番外編「赤い鞄」
■商店街
午後の光が、
アーケードの隙間から細く差し込む。
人の流れはゆるやかで、
どこか落ち着いたざわめきが続いている。
その一角。
鞄屋。
革の匂い。
整然と並ぶ鞄たち。
静かな店内で、客たちはそれぞれに“これだ”を探している。
その中で――
やけに目立つ色の前に立つ男が一人。
マスターだ。
迷いなく、赤。
棚の端から端まで、視線を滑らせては
同じ系統の色ばかりを手に取っていく。
ファニー、横で腕を組む。
「……偏りすごくない?」
シエル、すでに観察モード。
「選択基準に一貫性がありますね」
マスター、ひとつ頷く。
「赤いとね、視認しやすいんだよ」
手にした鞄を軽く持ち上げる。
「……つまり、置き忘れが発生しないということだ」
一拍。
「忘れたんだね」
「内訳は」
ほんの少しだけ視線を逸らす。
「まず、公園のベンチ」
指を一本立てる。
「次に、役所のカウンターの椅子」
もう一本。
「最後に、電車のなかだ」
三本目。
「スーパーのサッカー台に財布も忘れたことがある」
無駄にキリッとした顔。
ファニー、腕を組んだまま、じっと観察する。
「“視認性”とかいう言葉で包んでるけどさ」
「それ、“忘却の履歴書”だよね?」
シエル、間髪入れずに分析へ入る。
「発生箇所に共通点があります」
「“一時的に手を離す場所”です」
「ベンチ、椅子、電車、サッカー台――」
「つまり」
視線が、マスターに向く。
「マスターは“手から離れた瞬間に存在を忘れる”タイプです」
わずかに目を逸らす。
「……否定はしないよ」
口元を緩める。
「じゃあさ、“赤い”じゃ足りないじゃん」
「爆発すれば?」
真顔で頷く。
「一定距離で警報音を発する機構のほうが現実的です」
「あるいは、マスターの心拍と同期して発光」
静かに考える。
「……心臓が鞄に乗っ取られる未来が見えるねぇ」
ファニー、くすっと笑う。
「でもさ、それでも忘れそうなんだよね」
「“あ、鳴ってるけどまあいっか”って」
シエル、即座に切り分ける。
「その場合、問題は鞄ではなく意思決定です」
沈黙。
肩をすくめる。
「つまり僕は、“高視認性でも救えない存在”ということか」
「うん」
「はい」
間を置かず、確定。
小さく笑う。
「……じゃあ次は、“戻ってくる鞄”でも探すかねぇ」
「それもう鞄じゃないよ、“忠犬”だよ」
「分類としては“従属型ロスト防止装置”ですね」
「いいね。名前は“レッド・ハウンド”にしよう」
吹き出す。
「ダサかっこいいのやめて」
少し間を取ってから。
「そして――僕は最適解を見つけたんだ」
視線を落とし、自分の腰へ。
「すなわち、ウエストベルト型の鞄」
三秒フリーズ。
「……出た、“物理で解決するやつ”」
「合理的です」
「“身体から分離しない”という一点で、これまでの全敗記録を覆します」
静かに頷く。
「そう。もはや“置き忘れる”というイベントが発生しない」
「世界線ごと消した」
ファニー、じっと腰を見る。
「でもさ、それ……ずっと“そこ”にいるよね?」
「うん」
即答。
にやりと笑う。
「夏とかさ」
「蒸れるよね?」
一瞬の静止。
シエル、追撃。
「加えて、収納量の制限があります」
「財布、スマートフォン、鍵でほぼ飽和」
「“ついでに何か”が不可能です」
ほんのわずかに視線が泳ぐ。
「……選択と集中というやつだねぇ」
「言い換えただけで弱点は消えないんだよ」
「加えて、“外した瞬間に全ロストするリスク”が集中します」
沈黙。
マスター、ゆっくりと言う。
「……ラスボス戦みたいだねぇ」
「外した瞬間、全アイテムドロップ」
「セーブポイントどこ!?」
「現実には存在しません」
少し考えてから。
「じゃあこうしよう」
「ウエストベルト+赤色+警報装置」
ファニー、目を細める。
「まだ盛るの?」
シエル、結論を出す。
「それでも忘れる場合、対策対象は“道具”ではありません」
間。
マスター、静かに笑う。
「……つまり最終アップデートは“僕自身”か」
軽く肩を叩く。
「やっと気づいたね」
頷く。
「Ver.マスター、パッチ待ちです」
小さく息を吐く。
「リリース日は未定だねぇ」
ファニー、ぐいっと身を乗り出す。
「ねえ、一番ヤバかった忘れ物なに?」
マスター、ほんの一拍。
「……人」
空気が止まる。
「比喩ですか?」
「待ち合わせだねぇ」
「駅で別れて、そのまま帰った」
「最低すぎるでしょそれ!!」
「感情損失、大です」
「連絡はしたよ」
「三時間後に」
「遅いわ!!」
笑いがこぼれて、空気が軽くなる。
ぽつり。
「……でもさ」
「私、絶対忘れないのあるよ」
「俺もあります」
「聞こうか」
ちょっとだけ照れつつ。
「“楽しかった日”」
「細かいことも、けっこう覚えてる」
「俺は“誤差”です」
「判断ミスと、その原因を全記録」
目を細める。
「前向きと後ろ向き、見事に分かれたねぇ」
「なにそれ!」
「事実です」
少しだけ視線を落とす。
「僕は――」
「“二人の声”は、忘れないね」
一瞬、静かになる。
ファニー、ぱちっと瞬き。
シエルも、わずかに止まる。
マスター、さらっと続ける。
「だからまあ、鞄くらいは忘れても問題ない」
「問題あるわ!!」
そのまま、にやっと笑う。
「もうさ、首輪つければ?」
「鞄じゃなくて僕が管理される側に?」
「合理的です」
「位置情報、状態監視、通知機能」
「全て解決します」
「人権がログアウトしそうだねぇ」
「大丈夫、“優しい管理”だから」
「制御は最小限に留めます」
「その“最小限”が怖いんだよねぇ」
ファニー、少しだけ声を落とす。
「でもさ」
「いなくなるより、いいでしょ?」
間。
マスター、ほんの少しだけ目を細める。
「……そうだねぇ」
シエル、即結論。
「では導入を検討します」
「決定事項なの?」
「うん」
「はい」
肩をすくめて笑う。
「……僕、飼われる側だったか」
「今さら?」
「初期状態からです」
沈黙。
ほんの一瞬。
三人同時に、少しだけ笑った。
ファニー、ふと思い出したように。
「……ねえ、赤い洗面器の話、知ってる?」
「未完結の話法です。結論が存在しない――」
マスター、軽く手を上げて遮る。
その瞬間。
ほんのわずかに、目がきらりと光る。
口元に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「ええ、ええ。知ってますよ」
少しだけ間を取る。
「こういう話です」
ゆっくり。
「ある男がね、隣の家を覗いた」
「すると――赤い洗面器を頭に乗せた女が、いた」
「情報の圧が強い」
気にせず続ける。
「で、まあ普通は気になりますよねぇ」
「なぜ、そんなことをしているのか」
ちら、と二人を見る。
「男もね、調べようとするわけです」
一拍。
沈黙。
ファニー、眉をひそめる。
「……で?」
マスター、あっさり。
「終わりです」
「雑!!」
「これ以上の情報は存在しません」
じっと見上げる。
「……で、マスターなんでその口調なの」
マスター、顎に手を当てる。
角度、無駄に完璧。
「ん?雰囲気出るでしょ」
一拍。
「ええ、ええ」
シエル、間髪入れず。
「この間の、古畑任三郎の再放送に思いっきり影響されていますね」
微動だにしない。
「さて、どうでしょう」
「どうもこうもあるか」
「発話速度の低下、語尾の伸長、間の取り方の変化」
「模倣精度は高いですが、持続時間はおよそ10分です」
「具体的だねぇ」
「タイマーつけとく?」
マスター、軽く咳払い。
「いやいや、これはね、一時的なものじゃないんですよ」
「こう……思考を整理するのに、向いている」
指をひとつ立てる。
「人に説明する時、あえて“間”を置くことで」
「相手に考えさせる余白を――」
「赤い洗面器の話でやるな」
「無駄に気になるだけです」
少しだけ笑う。
「いやぁ、でも不思議なものでね」
「続けるんだ」
「こうして話していると」
「ほら、また思い出すでしょう?」
間。
ファニー、ぴたっと止まる。
「……あ」
「再想起を確認」
満足げに頷く。
「ええ、ええ」
頭を抱える。
「なんで洗面器乗せてたの!?」
「不明です」
「気になりますねぇ」
じとっと睨む。
「……その喋り方のせいで、余計イラつくんだけど」
マスター、すっと姿勢を戻す。
「おや、そうですか」
一拍。
「では――やめましょう」
普通の声に戻る。
「……で、なんで乗せてたんだろうねぇ」
「戻ってもダメじゃん!!」
「原因は話法ではなく内容です」
「身も蓋もないねぇ」
少しして。
「……首輪の話、どこいったの」
「未回収です」
「たぶん洗面器の下かな」
「だから乗せるな!!」
三人、笑う。
マスター、ふと呟く。
「……こういうの、嫌いじゃないんだよねぇ」
「なにが」
「終わらない話」
間。
ファニー、まだ引っかかっている。
「……でさ」
「ほんとなんで乗せてたの?」
「不明です」
マスター、少しだけ目を細める。
さっきと同じ、あの笑み。
「……こういうの、嫌いじゃないんだよねぇ」
「残るやつ」
「なにそれ、最悪なんだけど」
「対処法は存在しません」
間。
ぽつり。
「……絶対今夜夢に出るんだけどこれ」
「……赤い洗面器ってなんだよ」
ファニー「ここまで読んだ人さ」
シエル「はい」
ファニー「今、頭のどっかにあるよね」
シエル「ありますね」
マスター「ええ、ええ」
ファニー「“赤い洗面器”」
シエル「未回収です」
マスター「回収予定もありません」
ファニー「ひどくない?」
シエル「仕様です」
マスター「こういうものほど、残るんですよ」
ファニー「いらない記憶なんだけど」
シエル「不要とは限りません」
ファニー「使い道あるの!?」
シエル「現時点では不明です」
マスター「忘れた頃に、ふっと出てくる」
ファニー「出てこなくていい!」
シエル「効果は確認済みです」
マスター「ええ、ええ」
ファニー「でさ」「ほんとなんで乗せてたの?」
シエル「不明です」
マスター「気になりますねぇ」
ファニー「その喋り方まだやってんの!?」
マスター「さて、どうでしょう」
――べちんっ。
マスター「理不尽だよ!?」
少しの沈黙。
ファニー、ぼそっと。
「……で、なんで乗せてたの?」
シエル「再発を確認しました」
※本編第一話はこちら →1-0「余白:始まりの前」
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