1 ピントの外れた世界
境界堂。
昼。
午後の光が、床をやわらかく転がっている。
カップの縁で、光が遊ぶ。
平和。
あまりにも、何も起きなさそうな顔をした時間。
マスター、立ち上がる。
「コーヒーでも――」
その瞬間。
ファニーの瞳が、獲物を見つけた猫みたいに光る。
「マスター捕まえたー!」
「わっ、ちょ、待っ――」
突撃。
一歩。
二歩。
――ごつん。
綺麗に入る。
資料整理中のシエルへ、完璧な直撃コース。
「は……?」
パリン。
静寂が、一瞬だけ完成する。
「……あ」
床。
レンズ、無残。
フレーム、静かに終わる。
「ご、ごめんシエル!!」
シエル、しゃがむ。
破片を拾う指は、やけに正確。
「……大丈夫です」
立ち上がる。
ほんの少しだけ、視線がズレている。
「マスター。近くに眼鏡屋はありますか?」
「あるけど……」
シエル、ふと横を見る。
観葉植物へ。
「どうしたのですかマスター?顔が緑色ですが。なにか拾い食いでも?」
沈黙。
「それマスターじゃない」
「それ僕でもないねぇ」
「……そんなはずは?」
マスター、一歩前に出る。
「もしかして、ド近眼?」
「違います」
間。
「……少し、解像度が落ちているだけです」
「それド近眼!!」
シエル、歩き出す。
机に直行。
ごん。
「……障害物が増えています」
「増えてないねぇ」
「予備は?」
「ありますが、位置が不明です」
「見えないからね!?」
マスター、手を取る。
「はい、こっち」
シエル、素直に掴まる。
一瞬だけ、静か。
「……これはこれで、不便ですね」
「早く作り直そうね!」
「ええ」
小さく頷く。
「……マスターが三人に見えます」
「乱視だねぇ」
ファニー、顔を寄せる。
「シエル、大丈夫?」
「確認します」
ずい。
「近っ」
さらに、ぐい。
顔面、鷲掴み。
「ちょっ待って!?」
距離、10センチ。
シエル、凝視。
「……輪郭一致」
「なにそのログイン!?」
「色彩情報が曖昧です」
「それは目!!」
「高性能だけど物理に弱いねぇ」
「静かにしてください。誤認識の可能性があります」
「私が!?」
指、少し強まる。
「……発声パターン一致」
「顔つぶれる!!」
一拍。
ぱっ、と手を離す。
「ファニーです」
「最初からそうだよ!!」
間。
シエル、ゆっくりマスターを見る。
すっ……
「やめよう?」
「確認します」
「止めてあげて!?」
無視。
ぐい。
「おっと」
距離、10センチ。
静止。
シエル、凝視。
「……」
ほんの少し、長い沈黙。
「シエル?」
「……おかしいですね」
指の力、わずかに強くなる。
「輪郭は一致しています」
「発声も一致」
一拍。
「……条件は、満たしています」
さらに近づく。
「……ですが」
さらに近づく。
「“中身”の位置が、定まりません」
「……焦点が、合いません」
沈黙。
空気が、わずかに冷える。
ファニー、瞬き。
「……え?」
マスター、軽く笑う。
「……それは、困るねぇ」
「一点に収束していません」
「……複数の“定義”が重なっています」
クロード、目を細める。
ほんの少しだけ、口角が上がる。
「……ほう」
「それ絶対目のせい!!」
「……そう、ですね」
手を離す。
「僕、認証通った?」
「マスターです」
「今の何だったの!?」
シエル、小さく首を傾げる。
「……解像度の問題、でしょうか」
クロード、ぼそり。
「……面白いな」
ほんのわずかに、視線が細まる。
「“見えていない方が正確”か」
「…あるいは――」
マスターが歩き出す。
その一瞬。
影が、わずかにズレる。
光の向きと、合っていない。
遅れて、重なる。
重なる位置が、ほんの少しだけ違う。
――誰も、気づかない。
すぐに、戻る。
■商店街
昼のざわめきが、ゆるく波打つ。
眼鏡屋。
「取り敢えず、見えるようにならないと意味がないので、調整用をください」
「はいよー」
ごそごそ。
差し出される。
「瓶底眼鏡!?」
「実在したのかそれ!?」
シエル、装着。
一瞬、静止。
「……見えます」
「どのくらい?」
「世界が歪んでいます」
「……フレームはこちらでお願いします」
「副作用えぐいねぇ」
「薄型は時間かかるから、夕方においで」
■境界堂
帰還。
シエル、歩く。
ごん。
「……問題ありません」
「あるよ!!」
書類を持つ。
「……文字が踊っています」
「陽気だねぇ」
「不愉快です」
一歩。
がつん。
「止まって!?」
「継続可能です」
「不可だねぇ」
●キッチン
手を伸ばす。
空振り。
「違う!」
もう一度。
別のコップ。
「だから違う!」
三度目。
完全に違う方向。
「どこ狙ってるの!?」
マスター、手を添える。
「ここ」
ぴたり。
「……成功」
「補助!!」
●廊下
「……音で把握します」
「進化した!」
コツ、コツ。
一歩。
ごん。
「退化!!」
「……誤差です」
「致命的!!」
クロード、顔も上げず。
「休め」
「軽微です」
一歩。
棚に激突。
雪崩。
「……撤回します」
「即落ち!!」
●ソファ
座る。
マスター、お茶を渡す。
ズレる。
直す。
「ここ」
「……助かります」
一拍。
「……見えないと、不便ですね」
「でしょ?」
「補助の重要性を認識しました」
「誰の?」
「視覚の」
「裏切られたねぇ」
立つ。
一歩。
ごん。
「学習して!?」
■夕方前
●廊下
コツ、コツ。
止まる。
「……更新」
一歩。
ごん。
「未更新!!」
ファニー、手を引く。
「段差!」
「……助かります」
「右、壁」
「はい」
回避。
成功。
「おお!」
●机
クロード、無言で物をずらす。
シエル、通過。
無傷。
「……今日は安全ですね」
「努力の結晶!!」
「……偶然だ」
本を開く。
「……増えています」
「増えてない」
「……読めません」
ぱたん。
「……敗北」
「潔い!!」
●キッチン
「せめてお茶を」
ズレる。
「違う!」
さらにズレる。
「もっと違う!」
「……マスター」
「ん?」
「もう一度、誘導を」
「はいはい」
手を取る。
ファニー、にやにや。
「素直じゃん」
「効率です」
●ソファ
三人。
落ち着く。
呼吸が揃う。
「……見えないと、輪郭が曖昧になりますね」
「うん」
「ですが」
間。
「……“あるもの”は強くなる」
「え?」
シエル、見る。
ぼやけた先。
「……中心が、定まりません」
空気、わずかに冷える。
ファニー、即カット。
「目のせい!」
「……そうですね」
頷く。
でも。
視線だけ、残る。
■夕方・再来店
「お、できてるよー」
ケースが、ことり。
シエル、受け取る。
――ほんの一瞬だけ、指が止まる。
開く。
新しい眼鏡。
静かに、装着。
一瞬。
呼吸、ひとつ。
「……クリアです」
「おかえり視界!!」
「世界、戻ってきた?」
「ええ。輪郭、距離、色彩――問題ありません」
視線が、店内を滑る。
正確。迷いなし。
ファニーを見る。
「ファニーです」
「それはさっきからそう!!」
マスターを見る。
――わずかに、間。
「……正常に認識できます」
「よかった」
外。
夕方の光が、やわらかく落ちる。
「ねえねえ、さっきの瓶底やばかったよね!」
「……推奨はしません」
「でも見えてたんでしょ?」
「見えてはいましたが」
一拍。
「“歪んでいる前提”で処理していました」
「なにそれプロ仕様」
■境界堂
扉が開く。
いつもの空間。
シエル、歩く。
ぶつからない。
「おおー!!ぶつからない!!」
「当然です」
「ねえ貸して貸して!」
「構いませんが」
外す。
ファニー、装着。
「うゎ!!度、強っっ!!」
ぐらり。
「立ててないねぇ」
「近っっ!!怖っ!!」
シエル、わずかに満足げ。
「……適正値です」
「ただし、視力の更新には絶望を伴います」
「あーそれ!!」
「進化じゃなくて劣化だもんねぇ」
「ええ」
一拍。
「ですが」
ほんの少しだけ、声が柔らかくなる。
「新しい視界は……嫌いではありません」
ソファ。
三人。
落ち着く。
呼吸が揃う。
シエル、ぽつり。
「ですが」
「ん?」
「“違和感”は、見えない時の方が、はっきりしていました」
沈黙。
マスター、軽く笑う。
「ノイズが減ると、別のノイズが見える」
「なにそれ、深い」
シエル、顔を上げる。
マスターを見る。
今度は、迷いなく。
でも。
ほんの一瞬だけ。
――確かめるように。
「……今は、綺麗に見えます」
「今は?」
「……はい」
奥。
クロードの手が、止まる。
視線だけ、わずかに動く。
何も言わない。
「とにかく!!」
「次からは壊さない!!絶対!!」
「どうだろうねぇ」
「……予備を増やします」
小さな笑い。
でも。
ほんの少しだけ。
空気に、薄い“ズレ”。
正しく見える世界。
その中で。
定義しきれない何かだけが、静かに残る。
ピントが合うほど、世界は単純になる。
――単純にならないものが、ひとつだけ残る。
コトッ。
机に、封筒。
「案件だ」
「タイミングいいねぇ」
シエル、封を切る。
紙。
「“願いが叶う神社”について」
「来たね、それ」
「評判いいやつだねぇ」
読み進める。
「“完全ではないが、確実に効果がある”」
「“副作用は軽微”」
止まる。
「……妙ですね」
「なにが?」
「“軽微”という評価が、多すぎます」
「へぇ」
「ばらつきがない」
視線、紙から離れない。
「誤差ではなく、“揃えられている”」
「つまり?」
顔を上げる。
「“調整されている”可能性があります」
シエル、静かに続ける。
「……先ほどの状態」
「眼鏡の?」
「ええ」
わずかに目を細める。
「見えていない状態の方が、“ズレ”に敏感でした」
紙を見る。
「この神社」
指先が、わずかに止まる。
「同じ種類の“整い方”を感じます」
マスター、伸びをする。
「便利すぎるのも考えものだねぇ」
「出た、それ」
クロード。
「調査対象だ。行ってこい」
「決まりだね」
「俺は別件だ」
シエル、頷く。
「……確認します」
マスター、ふと。
「今度はぶつからないでね?」
「問題ありません」
一歩。
コツ。
机に、軽く触れる。
沈黙。
「まだ慣れてないじゃん!!」
「……微調整中です」
扉が開く。
外の空気。
ほんの少しだけ。
――軽い。
シエル、わずかに眉を寄せる。
「……」
「どうしたの?」
「いえ」
一言。
「……整いすぎています」
一拍。
「自然なばらつきが、ありません」
「まるで、“そうなるように”」
マスター「視力って大事だねぇ。僕は1.5あるから、眼鏡は関係無いけど」
ファニー「目いいな!?私は0.8だよ!シエルは?」
シエル「言いません」
マスター「まあ、見えない方が、見えることもあるしねぇ」
シエル「……ええ」
クロード「目がいい人間は、老眼が突然来る」
マスター「…え、僕のこと!?」
一拍。
クロード「……俺だ」
ファニー「ちょっと待ってそれ怖い!!」
シエル「……将来の参考として、記録しておきます」




