エピローグ 紅茶
朝。
境界堂のキッチン。
「あいたー!」
金属音。
ファニーとシエルが駆け込む。
マスターが立っていた。
右手から血がだらだら流れている。
「マスター!?」
「……出血量が多い」
マスターは困ったように笑う。
「大丈夫だよ。出血のわりには酷くないから」
「いや全然大丈夫に見えない!」
「ちょっとスライサーで中指を一緒にスライスしちゃっただけだよ」
「それ“ちょっと”じゃない!!」
シエルがマスターの手を取る。
静かに観察する。
「……やけに冷静ですね」
「だって半年に一回の定期だし」
「定期!?」
「うん。スライスしてた時に」
少し考える。
「明日の天気どうだったかなって思って」
「その瞬間」
指を見る。
「一緒にスライスされた」
沈黙。
「原因がゆるい!」
「危機管理能力の欠如を確認」
ファニー、頭を抱える。
「なんでそんなイベントみたいに言うの!」
シエルは静かに包帯を巻きながら言う。
「……自分を大事にしてください」
マスターが少し驚いた顔をする。
「……そっか」
少しだけ、視線が落ちる。
「うん」
「ごめんね」
朝食はすでにテーブルに並んでいる。
だがキッチンはまだ途中だった。
「昼食の準備が止まっています」
「今日はもういいでしょ!」
そのとき。
後ろから低い声。
「……その癖、まだ直っていないのか」
クロードが腕を組んで立っていた。
「クロード、おはよう」
クロードはキッチンを一瞥する。
血。包帯。未完成の材料。
「昼食は俺が作る」
「え?」
「珍しいねぇ」
クロードは淡々と言う。
「カレーだ」
「おっ」
「……」
「いいねぇ」
「じゃあ僕はバーモントの甘口」
「私はジャワの辛口!」
「エクスブレンドの中辛です」
「甘口のキーマカレーだ」
沈黙。
三人の視線が
ゆっくりクロードへ集まる。
「え、急にオシャレ」
「市販ルー論争から一段上にいる」
「監察官、ズルいねぇ」
クロードは腕を組んだまま。
「合理的だ」
「甘口は香りが立つ」
「キーマは火が通るのが早い」
「……戦場向きですね」
「戦場でカレー作るな」
その時。
「あ、懐かしー」
全員が振り向く。
カノンが鍋を覗き込みながら笑う。
「ワタクシがお腹空いたってギャン泣きしてた時に」
「パパが秒でつくってくれたやつだ」
空気。
止まる。
「秒?」
「クロードが?」
「料理……したんだ」
「必要だった」
一瞬だけ、間。
「……夜中の三時だった」
「優しいじゃん!」
「父性を確認」
「任務外だ」
「じゃあ今日はそれお願いしよっかな」
「思い出の味、再現!」
「証言者はいる」
「パパ、がんばって」
「……」
深く息を吐く。
「キッチンを空けろ」
昼。
境界堂。
鍋の中で
香りが踊る。
玉ねぎの甘い匂い。
だがスパイスが立つ。
キーマカレーが皿に盛られる。
湯気。
カノンがひと口。
止まる。
「……これ」
「同じ配合だ」
「ほんとに覚えてたんだ」
一拍。
「子供は」
「同じ味を覚える」
「監察は記録する」
「……必要なものは忘れない」
「……クロード」
「なんだ」
「それ」
「完全に父親の台詞だよ」
「黙れ」
ファニー小声
「愛じゃん」
シエル小声
「愛だな」
マスターが笑う。
「カレーって平和だねぇ」
その時。
心の奥。
『ふーん』
(どうした)
『君たちって』
『こういう時間』
『好きなんだね』
(好きだよ)
少し沈黙。
『……』
『悪くない』
(だろう?)
窓の外。
都市は動いている。
怪異も
観測も
まだ終わらない。
それでも。
境界堂では
今日も鍋が
ぐつぐつ鳴っている。
そして。
この家にはもう一人
カレーの匂いを覚えた観測者がいる。
……
…
次の日。
朝の境界堂。
障子から光。
湯気。
平和。
「ふあ〜、マスターおはよう」
「おはようございます。マスター」
「ああ、おはよう。今日もいい天気だな」
やけに爽やか。
風まで似合っている。
沈黙。
ファニー、目を細める。
シエル、眼鏡を押し上げる。
「……なんか違う」
「違和感があります」
その時。
コツ、コツ。
階段から降りる靴音。
クロード。
「おまえ、何してるんだ…」
「なんのことかな?」
にこやか。
クロードの視線、鋭い。
肩をすくめるマスター。
「僕が起きないから、ちょっと借りてるだけさ」
「借りてる?」
「……空白体ですか?」
「戻れ」
「嫌だねぇ」
椅子に座り、紅茶を飲む。
優雅。
クロードが低く言う。
「……似合わん」
「こういう普通の朝、やってみたかったんだ」
「理由がかわいい!」
「だが不法占拠です」
「あと五分」
「駄目だ」
「え〜?」
「っと時間切れか」
指先がピクリと動く。
空白体、瞬き。
その瞬間。
「……ん?」
マスターが目を覚ます。
目をこする。
「おはよう…?」
「マスター!」
「起床確認」
「……今、僕紅茶飲んだ?」
「飲んだ」
「優雅に」
「乗っ取られていた」
「えぇ」
自分の手を見る。
紅茶カップ。
「味は?」
「美味しいです」
「悔しいけど」
「……完璧だ」
「なんで!?」
ソファの上。
シロが目を開ける。
「ふむ」
尻尾ゆらり。
「優雅じゃったな」
「知ってた!?」
「観測者じゃからの」
「止めて下さい」
「面白かったのじゃ」
……
…
夜の境界堂
居間。
マスターが本を読んでいる。
静かな夜。
その時。
心の奥。
『なあ』
(嫌な予感)
『コンビニ行こう』
(行かない)
『プリン食べたい』
『身体貸して』
(断る)
沈黙。
次の瞬間。
マスターの体が
すっと立ち上がる。
「……え?」
腕が勝手に動く。
靴を履く。
「え、ちょっと」
心の奥。
『借りるね』
「おい!」
「前は乗っ取りなんて出来なかったじゃないか!」
『ああ』
少し楽しそうな声。
『君が鏡に連れ去られた時』
『コツを掴んでね』
「そんな副産物いらない!」
『行こう』
玄関。
ガチャ。
『待てえええ!』
夜のコンビニ
ウィーン。
自動ドア。
店員
「いらっしゃいませー」
マスターの身体が歩く。
しかし中身は空白体。
「ほう」
店内を見回す。
「いいね」
「夜の補給基地」
「静かな戦場だね」
『ただのコンビニ!』
プリン棚。
「あった」
カスタードプリン。
『それ好き』
「知ってる」
「ついでに」
プリン。
プリン。
プリン。
『買いすぎ!』
境界堂。
帰宅。
テーブル。
プリンが並ぶ。
「マスター何それ」
「大量のプリンですね」
「戦利品」
「誰と戦った」
スプーンを取る。
一口。
「…ん」
少し止まる。
「甘い」
『だから言った』
二口目。
三口目。
「完全にハマってる」
「依存の兆候ですね」
『…僕も食べたいのに』
「ん?」
少し笑う気配。
「なるほど」
『?』
「じゃあこうすればいいねぇ」
スプーンが、口に入る。
やわらかい。
甘い。
舌の上でほどける。
『……あ』
思考に、味が混ざる。
カスタードのコク。 カラメルのほろ苦さ。
全部、流れ込んでくる。
『ちょっと待ってこれ』
『なんで僕も味わってるの!?』
視界が、ぶれる。
――引かれない。
重なる。
ぴたりと。
焦点が、合う。
もう一つの視界と。
温度。 触覚。 呼吸。
全部が“共有”される。
『え、ちょ、これ』
『やばくない?』
空白体が、もう一口すくう。
「うん」
静かな声。
「やっぱり美味しい」
その声が。
やけに、近い。
内側に。
『近っ……』
『いやこれ距離感おかしいって』
鼓動が、ずれる。
一拍。
混ざる。
身体の感覚が、くっきりする。
指先。 舌。 喉。
全部が“自分のものみたいに”分かる。
『これさ』
『これさこれさこれさ』
『境界、曖昧になってない?』
スプーンが、また口へ。
甘さが広がる。
『……あ』
一瞬。
抵抗が、遅れる。
『……いや』
『いやいやいや』
『流されるな僕』
でも。
美味しい。
その感覚が、 思考に、静かに染みる。
空白体が、ふっと笑う。
「ね?」
その“ね”が。
やけに、納得できる。
『……う』
言葉が、引っかかる。
さっきまでの拒絶が、 少しだけ、鈍る。
『……まあ』
『美味しいのは、分かるけど』
『いやでも違う違う違う』
その瞬間。
光。
境界が、鳴る。
\ 強制フュージョン /
「うわっまぶし!」
「いきなり何ですか」
視界が――
割れない。
溶ける。
すっと。
区別が、消える。
『……あ』
思考が、滑る。
抵抗が、 形を保てなくなる。
“自分”と“向こう”の境目が
曖昧に、崩れる。
甘さが、広がる。
そのまま。
感情ごと。
『……あー』
息が、揃う。
『なるほどね』
違和感が。
違和感じゃ、なくなる。
口角が、ゆっくり上がる。
「……ふふっ」
声が、重なる。
「これなら」
スプーンを持つ手が、自然に動く。
「一緒に食べられるね」
ほんの少し前まで、
『違う!』って叫んでたはずなのに。
その温度は、
もう、残っていない。
プリンをすくう。
「うん、おいしいねぇ」
「ほら、君たちも食べなよ」
「あーん」
差し出されるスプーン。
「ええ!?」
「状況が理解不能です」
「甘いぞ」
紫の瞳が細くなる。
「なぜ俺にも」
「観測だ」
「研究ではないと」
融合体は二人の肩を強引に引き寄せる。
スプーンが更に近づく。
蠱惑的な笑顔。
紫が妖しく光る。
「ほら」
「ちょっと待って!」
「距離が近いです」
その瞬間。
光が揺れる。
「時間」
「三分!」
\フュージョン解除/
すうっ。
境界が、ほどける。
重なっていたものが、 静かに離れる。
――はずなのに。
甘さだけが、残る。
舌の奥。 喉のあたり。
さっきまでの感覚が、 薄く、尾を引く。
マスター。
「……あ、戻った…」
呼吸が、半拍遅れる。
指先が、わずかに熱い。
スプーンを持っている。
その重さが、 妙に“しっくり来る”。
『……』
内側。
静か。
でも。
完全には消えていない気配。
視界の奥に、 ほんの薄く、 もう一人分の“余熱”。
ファニーの目の前。
プリン。
差し出されたまま。
沈黙。
ファニー 「……」
シエル 「……」
マスター 「……」
一拍。
「……なにしてたっけ」
自分の声が、
少しだけ他人行儀に聞こえる。
スプーンが、微かに動く。
――そのまま、口に運びそうになる。
「……っ」
止める。
指に、意識を戻す。
「一人で何してんの」
「違う」
声が少し遅れる。
「言い訳は無意味ですね」
「僕じゃない!」
「いやマスターの顔」
「マスターの手」
「融合体の僕!」
でも。
その言い訳の途中で。
一瞬だけ。
さっきの感覚が、蘇る。
“あのまま食べればいい”
自然に、そう思いかける。
「……っ」
首を振る。
振り払う。
心の奥。
『楽しかった』
間。
『……美味しかったし』
「やめろ」
小さく、低く。
でも。
完全には否定しきれない。
舌に残る甘さが、 裏切る。
『またやろうか』
「絶対やらない」
即答。
でも。
その速さが、ほんの少しだけ、怪しい。
ファニー、小声。
「……ちょっと名残あるよね」
シエル、小声。
「残留影響を確認」
「ない!」
一拍。
「……ないから!」
スプーンをテーブルに置く。
カタン。
でもその手が、ほんの少しだけ名残惜しそうに離れる。
ソファの上。
シロが目を開ける。
「ふむ」
尻尾がゆらり。
「味は記録されたのう」
「やめて」
「観測とは、そういうものじゃ」
「ほんと、やめて」
顔がじわじわ赤くなる。
さっきの自分。笑ってた自分。
距離の近さ。声の温度。
全部。
“自分の記憶として”残っている。
「……うわ」
小さく。
「最悪だ」
でも。
ほんの少しだけ。
口の中に残った甘さが、
否定を、鈍らせる。
境界堂。
今日も平和。
ただし。
未来の自分は
だいたい
ロクなことをしない。
それでも。
ここにいる限り、
たぶん大丈夫だ。
境界堂の朝は
だいたい
紅茶から始まる。
マスター「僕の大好物はプリンだよっ!はははっ!」
ファニー「やけくそだな」
シエル「原因の八割は未来の自分です」
カノン「プリン戦争です!」
クロード「片付けろ」
マスター「僕の扱い雑じゃない?」




