇ……」

「反省は」


「してるぅ……」

『してない』


「追撃やめろ!!」


ファニー、笑いと恐怖でぐちゃぐちゃ。

シエル、コップを差し出す。


「とりあえず水です」


クロード、 深いため息。


「……酒禁止」

『合理的』


「お前もだ」

『飲んでないよ』


「身体で飲んだだろうが」


沈黙。

正論。

奥で、空白体が静かに黙る。


夕方。

窓の外。

穏やかな風。


境界堂だけが、ずっと騒がしい。



……



そして翌朝。

マスター。


「……頭いたいねぇ」


ファニー、じと目。


「覚えてる?」

「なにを?」


沈黙。

シエル、確認。


「記憶欠落を確認」


クロード、静かに新しい缶へ名前を書く。

極太マジック。

“触るな”


ただし。

数秒後。

その文字の横に、誰かが小さく書き足した。


『飲むな、の方が正確』


クロード、無言でその文字を二重線で消す。

その横に。


”両方だ”




空白体「仕返しは、最初プリンにする予定だった」

マスター「ん?食べられてないよ?」


空白体「途中で“飲もう”って流れた」

ファニー「そんな理由!?」

シエル「行動選択がBGM依存です」

クロード「俺のビールが“気分爽快”に巻き込まれたのか」


空白体「タイミングが良かった」

クロード「俺ので仕返しするな」



※本編第一話はこちら →1-0「余白:始まりの前」

https://syosetu.com/usernoveldatamanage/top/ncode/3076326/noveldataid/28940817/


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