番外編「シャボン玉」
■公園
午後。
風が、やわらかい。
芝生の上を、光がころがる。
子どもの笑い声。
小さな手。
空に向かって伸びる、丸い輪。
ふわり。
シャボン玉が生まれて、空にほどけていく。
ファニー、立ち止まる。
「あ、楽しそう」
目で追う。
弾ける前の、ほんの一瞬を。
「……やったこと無いからなー」
軽く言う。
ほんの少しだけ、間を置いて。
シエルも見る。
親子。
笑い声。
何気ないやりとり。
「俺もありません」
声はいつも通り、静か。
けれど。
「……そういう遊びは、優先順位が低かったので」
さらっと言う。
それが“普通だった”という温度で。
肩をすくめる。
「こっちは優先順位どころか、存在してなかったけどね」
笑う。
軽く。
軽く言ってるけど、軽くないやつ。
「外で遊ぶと怒られるしさ」
「静かにしてろーって」
言葉は雑。
でも、輪郭ははっきりしている。
一つ、シャボン玉が近くまで流れてくる。
ふわ、と。
ファニー、指を伸ばす。
触れる直前で――
ぱちん。
消える。
少しだけ目を細める。
マスター、隣で見ている。
二人の“言い方”と“間”を、きちんと拾う。
でも。
あえて、その方向には踏み込まない。
代わりに、少しだけ声を弾ませる。
「じゃあやってみる?」
ファニー、きょとん。
「え?」
シエル、わずかに視線を向ける。
マスター、いつもの調子で。
「今からでも遅くないでしょ」
「シャボン玉、年齢制限ないし」
じわっと笑う。
「……それもそっか」
小さく頷く。
「合理的です」
マスター、くるっと踵を返す。
「じゃ、材料あるから戻ろうか」
「ちょっと本気のやつ作るよ」
「え、何その“本気のやつ”って」
「嫌な予感しかしません」
背後で、また一つ。
シャボン玉が空に浮かぶ。
今度は、誰も触らないまま。
風に乗って、ゆっくり遠ざかっていく。
三人は、それを見送らずに歩く。
“今度は、自分たちで作れるから”
■境界堂・実験開始
机の上。
透明なボウル。
光が水面にゆらゆら反射する。
マスター、手際よく混ぜる。
「水はぬるめがいいんだよねぇ」
「界面活性剤は…まあこのくらい」
とぽとぽ、とろり。
ファニー、覗き込む。
「ねぇそれ、“適量”って顔してないんだけど」
シエル、冷静に。
「明らかに研究者のそれです」
マスター、気にしない。
「で、ここに洗濯のり」
「膜を強くするためにねぇ」
とろり、と重さが加わる。
「最後にガムシロ」
「蒸発を遅らせて、割れにくくする」
「……お菓子作りみたいな顔してるけど、やってることほぼ錬金術じゃない?」
「用途が夢なので許容されていますが」
「やってることは完全に物理化学です」
ボウルの中。
透明だった液体に、“厚み”が生まれる。
マスター、スプーンを置く。
「……よし、基礎はいいねぇ」
ファニー、さっそく輪っかを手に取る。
「じゃ、まず普通にやろ普通に」
液をくぐらせる。
そっと吹く。
ふわ。
小さな球。
陽射しを映して、虹色に揺れる。
「おおー!」
ぱたぱた追いかける。
甘い洗剤の匂い。
窓から入る風。
今度は、自分たちの手で生まれたシャボン玉。
シエルも静かに輪を持つ。
「……」
慎重。
角度。
呼気の速度。
かなり真面目。
ふっ。
ころん、と形のいい球が生まれる。
ほとんどブレない。
ファニー、即反応。
「うわ、上手っ」
「出力を一定にしただけです」
マスター、眺めながら笑う。
「性格出るねぇ」
自分も輪を持つ。
軽く振る。
ぶわっ。
大量発生。
「多っ!?」
一気に十数個。
部屋いっぱいに、虹色が散る。
「加減!!」
「数で押し切るタイプですね」
球が、ふわふわ漂う。
光を映し、窓の外の景色を歪め、ゆっくり天井へ向かう。
そのうちの一つが、マスターの肩に触れる。
でも。
割れない。
ぺた。
「……ん?」
張り付いた。
ぷるぷるしてる。
ファニー、固まる。
「え、待って」
「なんで生き残ってるのそれ」
マスター、肩を傾ける。
「洗濯のり多めだからねぇ」
「そういう問題!?」
シエル、じっと観察する。
「……膜強度が異常です」
「通常の表面張力を超えています」
その瞬間。
ぺたっと張り付いていた球が、
する、と肩から離れる。
ふわ。
今度は、逆らうみたいに上へ行かない。
空中で止まる。
沈黙。
ファニー、目だけ動かす。
「……止まってるね」
「止まっています」
マスター、顎に手を当てる。
「んー」
少し嬉しそう。
「比重かなぁ」
「絶対違う」
球は、ゆっくり回転する。
表面。
虹色。
その奥。
ほんの一瞬だけ、映る景色がズレた。
畳。
机。
三人。
でも位置が、少しだけ違う。
シエル、ぴたりと止まる。
「……今」
ファニーも気づく。
「遅れた?」
球の中の景色だけ、
ほんのわずかに、遅れて動いた。
マスター、目を細める。
「……へぇ」
その声だけ、少しだけ“研究者”になる。
ファニー、なんとなく背筋を伸ばす。
さっきまで“遊び”だった空気が、
少しだけ変わった。
指先で、液面を撫でる。
ぴ。
細い光が走る。
「今、光った?」
「反射ではありません」
楽しそうに。
「ここからが本気」
ボウルを傾ける。
ゆっくり、回る。
渦。
中心に、光が集まる。
薄いから、濃い。
七色が、層になる。
「なにそれ……」
「通常の干渉では説明不能」
肩をすくめる。
「膜ってさ」
指で輪を描く。
「内と外を分ける、“境界”」
ファニー、さっきまで笑っていたのに、
その言葉だけは、なぜか聞き流せなかった。
光が整列する。
見えない面が、重なる。
一歩引く。
「……それ、シャボン玉?」
「シャボン玉だよ」
「ちょっと、いい感じにしただけ」
「“いい感じ”が逸脱しています」
にこり。
「試そうか」
輪を浸す。
引く。
膜が、糸みたいに伸びる。
空気に触れた瞬間。
ふわ。
淡く、発光。
ゆっくり広がる。
ただの膜じゃない。
色を、内側に抱える。
「……これ」
「球体形成前の不安定相……」
目が離れない。
「いくよ」
ふわり。
空気を、すくう。
生まれる。
球。
表面、ゆらぐ。
呼吸みたいに。
内側で光が流れる。
外の景色が映る。
ほんの少し、遅れて。
「……観測と表示にズレ」
「……なにこれ」
「うん、成功」
軽い。
あまりにも。
球が、浮く。
音もなく。
ただ、在る。
「……さっきのと、同じ?」
少し考えて。
「同じ」
にこり。
「ちゃんと作っただけ」
「先程は試作」
「そうなるねぇ」
沈黙。
同時に。
「「最初からこれやってよ(ください)」」
マスター、首をかしげる。
「段階あったほうが楽しいでしょ?」
球は、漂う。
光をまとって。
境界を揺らして。
触れたら何かが変わる、そんな顔で。
■屋外
庭。
夕方の光。
風はやや静か。
マスター、輪っかを持つ。
「風下に立つといいよ」
ふわり。
一つ、浮かぶ。
普通サイズ。
「おおー!」
「まあこれはウォームアップだねぇ」
次。
ゆっくり、引く。
液が伸びる。
膜が広がる。
光が、七色に裂ける。
そのまま、
“球”になるには大きすぎる何かが、
空中に生まれる。
「でっか!!!」
「これは…ほぼ球体の境界膜…」
マスター、にこにこ。
巨大シャボン玉、ゆっくり浮上。
表面に、空と三人が歪んで映る。
「触っていい!?」
「優しくねぇ」
指先、ちょん。
――割れない。
「えっ!?」
シエル、目を細める。
「弾性が高い…」
「配合バランスがいいと、ちょっとやそっとじゃ割れないんだよねぇ」
その瞬間。
風。
ふわ、と強めに吹く。
巨大シャボン玉、ゆらぐ。
「わ、割れる!?」
「いや、耐えて――」
べこっ
形が一瞬、歪む。
でも。
戻る。
「え、強っ!!」
「でしょ」
ちょっと誇らしげ。
もう一度。
今度は、さらにゆっくり。
大きく、大きく。
膜が伸びて、
三人を包み込めそうなほどのサイズへ。
「これ中入れそうじゃない!?」
「理論上は可能ですが――」
「やってみる?」
間。
「やる!!」
「やめましょう」
即答。
ファニー、突撃。
ぽすっ
入れた。
一瞬、成功。
「入れたーーー!!!」
次の瞬間。
\ぱぁん!!/
世界が一瞬、砕ける。
水滴が、光を散らす。
夕方の空に、細かい虹。
ファニー、びしょ濡れのまま固まる。
「……」
ぽた、ぽた。
前髪から水が落ちる。
マスター、少しだけ目を細めて。
「成功だねぇ」
シエル、間を置かず。
「定義:成功とは何かを再考すべきです」
ファニー、ゆっくり顔を上げる。
「……冷たっ」
次の瞬間。
ぶふっ、と吹き出す。
「なにこれ、めっちゃ楽しいじゃん!!」
マスター、くすっと笑う。
「でしょ」
シエル、袖を軽く払う。
「非効率ですが、悪くありません」
足元。
割れた膜の名残が、水たまりに溶ける。
さっきまで“球”だったものは、もう形がない。
ただ、光だけが残る。
笑いが、
少しずつ落ち着く。
マスター、何気なく空を見る。
「……シャボン玉の歌ってあるじゃない?」
まだ笑いながら。
「それ知ってるよ!小さいころ歌ってた!」
「童謡の定番ですね」
少しだけ声を落とす。
「あれ、せつない曲だよね」
「え?」
風が、少しだけ変わる。
さっきより静か。
「作詞した人さ」
「子どもを亡くしてるんだよね」
「その子を、シャボン玉に重ねてる」
シエル、理解がつながる。
「と、いうことは…」
「うん」
「小さいころに」
ファニー、視線を落とす。
「……そっか」
少しの沈黙。
遠くで、また別の子どもが笑ってる。
マスター、やわらかく。
「だからさ」
足元の水たまりに、光が揺れる。
「思い出すたびに思うんだよねぇ」
「今、生きてるって」
「けっこう奇跡みたいなもんだなって」
誰も、すぐには返さない。
ただ、風が通る。
ぽつり、と。
どこかに残っていた小さな膜が、遅れて割れる。
その音を合図みたいに、
空気が、すこしだけ静かになる。
庭。
割れたシャボン玉の名残が、まだ地面に光ってる。
ファニー、しゃがみこんで指先でなぞる。
「……さっきの、すぐ消えちゃったね」
シエル、空を見る。
「形あるものは、いずれ消えます」
少しだけ言葉を止める。
マスター、やわらかく続ける。
「でもさ」
「だから綺麗なんだよねぇ」
「……うん」
「ずっと残るものって、安心はするけど」
「“今この瞬間”って感じは、ちょっと薄くなるでしょ?」
「有限性が、価値を増幅する」
「感想が論文なんだよねぇ」
小さく笑う。
風が吹く。
さっきより、少しだけ冷たい。
マスター、もう一度輪を浸す。
「だからさ」
ふわり。
小さなシャボン玉が一つ。
「せっかくだし」
もう一つ。
「割れるまで、ちゃんと見届けよっか」
ファニー、立ち上がる。
「うん」
シエルも並ぶ。
「そうですね」
三人で、空を見る。
小さな球が、光をまとって、
揺れて、
揺れて、
やがて――
ぱちん。
消える。
「……でもさ」
マスターを見る。
「割れても、“見たこと”は消えないよね」
「記憶として保持されます」
少しだけ目を細める。
「うん」
「だからたぶん、それでいいんだと思う」
少し間を置いて、
「じゃあさ」
にやっと笑う。
「いっぱい作ろう!」
「消える前に、いっぱい見よ」
「結論が強いですね」
マスター、楽しそうに。
「いいねぇ」
また、シャボン玉が増えていく。
さっきよりも少しだけ、
一つ一つを“ちゃんと見る”三人で。
マスター「ほーら、いっぱい出すよー!ふー!」
ぶわぁっ。 庭いっぱいに、シャボン玉。
ファニー「わぁー!!」
シエル「シャボン玉で前が見えません」
マスター「いやぁ、幻想的だねぇ」
ファニー「視界がファンタジーになってる!」
ふーっ。 さらに増える。
シエル「増やさないでください」
マスター「……あ、くらくらするねぇ……」
ファニー「吹き過ぎ!?」
ふらっ。
シエル「酸欠です」
マスター「シャボン玉って命がけなんだねぇ」
ファニー「童謡の解釈が急に雑!!」
※本編第一話はこちら →1-0「余白:始まりの前」
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