エピローグ 残したいもの
朝。
境界堂。
障子から光がこぼれる。
湯気がゆっくりほどけて、コーヒーの匂いが広がる。
マスター、いつもの姿で座っている。
カップを傾けて、ひと口。
「……ひどい目にあったねぇ」
「ほんとそれ」
「記録としては有益でしたが」
マスター、くすっと笑う。
「怪異よりも——身内に裏切られた感じだねぇ」
カップの縁に、指が軽く触れる。
「まあでも」
少しだけ肩をすくめる。
「身内ってさ」
一拍。
「そういうことも含めて、残るんだよねぇ」
湯気が、ゆっくり揺れる。
「……残る?」
ファニー、ふと視線を上げる。
障子の光が、瞳に少しだけ映る。
「ねえ、マスター」
「ん?」
「マスターはさ」
少しだけ言葉を選ぶ。
「どうしても残したい物ってあるの?」
一拍。
「勿忘草の丘みたいに」
静かになる。
湯気が、ゆっくり揺れる。
マスター、少しだけ考える。
視線は遠く。
けれど、どこか柔らかい。
「……物はね」
ぽつり。
「残したいとは思わないねぇ」
「……そっか」
マスター、少しだけ肩をすくめる。
「むしろ、何も残したくないかも」
湯気が、ふっと途切れる。
シエル、視線を向ける。
「理由を聞いても?」
マスター、あっさりと頷く。
「いいよ」
コーヒーを置く。
指先で、縁をなぞる。
「僕が死んだ後ってことはさ」
「僕の私物を、誰かが片付けなくちゃいけないわけでしょ?」
淡々と。
でも、優しい声。
「だったら——」
「僕が片づけて、迷惑かけないようにしなきゃね」
静寂。
「その時を生きていく人たちには」
「それぞれの持ち物があるんだから」
少しだけ、笑う。
「故人のものなんて、必要無いでしょ」
コーヒーの湯気が揺れる。
ファニー、視線を落とす。
少しだけ、唇を結ぶ。
「……私は」
顔を上げる。
まっすぐ。
「マスターとの思い出、残したいよ」
シエルも、静かに。
「はい」
短い肯定。
マスター、少しだけ驚いた顔をして。
それから、柔らかく笑う。
「……そっか」
一拍。
マスターの視線が、少しだけ遠くなる。
「……昔ねぇ」
ぽつり。
「姉がいたんだけど」
「いた“んだけど”?」
「うん。いるよ、今も」
さらっと訂正。
「現在進行形ですか」
マスター、軽く笑う。
「物心ついた頃にさ」
一拍。
「“ほーら本物だよー”って、蜘蛛のおもちゃ、部屋中にばら撒かれてねぇ」
マスター、少しだけ遠くを見る。
「泣いたら、“ほら動かないでしょ?”って追撃されてねぇ」
沈黙。
「最低すぎる」
「トラウマの発生源ですね」
「うん、魔王だねぇ」
さらっと断言。
でも、そのまま続ける。
「でもねぇ」
少しだけ、柔らかくなる。
「“残してくれた方が困る”って言ったのも、その人でさ」
「え」
マスター、肩をすくめる。
「引っ越し前日に、“あ、北海道で保育士やるから”って」
「全部持って、風みたいにいなくなったんだけど」
「情報量が多いですね」
「自由人すぎるでしょ」
マスター、くすっと笑う。
「その時に言われたんだよねぇ」
少しだけ視線を落とす。
「“残される側は大変なんだから、ちゃんと片付けてから行きなさい”って」
一拍。
「“愛があれば大丈夫だけど、片付けは別”って」
コト、とカップが置かれる。
「なんかリアル……」
「妙に説得力がありますね」
マスター、コーヒーを持つ。
「だからまあ」
一口。
「何も残さない方が、楽かなって」
「……家族、濃くない?」
マスター、少し考えて。
「まあねぇ」
一拍。
「兄もいるし」
「まだ増えますか」
「世界中飛び回ってるシステムエンジニアでね」
「おお、まともそう」
「ヨメ探ししてる」
「台無し!!」
「動機が不純です」
マスター、くすっと笑う。
「“最適なパートナーは現地で探すべきだ”ってさ」
「理屈としては理解できますが」
「スケールが無駄にでかい」
「この前も“今ブラジル”って連絡きたねぇ」
カーテンが、ふわっと揺れる。
「何してんのその人」
「プロポーズ失敗したって」
「行動が早すぎます」
マスター、肩をすくめる。
「まあでも」
一拍。
「“誰かと生きる前提で動いてる”のは、すごいよねぇ」
ほんの少しだけ、柔らかい声。
「僕は——」
一瞬。
部屋の音が、消える。
ほんの一瞬、呼吸が止まる。
「……まあ、ああはなれなかったけどねぇ」
「じゃあ」
軽く手を広げる。
「いっぱい思い出、作ろっか」
朝の光が、少しだけ強くなる。
「残さなくても、困らないくらい」
「…残したくなるくらい、作ればいい」
「うん」
「ええ」
朝の光が、少しだけ強くなる。
湯気が、消える。
何も残さない、という優しさと。
残したい、という願いが。
同じ場所に並んでいる。
「ねえ、次どこ行く?」
「計画を立てましょう」
マスター、立ち上がる。
今度は——何にもぶつからない。
一歩。
止まる。
「……よし」
小さく確認してから、もう一歩。
「どこでもいいよ」
「一緒ならね」
――その言葉だけが。
なぜか少しだけ、重かった。
障子の向こう。
新しい一日。
「ねえマスター」
「愛があれば大丈夫って、ほんとだと思う?」
マスター、少し考えて——
ふっと笑う。
「大丈夫じゃないことも、多いけどねぇ」
少しだけ肩をすくめる。
「でもまあ。大丈夫に“しようとする理由”には、なるかな」
マスター、少しだけ笑う。
「それがある人は、強いよ」
一拍。
カップに残ったコーヒーが、わずかに揺れる。
ほんの一瞬。
――“何かを言いかけた気配”
でも。
「……ま、いいか」
何もなかったみたいに、視線を上げる。
――障子の向こう。
新しい一日。
少しだけ、不器用なままの。
“残さない”と“残したい”が、
同じテーブルに並んでいる朝。
………
……
…
こぼれ話:スーパーマスター実験記録
――※これは本編とは別記録である
「そう言えば、女性のマスターで境界融合体ってどうなるんだろう?」
「理論上は最適解ですね」
「いいですね採用です!」
『へ〜面白そう』
「お前はそれでいいのか」
『ん?…いや待って、それってつまり——』
一瞬。
“理解”が追いつく。
『……ちょ、待っ——』
その瞬間。
内側で、何かが“噛み合う”。
カチ。
思考が、一拍遅れる。
『……え?』
判断の流れに、 “もう一つの選択”が滑り込む。
自然に。
違和感なく。
『今のなに』
“やる”という結論が、
まるで最初から決まっていたみたいに、
そこにある。
『いやいやいやいや』
『待って今の流れおかしいだろ』
止めようとする。
でも。
止める理由が、うまく掴めない。
代わりに、
“やってもいい”理由が
するりと整う。
『……あれ?』
「はい、確定だねぇ」
声が重なる。
外側と、内側で。
『誰が確定した今!?』
「条件成立。待った無し」
『おい待てそれ僕の権限だろ!?』
思考を引き戻そうとする。
“拒否”を選ぼうとする。
でも。
指先みたいに、
判断が、うまく動かない。
『止め——』
「却下。上書き」
『なんで!?』
「ふふっ。面白そうだよねぇ」
その“面白そう”が、
やけに納得できる。
『……いや』
『いやいやいやいや』
『乗るな僕』
でも。
もう遅い。
“同意しかけた思考”が、
内側に残っている。
『……ちょっと待って』
『これ、まずくない?』
境界が、揺れる。
\強制フュージョン!/
――パァン!!
弾ける。
でも。
砕けない。
溶ける。
意識が、分かれない。
重なる。
ぴたりと。
視界が、二重になる。
紫が、滲む。
『……あ』
身体のラインが変わる。
重心。 呼吸。 声帯。
全部が、再構築される。
その変化を、
“理解できてしまう”。
『え、これ』
『わかるの、なんで』
違和感があるはずなのに、
処理が追いつく。
むしろ、
“最適化されていく”感覚。
思考が、静かに整う。
『……あー』
抵抗が、ほどける。
『なるほどね』
さっきまでの焦りが、
少し遠くなる。
代わりに、
一つの感覚が残る。
“悪くない”
口角が、上がる。
「へぇ……いいじゃん、これ」
声が出る。
違和感が、ない。
内側で、
まだかすかに残っていたはずの
『待て』が、
形を失っていく。
瞳の奥で、光が揃う。
一切ぶれない。
一歩、踏み出す。
スッ——
床との摩擦が、消える。
重心移動が、最短距離で収束する。
“こう動くのが正しい”
その確信が、
最初からそこにあるみたいに、自然にある。
『……』
もう、声は上がらない。
代わりに。
静かな納得だけが残る。
紫の瞳の美女。
澄みきった紫が、迷いなくこちらを見返す。
「え、普通に強くない?」
「完全統合状態……」
融合体、指を軽く動かす。
関節の可動、力の抜き差し、すべてが自然。
「ははっ、思ったより当たりだねこれ」
わずかに間。
呼吸がほんの少し浅い。
次の一歩。
ほんのわずかに、 足裏が床を探る。
「……」
違和感。
踏み込みが一瞬遅れる。
視線が揺れる。
紫が、わずかに焦点を外す。
「来ましたね」
だが次の瞬間。
ピタリ、と合う。
身体が“答えを見つける”。
加速。
視界から消える。
テーブルのペンを——
パシッ。
寸分の狂いもなく掴む。
「うわっ!?」
「今のは同期しています」
ペンを見下ろす。
「今の、ちょっと好きだな」
一瞬だけ、紫に熱が混ざる。
わずかに満足げ。
「……やりすぎると壊れるな、これ」
だが。
そのまま一歩、下がる。
コツン。
柱に当たる。
沈黙。
「はい崩壊」
額を押さえる。
瞳だけが、さっきのまま整っている。
「いや今のは床が悪いでしょ」
「責任転嫁を確認」
再び歩く。
今度は慎重に。
一歩。 二歩。
三歩目——
床との接触が、ほんの一瞬ずれる。
ズルッ。
体が滑る。
そのまま——
ズシャー。
派手に転倒。
視線は完璧、体は裏切った。
「今の綺麗すぎたでしょ」
床に伏せたまま。
数秒。
「あー無理無理、これ一人でやるもんじゃないな」
ぽつり。
立ち上がる。
その動きが変わる。
さっきまでの“張り詰めた正確さ”ではない。
少しだけ、余白がある。
一歩。
今度は自然。
足裏が迷わない。
「お、安定した」
紫が、わずかに柔らぐ。
「役割分担が機能しています」
融合体、ちらりと二人を見る。
「じゃ、ちょっと遊ぼっか」
一歩踏み出す。
ファニーの横を通る瞬間——
ほんのわずかに、肩が触れる。
トン。
「ほら、使えるもんは使うでしょ」
「うわっ、ナチュラル接触きた」
「軌道修正に他者を利用していますね」
「利用って言い方やめてくれない?」
だがその声とは裏腹に、
動きはさらに滑らかになる。
歩く。
二歩。三歩。四歩。
無駄が消えていく。
「……なるほど」
ファニーの手元のカップに視線。
スッ。
一瞬で位置を取り、支える。
傾きかけたコーヒーが、こぼれない。
「え、ちょっと待って今のなに!?」
「外部環境を含めた安定化です」
「勝手に環境に組み込まれたんだけど私!?」
だが五歩目。
止まる。
ファニーの肩に触れたまま、
微動だにしない。
「最短で――いや待て、それつまんないな」
間。
「いや、別に急がなくていい」
さらに間。
「……再計算」
紫が、ぴたりと止まる。
完全停止。
「え、ちょ、固まったまま触ってるんだけど!?」
「フリーズした」
「処理競合です」
数秒。
「よし、もっかい行く」
動き出す。
一歩。
――ゴン。
壁に額を打つ。
沈黙。
ファニー、じわじわ笑う。
「さっきのカッコよさ返して」
「ギャップが顕著ですね」
カノン、目を輝かせる。
「最高です!!」
「やめろ」
即答。
カノン、記録端末を叩く。
「完全同期、約0.2秒!」
「その後、崩壊!」
コツン。
またどこかにぶつかる。
今度はシエルのすぐ横。
スッ、と距離を取られる。
「学習されていますね」
「回避されたんだけど」
融合体、ぼそり。
「ピーキーすぎるなこれ」
一拍。
「でもハマれば最強だな」
ファニー、腕を組む。
「じゃあさ」
にやり。
「短距離だけやってよ。ロマン砲」
シエルも小さく頷く。
「限定条件下では有効です」
少しだけ笑う。
「いいよ、もう一発だけ」
視線が、静かに沈む。
紫が、すっと細くなる。
空気が変わる。
音が、消える。
カノンのペン先が止まる。
シエルの端末の表示が、わずかに遅れる。
ファニーの呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。
「……来る」
ぽつり。
融合体の足が、わずかに沈む。
床が――軋む前に、
消える。
“動いた”という認識が、遅れる。
視界の端。
紫が、線になる。
次の瞬間。
ファニーの背後。
トン。
軽い接触。
遅れて、風が追い抜く。
「うわっ!?いつの間に!?」
「今のが上振れだね」
――一拍。
重心が、遅れて帰ってくる。
フラッ。
「……あ」
――ゴン。
壁。
さっきまで張り詰めていた空気が、
嘘みたいに崩れる。
「締まらなっ!」
「では連続稼働試験を――」
「断る」
即答。
「ロマン砲だね」
「ええ。瞬間性能特化型です」
融合体、軽く首を回す。
その動きはもう、
“完璧”ではない。
でも――自然だ。
「……これ、ハマるな」
少しだけ笑う。
解除後。
空気がほどける。
境界が、静かに分離する。
その場に残るのは――
いつものマスター。
……のはずなのに。
呼吸が、ほんの少しだけ揃わない。
一拍、遅れて吸う。
数秒。
動かない。
指先が、わずかに動く。
まるで、まだ“誰かの最適な動き”をなぞりかけて――
ぴたりと止まる。
ゆっくりと、両手で顔を覆う。
耳まで真っ赤。
あの瞳の色は、完全に消えている。
「……っ」
肩が小さく震える。
「どうして混ざっちゃったんだろ……」
か細い声。
さっきまでの“遊びに行く最強”は、跡形もない。
床を見つめたまま、さらに縮こまる。
――けど。
ほんの一瞬だけ。
視線が、無意識に“最短距離”で動く。
すぐ逸らす。
自分で気づいて、止める。
「いや違うでしょ」
ファニー、即座に突っ込む。
「ノリノリで混ざりに行ってたでしょ今」
「違うよ……強制だよ……」
「“へぇ面白そう”って言ってたよね?」
「記録あります!」
シエル、無慈悲に追撃。
マスター、ぴたりと止まる。
沈黙。
観念したように、さらに顔を覆う力が強くなる。
「……最悪だ……」
小さく漏れる本音。
そのとき。
内側から、ひょいと声。
『ばーか』
「君も止めろよ!」
『楽しいことは逃しちゃいけないよねぇ』
『ほら、さっきもそうしたでしょ?』
「僕は楽しくない!!」
即答。
でも。
その直後。
一瞬だけ。
“あの時の動き”が、脳裏に浮かぶ。
無駄のない重心。
迷いのない一歩。
身体が、ほんの少しだけ前に出かける。
「……っ」
自分で止める。
床を見つめる。
「……やめろ」
誰にともなく。
ファニー、腹を抱える。
「余韻で殴ってくるのずるいって」
シエル、淡々と。
「完全分離には時間が必要です」
マスター、ぐったりと項垂れる。
「……最悪だ……」
だが。
ほんの一瞬だけ。
指先が、また動く。
今度は――
さっきより、少しだけ滑らかに。
まるで、
確かめるみたいに。
「……」
自分で、それを見る。
止める。
ゆっくり、拳を握る。
「……もう一回くらいなら――」
言いかけて。
硬直。
そして――
さらに赤くなる。
「……忘れよ」
即座に封印。
深く息を吐く。
でも。
その呼吸が、
ほんの少しだけ“整いすぎている”。
一拍。
「……」
ふと。
“このままでもいいかもしれない”
そんな考えが、
一瞬だけ浮かぶ。
すぐに消える。
「……やめろ」
今度ははっきり、自分に言う。
境界堂。
今日もまた、
最適解は――
あとから、ちゃんと恥ずかしい。
ファニー「マスターのお父さんは?」
マスター「町工場のサラリーマンだよ」
シエル「……ここで急に一般人が来ましたね」
マスター「無口な人でねぇ」 「工具の音の中で、ずっと働いてる感じの人だよ」
ファニー「……なんか、想像つく」
マスター「見てるだけなんだよね」 「何も言わないけど」
一拍。
マスター「でも——ちゃんと見てる」
少しだけ、笑う。
マスター「あと、プリン狂い」
ファニー「急に軽くなった」
シエル「安定しています」




