5 自分で言わないと意味がない
■ファニーの領域
玄関。
冷たい床。
小さな靴。
小さな手。
――自分のものなのに、遠い。
声。
『うるさい!』
ビクッ。
『勝手に触るな!』
手を伸ばす。
振り払われる。
空っぽ。
胸が、ぎゅっとなる。
ファニー
笑おうとする。
「……あー、これね」
声が震える。
「懐かしいやつ」
でも。
足が動かない。
頭の中。
声が増える。
『空気読めよ』
『なんでそんなことするの?』
『嫌われるよ』
ファニー
呼吸が浅くなる。
「……やだな」
「これ」
ぽつり。
「私さ」
少しだけ。
本音。
「弱いの、バレたら終わりなんだよね」
沈黙。
「だから」
笑う。
無理やり。
「ずっと元気なフリしてた」
空間が。
ざわつく。
■シエルの領域
机。
白い光。
参考書。
赤ペン。
『まだ足りない』
『効率が悪い』
『感情は不要』
シエル
静かに座っている。
手が勝手に動く。
書く。
書く。
書く。
止まらない。
「……ああ」
小さく息。
「これですか」
声は冷静。
だが。
指先が震える。
『もっと最適化しろ』
『無駄を削れ』
『壊れても構わない』
一瞬。
視界がブレる。
自分の手。
黒く。
変質するイメージ。
シエル
目を細める。
「なるほど」
ぽつり。
「これが俺の恐怖」
一拍。
「制御不能」
「自分が、自分でなくなること」
ペンが折れる。
インクが滲む。
その黒が、一瞬だけ。
“自分の手に見える”。
■外側
マスター
壁にもたれている。
『あっさり抜けたな』
「まあねぇ」
覗き込む。
「うん、いい感じ」
『助けないのか』
マスター
首を振る。
「まだ」
「これはね」
少し笑う。
「自分で言わないと意味ないやつ」
■怪異領域
ファニー
膝を抱える。
指先が、わずかに震えている。
「……こわい」
飲み込む。
一度、言葉が止まる。
「……やだ」
顔を伏せる。
「嫌われるのが、怖い」
声が少しだけ歪む。
「私が元気じゃなかったら」
「私が、笑ってなかったら」
息を詰める。
「……誰も」
一拍。
喉が引っかかる。
「誰も、そばにいない気がして」
空間が、ぐにゃりと歪む。
シエル
目を閉じる。
呼吸を整える。
「……ええ」
小さく。
「怖いですね」
開く。
揺れは、ある。
「壊れるのが」
拳を握る。
白くなる指。
「自分が、じゃない」
一拍。
「関係が」
わずかに声が落ちる。
「積み上げたものが」
「全部、崩れるのが」
空間が共鳴する。
二つの恐怖。
重なる。
歪む。
混ざる。
声。
『羨ましい』
『どうして』
『どうしてお前たちは』
『帰る場所がある』
ファニー
顔を上げる。
涙、残ったまま。
シエル
視線を上げる。
揺れ、消しきらないまま。
二人。
同時に。
「「……違う」」
ファニー
袖で涙を拭う。
乱暴に。
「勝手にあるわけじゃない」
息を吸う。
「私が、ここにいたいって思ったから」
シエル
拳を握り直す。
震えを、そのまま押さえ込む。
「与えられたものではない」
低く。
「選んだ結果です」
二人。
視線が交わる。
重なる。
「「ここじゃない」」
一歩。
踏み出す。
「「境界堂だ」」
崩壊しかける世界。
世界は、割れていた。
音もなく。 だが確実に。
空が、ひび割れている。
ガラスじゃない。 もっと柔らかくて、もっと曖昧なもの。
“意味”そのものに、亀裂が入っている。
――だが。
『だめ』
『逃がさない』
『ひとりは嫌だ』
『――許さない』
『同じにしてあげる』
声が。
増える。
重なる。
歪む。
空気が、重い。
肺に入るそれは、 ただの酸素じゃない。
“誰かの感情”が混ざっている。
拒絶。 執着。 孤独。
それらが、 粘つくように喉に絡む。
光が、遅れる。
一瞬前の光景が、 空中に貼りついたまま、剥がれない。
人の輪郭が、二重にぶれる。
床が、沈む。
固体だったはずのそれは、 踏みしめた瞬間に、 ゆっくりと粘度を持ちはじめる。
ぐに、と。
世界が、“抵抗”を忘れていく。
ひび割れの奥から、 黒が滲む。
それは影じゃない。
光を奪うでもなく、 反射するでもなく、
ただそこにあることで、 “存在の輪郭”を曖昧にする。
黒が、滴る。
ぽたり。
音は、しない。
だが確かに、
“落ちたという結果だけが存在する”。
「……なに、これ」
「下が――」
遅い。
黒が。
盛り上がる。
形になる。
指。
細い。
長い。
人の手。
でも。
関節が多い。
ありえない角度で曲がる。
一本。
二本。
十。
百。
無数。
床一面。
手。手。手。
ざわざわと。
音がする。
爪が。
床を引っかく。
カリカリカリカリ。
ファニー
後ずさる。
「やだ……」
その足首。
掴まれる。
ひやり。
冷たい。
ぬるい。
逃げた体温みたいな温度。
――その奥で。
一瞬だけ。
“誰かの記憶が、掠る”。
「やっ!」
引く。
離れない。
別の手。
袖。
髪。
指先。
触れる。
触れる。
触れる。
全部が。
“離さない”って言ってる。
シエル
腕を振る。
振り払う。
だが。
一つ切っても。
すぐ増える。
絡みつく。
巻き付く。
指の隙間に入り込む。
「……やめろッ」
眉が歪む。
初めて。
明確な嫌悪。
手が。
手を掴む。
力が入らない。
“操作される感覚”が蘇る。
『壊れても構わない』
声。
重なる。
黒い手が。
肘まで這い上がる。
『羨ましい』
『あたたかい』
『帰る場所』
『いいなぁ』
手が。
優しく撫でる。
頬。
首。
でもその力は。
少しずつ。
沈めるためのもの。
ファニー
呼吸が荒い。
「やめて」
笑えない。
もう。
誤魔化せない。
「やだってば……!」
手が。
口元に触れる。
塞ぐ。
「んっ……!」
声が出ない。
頭の中。
ぐちゃぐちゃ。
『嫌われるよ』
『ほら、また』
『いらない子』
手が。
引く。
下へ。
暗い方へ。
シエル
歯を食いしばる。
「離れろ……!」
だが。
腕が。
勝手に止まる。
黒い手が。
肩に触れる。
首に触れる。
耳元で。
囁く。
『楽になれ』
『制御しなくていい』
『壊れろ』
一瞬。
力が抜ける。
その隙を。
逃さない。
一気に。
沈む。
二人。
膝をつく。
手が。
背中を押す。
頭を下げさせる。
引きずる。
ずる。
ずる。
床が。
液体みたいに開く。
『一緒にいよう』
『ここなら』
『独りじゃない』
ファニー
涙が落ちる。
「……やだ」
小さい声。
でも。
消えない。
シエル
目を閉じる。
「……違う」
わずかに。
抗う。
だが。
手は止まらない。
増え続ける。
絡みつく。
沈める。
沈める。
沈める。
二人の体が。
半分、飲まれる。
黒い手。
それは、 掴んでいるだけじゃない。
“覚えている”。
触れた瞬間。
流れ込む。
知らないはずの記憶。
暗い部屋。 閉じたカーテン。 呼ばれない名前。
「なんで?」
誰にも届かなかった声。
別の手。
笑っている顔。 でも目が笑っていない。
「いい子だね」
褒められているのに、 なぜか消えたくなる感覚。
また別の手。
冷たい廊下。 遠ざかる背中。
追いかけられない足。
ファニー 息が止まる。
「……っ、これ……!」
知ってる。
知らないはずなのに。
“似ている”。
シエル 目を見開く。
「記憶の共有……いや、違う」
低く。
「“共鳴”だ」
黒い手が、囁く。
『ほら』
『同じでしょ?』
力が、強まる。
引くんじゃない。
“納得させるように”、沈める。
『ここなら』
『全部、分かるよ』
ファニーの指が、 一瞬だけ力を失う。
“分かってしまう楽さ”。
それを、 知ってしまう。
「……やだ」
言葉が、 少し遅れる。
シエルの腕。
動かない。
“抗う理由”が、 削れていく。
『選ばなくていい』
『考えなくていい』
黒が、 優しく包む。
温度がある。
“孤独じゃない温度”。
それが、 一番危険だ。
シエル 歯を噛み締める。
「……っ、これは……」
理解してしまう。
敵じゃない。
“逃げ場”だ。
だからこそ――
抜けられない。
空間。
静かに。
境界が、消える。
上も下も、 内も外も、
意味を持たない。
ただ一つだけ。
確定していることがある。
――“ここは、世界のふりをした何かだ”。
■外側
マスター
目を細める。
「……あーあ」
小さく笑う。
「これは」
一歩。
前へ。
「さすがにダメだねぇ」
『やっとか』
「うん」
息を吐く。
「そろそろねぇ」
――その瞬間。
空気が、音を忘れる。
風が止まる。
揺れていたものが、
揺れる理由を失う。
『……』
一歩。
マスターに重なる。
輪郭が、溶ける。
境界が、曖昧になる。
声。
重なる。
「じゃあ」
『やろうか』
同時。
「「ここからは――」」
一つの声。
世界が止まる。
完全な静止ではない。
“観測待ち”の静寂。
マスター。
立っている。
何も変わらない。
服も。
姿も。
表情も。
ただ一つ。
目。
ゆっくりと。
色が滲む。
緑。
揺れる。
溶ける。
混ざる。
深い。
底の見えない。
紫。
けれど、暗すぎて。
ほとんど黒に見える。
光を、吸っている。
覗き込めば。
底の方で、わずかに揺れる。
赤と青。
それすら、沈んでいる。
影。
足元で。
わずかに遅れてついてくる。
『……なに?』
その問いは。
恐怖ではなく。
理解の拒否。
マスター
――いや。
“それ”。
静かに。
「羨ましい?」
声が落ちる。
低くも高くもない。
なのに。
どこから聞こえているのかわからない。
一歩。
近づく。
足音は、ない。
空間が。
勝手に道を空ける。
「そりゃそうだ」
振り返る。
倒れている二人。
その視線だけは。
変わらない。
いつもの。
少しだけ優しい目。
「この子たちが」
「頑張った結果だからね」
再び。
怪異へ。
視線。
紫が。
わずかに揺れる。
「君のじゃない」
一拍。
ほんの少し。
首を傾ける。
その仕草だけが。
妙に人間らしい。
だからこそ。
怖い。
そして。
やわらかく。
「だから」
声が。
わずかに重なる。
遅れて。
同じ言葉が、
もう一度、同時に鳴る。
「「返してもらうね」」
まばたき。
一拍、遅れる。
『恐怖を見ろ!』
その声と同時。
黒い手が。
一斉に。
跳ねる。
床から。
壁から。
空間そのものから。
伸びる。
伸びる。
伸びる。
粘つく音。
ずるり。
ぬたり。
絡み合いながら。
一本じゃない。
束。
塊。
“腕の集合体”が
境界融合体へ。
殺到する。
空間が歪む。
押し潰すように。
覆いかぶさる。
逃げ場はない。
四方八方。
全部が“手”になる。
「マスター……!」
声が届かない。
「避け――」
その言葉も。
途中で消える。
『怖いだろう』
『痛いだろう』
『逃げたいだろう』
『ほら』
『ほら』
『ほら』
黒い手が。
融合体に触れる。
頬。
肩。
腕。
指先。
ゆっくりと。
確かめるように。
撫でる。
――その瞬間。
止まる。
ぴたりと。
全ての手が。
固まる。
『……なんで?』
融合体は
動かない。
避けない。
払わない。
ただ。
触れられている。
それだけ。
黒い手。
震える。
押し込もうとする。
力を込める。
沈めようとする。
侵そうとする。
だが。
入らない。
表面で止まる。
皮膚の一枚手前。
それ以上。
“定義が許さない”。
首を傾ける。
その動きだけで。
触れていた手が。
ずるり、と
勝手に滑り落ちる。
『なに……これ……』
『なんで』
『なんで入れない』
焦り。
混ざる。
恐怖が。
逆流する。
黒い手が。
形を変える。
今度は。
突き刺すように。
鋭く。
無数の指が。
槍のように。
一斉に貫く。
音もなく。
命中。
――したように見える。
だが。
融合体の体。
ほんのわずか。
“遅れてそこにある”。
刺さっているのに。
刺さっていない。
位置が。
ずれている。
現実が。
合っていない。
影。
足元。
遅れて。
別の場所に存在している。
『やめろ』
『やめろ』
『やめろ』
さっきまでの“与える側”が。
完全に崩れる。
静かに。
口を開く。
「それ」
「違うよ」
一歩。
踏み出す。
黒い手が。
勝手に道を開ける。
触れられない。
触れても意味がない。
理解する。
『怖い』
初めて。
本音。
融合体。
淡々と。
「それは恐怖じゃない」
一拍。
「――終わったものだ」
さらに。
「今のこの子たちには、関係ない」
黒い手。
一斉に。
ひび割れる。
内側から。
崩れる。
『――あ』
形が保てない。
声が散る。
最後に。
静かに。
「――もう終わってる」
光。
音が戻る。
世界が。
“元の定義”を思い出す。
光。
戻る。
境界堂。
静か。
ソファ。
そして。
マスター。
座っている。
いや。
座ったまま、止まっている。
完全に。
微動だにしない。
目。
開いている。
焦点。
合ってない。
髪。
ちょっと逆立ってる。
全体的に。
白い。
燃え尽き。
完全燃焼。
ファニー
「……」
シエル
「……」
二人。
同時に一歩引く。
「え、なにこれ」
「芸術作品ですか?」
マスター
反応なし。
ただ。
鼻から。
すー……っと赤い線。
異様に鮮やか。
白とのコントラスト。
無駄に美しい。
「いやいやいやいや」
「赤だけリアル!!」
シエル
冷静に近づく。
指でつつく。
ほっぺ。
ぷに。
反応なし。
「……生きていますか?」
「……」
沈黙。
0.5秒。
1秒。
2秒。
突然。
カクン。
首だけ動く。
「うわ動いた!?」
マスター
ゆっくり。
ぎこちなく。
口が動く。
「……いやぁ」
一拍。
「ちょっと」
「カッコつけすぎた…、かなぁ」
「遅いわ!!」
「再起動に時間がかかっていますね」
マスター
まだ白いまま。
目は虚無。
「でもさ」
止まる。
一拍。
もう一拍。
ぎこっ。
顔だけ。
わずかに動く。
「ふた……り、とも」
噛む。
「……すっ」
息を吸うのも遅い。
「ごく」
喉が鳴る。
「すっごく」
止まる。
視線。
ようやく合う。
「……カッコ」
一瞬、途切れる。
「よかっ……た」
最後だけ、少しだけ通る。
「……よ?」
沈黙。
ファニー
横目で。
「聞いた?」
シエル
無表情で。
「聞きました」
「今のさ」
「はい」
二人。
同時に。
顔真っ赤。
「「褒められた」」
マスター
そのまま。
白いまま。
ニヤァ……
しようとして。
顔の筋肉が動かない。
「顔動いてないのにニヤつこうとしてる!!」
「高度なホラーです」
「……ご褒美に」
一拍。
「プリン」
「無理だろ!!」
「まず血を止めてください」
「……だいじょうぶ」
鼻血。
まだ流れてる。
「大丈夫じゃない色してる!!」
シエル
ため息。
ティッシュを詰める。
「んぐ」
声が変。
ファニー
吹き出す。
「ぶっは!!」
「……威厳が崩壊しています」
マスター
親指立てる。
無言。
白いまま。
沈黙。
ファニー
小さく笑う。
「……でもさ」
シエル。
「ああ」
「帰ってきたね」
「ええ」
マスター
ぼそっと。
「おかえり」
一瞬だけ。 空気が柔らぐ。
――その直後。
マスター。
スッ……
横に倒れる。
「マスターーー!!」
「今度こそ本当に落ちました!!」
屋根の上
シロちゃん。
尻尾ゆらり。
下を見て。
一言。
「……燃え尽きたの」
鈴。
ちりん。
「だが元気じゃな」
夜空。
静か。
「……よいことじゃ」
マスター「燃えつきた… 真っ白にな…」
ファニー「そこでネタに走るの」
シエル「意外と余裕ありますね」
マスター「人生で一度は言ってみたいワードだからねぇ」「今言わなきゃいつ言うの」「今でしょ!」
ファニー「また突っ込んできた」
シエル「そして古いです」
マスター「ひどい」




