6 シュークリームは逃げる、観測は残る
昼。
境界堂。
ソファーの上。
白い猫が丸くなっている。
カノンがしゃがみこむ。
「あっシロちゃん!」
「この前は空白体現象に気を取られていましたが、あなたもすっごく気になるのです!」
「とりあえず撫でさせてもらっていいです――!?」
触れる。
一瞬。
白猫の瞳がこちらを見る。
《接続》
世界が砕ける。
海。
青い水平線。
山。
深い霧の谷。
風だけが吹く大地。
ぽつんと建つ家。
街。
ネオン。
都市。
夜の光。
観測。
観測。
観測。
観測される。
視界が洪水になる。
「っ……!!」
情報。
時間。
場所。
出来事。
膨大な観測の記録。
自我が揺れる。
飲み込まれる。
その時。
一瞬だけ。
違う映像。
黒い空。
砕けた都市。
境界が歪む空間。
そこに立つ影。
マスター。
しかし姿が違う。
瞳が紫に光る。
背後に広がる
空白の影。
そして。
世界が
少しだけ
“抜け落ちている”
境界融合体。
「……え」
次の瞬間。
―ちりん。
鈴の音。
世界が戻る。
フローリングの床。
昼の光。
白猫。
「……ひゃあっ!」
バタン。
卒倒。
「カノン!?」
「大丈夫ですか?」
シロは静かに目を開く。
ゆっくりと尻尾を揺らす。
「オトメの秘密を見ようとするなど」
小さく息。
「なっとらんのじゃ」
奥からマスター。
「おーい。大丈夫か?」
倒れているカノン。
白猫を見る。
少し考える。
「…撫で心地が良すぎた?」
「そんなわけあるか!」
「倒れる理由として不十分です」
数分後。
カノン。
よろよろ起き上がる。
汗だく。
視線の先。
白猫。
「……かわ」
息を吸う。
「かわいい猫ちゃんなのに……」
額の汗。
「情報量が世界でした……」
シロ
ゴロゴロ。
「礼儀を知らんのう」
夕方。
帰り道。
カノン。
フラフラ。
歩く。
ノートを抱えながら
目がぐるぐる。
「さっきの……」
「観測情報……」
「規模……」
「猫……?」
立ち止まる。
思い出す。
洪水の中で見たもの。
砕けた都市。
紫の瞳。
空白の影。
「……」
顔が青い。
「未来……?」
風が吹く。
カノンは首を振る。
「いえ」
深呼吸。
「まずは整理です……」
しかし歩きながら一言。
「猫が世界観測ってなんですか……」
……
…
そして数日後。
境界堂。
玄関。
ガラッ!
カノンが勢いよく入る。
目がキラキラ。
テンションMAX。
「こんにちは!!」
「うわ元気!」
「例の猫ちゃんは!?」
マスター
新聞をめくる。
「散歩」
「え」
沈黙。
「……え?」
「現在不在です」
カノン
固まる。
震える。
両手を天に。
「あの時にチャンスを逃さなければぁー!!」
床に崩れ落ちる。
「研究者の顔してる!」
「完全に捕獲対象の目でした」
マスター
コーヒー飲む。
「また来るだろ」
外。
どこかの屋根。
シロが丸くなっている。
「落ち着きのない人間じゃのう」
遠くに街。
人の生活の音。
カノンはすでに帰った。
マスターの家の窓から
ファニーとシエルの声が聞こえる。
シロは静かに目を開ける。
金色の瞳。
鈴が揺れる。
ちりん。
小さくつぶやく。
「……やれやれ」
尻尾がゆらり。
「気づいたかのう」
その視線。
さっきまでカノンがいた方向。
少しだけ笑う。
「まあよい」
空を見上げる。
雲の流れ。
遠くの月。
「観測とは」
小さく息。
「見ることではない」
「残すことじゃ」
「消えぬ形でな」
鈴がまた鳴る。
ちりん。
一瞬だけ。
空間に波紋。
遠くの街。
山。
海。
全部が同時に映る。
「……観測範囲、正常」
また丸くなる。
「昼寝じゃ」
………
……
…
昔。
まだマスターが小さいころ。
縁側。
白い猫が座っている。
マスターの母がお茶を置く。
「あなた、よく来るわね」
白猫は静かに尻尾を揺らす。
「観測対象がここにあるからのう」
母は普通にうなずく。
「そう」
少し間。
「この子?」
家の中で遊んでいる小さなマスター。
白猫の目が細くなる。
「そうじゃ」
母はお茶を飲む。
「この子、ちょっと変わってるのよ」
「知っておる」
「言葉を決めたがるの」
「ほう」
「『これはこう』って決めちゃうの」
縁側に風。
鈴が鳴る。
ちりん。
「それは」
少しだけ楽しそうに言う。
「面白い」
母が笑う。
「でしょう?」
……
…
ある日。
幼いマスターがシロを見る。
「猫」
と言う。
シロが返す。
「猫ではない」
「じゃあ」
少し考える。
「観測猫」
「……ずっと見る猫」
「…まあ」
小さく笑う。
「それでもよい」
……
…
夕方。
縁側。
風がゆっくり流れている。
白い猫。
シロが丸くなっている。
マスターの母が洗濯物を畳んでいる。
近くで小さなマスターが庭を走り回っている。
笑い声。
友達と鬼ごっこ。
母はその様子を眺めている。
ただ、にこにこ。
シロが言う。
「飽きぬのか?」
「なにが?」
「人間の営み」
子供たちの笑い声。
遠くで犬が吠える。
母は少し考える。
「うーん」
笑う。
「飽きないわね」
「なぜじゃ」
母は庭を見る。
子供たちが転ぶ。
また立つ。
また走る。
「幸せそうだから」
少し間。
「それを見るのが好きなの」
シロは目を細める。
「変わった人間じゃ」
母は笑う。
「よく言われる」
その時。
小さなマスターが縁側に来る。
「ねえ」
母を見る。
「どうしたの?」
「僕」
少し考える。
「…変?」
母は即答する。
「変ね」
「えー……」
母は優しく笑う。
「でもね」
頭を撫でる。
「あなたは」
少しだけ真面目な声。
「人の中に居なさい」
「?」
「あなたは外に立つ人じゃない」
庭を指す。
子供たち。
笑ってる。
「ここ」
「この中にいなさい」
「なんで?」
「あなたは」
少し考える。
そして言う。
「人を幸せにする顔をしてるから」
シロの鈴。
ちりん。
シロが小さくつぶやく。
「……なるほど」
母を見る。
「おぬし」
「観測者向きではないのう」
「でしょう?」
笑う。
「私はね」
空を見る。
「マグロみたいな人間なの」
「マグロ?」
「止まると死ぬの」
庭を見る。
「だから」
「人の幸せを見続けてる」
シロは静かに目を閉じる。
「…面白い人間じゃ」
………
……
…
午後。
境界堂。
インターホン。
ピンポーン。
「はーい?」
玄関。
マスターが開ける。
外に立っている女性。
榛色の髪、新緑の瞳。
どこか似た顔立ち。
手には箱。
にこにこ。
「こんにちはー」
「……母さん」
「来ちゃった」
箱を掲げる。
「シュークリーム買ってきたのよ」
母が入る。
ファニーとシエルがソファにいる。
ぱっと顔を明るくする。
「まあまあまあまあ!」
両手を合わせる。
「お友達が増えたのね!」
「えっ」
「……お友達ですか?」
母は嬉しそうに笑う。
「よかったわねぇ」
箱をテーブルに置く。
「たくさん買ってきたの」
ふたを開ける。
シュークリーム山。
「うわ!」
「物量」
その時。
ソファーの上。
白猫。
シロ。
母と目が合う。
「あら」
しゃがむ。
「あなたも来てたのね」
シロ
目を細める。
「若葉、久しいのう」
「会話してる!」
「既知関係ですか」
母は普通に頷く。
「元気そうね」
「観測は順調じゃ」
嬉しそうに笑う。
「それは良かった」
ファニー小声。
「マスター」
「お母さん普通に喋ってる」
マスター
シュークリーム食べながら。
「昔からだよ」
「耐性持ち」
母はふとマスターを見る。
少し優しい顔。
境界堂の中を見る。
友達。
猫。
賑やかな空気。
母
静かに言う。
「……よかった」
「なにが?」
にこっと笑う。
「あなた」
「ちゃんと人の中にいる」
少し沈黙。
そしてすぐ明るくなる。
「さあさあ!」
箱を押す。
「早く食べないと!シュークリームは逃げるわよ!」
「逃げない!」
「比喩ですね」
夕方。
テーブルの上。
空になった箱。
シュークリームの紙だけ残っている。
「ごちそうさまでした!」
「糖分補給完了です」
母はにこにこしている。
「よかったわ」
マスターを見る。
境界堂の中を見る。
友達。
猫。
笑い声。
母は満足そうにうなずいた。
「うん」
小さく。
「いいわね」
玄関。
母が靴を履く。
箱をたたんで袋に入れる。
振り返る。
「じゃあまたね!直人!」
手を振る。
「……え?」
「今、名前」
「直人って……」
「この子の名前よ?」
母は
少し誇らしそうに笑う。
二人
「えっ」
「あれ?僕言ってなかったっけ?」
「……うん」
「…マスターからは聞いていません」
ちょっと困った顔。
母は明るく笑う。
「もう、人間関係の基本は名前を知るところからよ!」
「いやいやいや」
「基本以前の問題です」
「私たち結構一緒に住んでるんだけど!?」
「半年以上ですね」
「……えーっと、ごめん?」
二人
「今さら!?」
「あらあら」
楽しそうに笑う。
そして、さらっと言う。
「じゃ、またね!」
「このあとね」
「お隣の佐藤さんのお姉さんの親戚の方に」
「遠い」
「お茶に誘われてるの」
「人脈広すぎる!」
母は笑う。
外。
夕方の光。
母が歩き出す。
玄関の中。
「……直人」
「直人さん」
二人
「ふーん」
「その反応やめない?」
二人
「やだ」
外。
屋根の上。
白猫。
シロ。
鈴が鳴る。
ちりん。
母が見上げる。
「あら」
少し笑う。
「あなたもお疲れさま」
「相変わらずじゃの」
「そう?」
空を見る。
夕焼けが広がっている。
「今日はいい日だったわ」
シロ
目を細める。
「観測記録にも」
静かに言う。
「そう残るじゃろう」
少しだけ間。
そして。
「……今日は、な」
母は笑う。
「大げさね」
歩き出す。
二歩。
三歩。
そのとき。
母がふと立ち止まる。
振り返る。
境界堂の方を見る。
少し首をかしげる。
「……あら?」
「どうした」
「今」
小さく笑う。
「もう一人いた気がしたの」
シロは何も言わない。
母は肩をすくめる。
「気のせいね」
また歩き出す。
夕方の街へ。
シロは屋根の上で
その背中を見送る。
鈴がもう一度鳴る。
ちりん。
小さく。
「気のせいではない」
誰にも聞こえない声で言う。
「ただ」
目を細める。
「まだ観測の外じゃ」
「…外にいるうちはな」
ファニー「どうして今まで言わなかったの」
シエル「合理的な説明を」
マスター「いや、別に秘密ってほどじゃないんだけどさ」
少し考える。
「……言うタイミング、逃してただけ?」
クロード「それを一般的には隠蔽と言う」
空白体「……逃したんじゃないよ」
一拍。
「“なくても困らない”って、どっかで思ってたんだろ」
沈黙。
カノン「ワタクシのシュークリームぅぅぅっ!!」
クロード「……後で買ってやる」
カノン「パパ大好き!」
ファニー「ちょろい!」
シエル「即落ちです」
マスター「いや、そこじゃなくない?」




