3 それは救いじゃない
夜の街。
駅前の通りから一本入った裏道。
古い雑居ビルの壁に、
街灯の光が薄く張りついている。
ビルの前で、一人の男が立ち止まった。
会社帰り。
くたびれたスーツ。
疲れた顔。
ふと、足元を見る。
ビルの壁に、大きな鏡が立てかけられていた。
引っ越しの残り物か、
それとも店の備品か。
とにかく、場違いなほど大きい。
男は何気なく覗き込む。
鏡の中に、
自分の姿が映る。
少し猫背。
ネクタイは緩んでいる。
男は小さくため息をついた。
その時。
鏡の奥で、
何かが動いた。
男は顔を上げる。
鏡の中に、
もう一人立っている。
自分の後ろには
誰もいないのに。
人の形。
だが。
顔がない。
つるりとした白い面。
目も、口もない。
それでも声が聞こえた。
優しく。
ゆっくり。
『迷える者よ』
男の体が固まる。
声は続く。
『あなたは間違っている』
男の胸がざわつく。
『苦しいでしょう』
『失敗ばかりでしょう』
男の喉が鳴る。
『大丈夫です』
『私の言うとおりにすれば』
『すべてうまくいきます』
男の目が、ぼんやりと濁る。
鏡の中の影が
ゆっくり頷く。
『まず』
『明日、会社を休みなさい』
『それから――』
男はゆっくり頷いた。
鏡の中の顔のない影が、
満足そうに揺れる。
………
……
…
古い雑居ビル。
夕方。
廊下の奥。
そこに立てかけられている。
巨大な鏡。
「うわ」
「デカ」
「……霊波あります」
『強いですね』
鏡の奥。
影が揺れる。
人の形。
だが。
顔がない。
つるりとした面。
そこから声が響く。
『導こう』
静かな声。
『迷える者よ』
マスターが一歩前へ出る。
「宗教勧誘なら」
肩をすくめる。
「お断りだねぇ」
廊下の奥。
巨大な鏡。
その表面で、影が揺れている。
顔のない怪異。
ファニーが信者の影を蹴り飛ばす。
影は砕け、黒い霧になって消える。
「キリないな!」
「本体は鏡です」
「反射霊波、上昇してます!」
鏡面が波打つ。
『人は弱い』
『導かなければならない』
マスターが一歩前に出る。
「そういうの」
肩をすくめる。
「好きじゃないなぁ」
鏡が揺れる。
『定義者』
「ん?」
『お前は知っているはずだ』
『人の愚かさを』
鏡の奥で信者の影が揺れる。
「うん」
「知ってる」
少し遠い目。
「僕もそうだった」
マスターは軽く笑う。
「それでもね」
「面白いんだよ」
『……』
鏡面が大きく波打つ。
「逃走します」
鏡がずるりと壁へ滑る。
「逃げる!」
マスターが手を伸ばす。
「ちょっと待ちなよ」
「まだ話終わってない」
指先が鏡に触れる。
その瞬間。
マスターの姿が
二重にブレる。
「えっ?」
『えっ?』
次の瞬間。
体が
沈む。
床ではない。
鏡の中へ。
「マスター!」
マスターの瞳が揺れる。
焦点が外れる。
そのまま
意識が落ちる。
パキン。
鏡面がひび割れる。
静寂。
そして。
そこに立っているのは
別人。
ゆっくり顔を上げる。
瞳の色が違う。
エメラルドではない。
ピジョンブラッド。
深い赤。
「全く」
ため息。
「僕、貧弱じゃないかな」
「……」
「本体は?」
空白体が肩をすくめる。
鏡を指差す。
「あいつに連れて行かれたねぇ」
鏡の奥へ。
■鏡世界
白い。
音もない。
何もない空間。
床も天井も境界が曖昧で、
ただ光だけが広がっている。
マスターはその中に落ちる。
音もなく着地する。
「……おや」
周囲を見回す。
無数の鏡。
大きさも形もばらばらの鏡が、
空間に浮かぶように並んでいる。
そのすべてに、
マスターの姿が映っている。
マスターは軽く瞬きをする。
「んー……」
腕時計を見る。
秒針が止まっている。
だが、
髪を揺らす空気は流れている。
マスターは少し考えて笑う。
「なるほどねぇ」
「外とは時間が違うか」
肩を回す。
「待つしかないやつだ」
その時。
遠くの鏡の一枚に、
わずかな違和感がある。
マスターが視線を向ける。
そこに映っているのは――
自分。
のはずだった。
だが。
瞳の色が違う。
エメラルドではない。
ピジョンブラッド。
深い赤。
マスターは一瞬だけ首を傾げる。
「……」
そして小さく笑う。
「似てるねぇ」
特に気にした様子もなく、
視線を外す。
その瞬間。
鏡の像は、
いつものマスターに戻っている。
白い空間の奥で影が揺れる。
人の形。
だが。
顔がない。
つるりとした面。
そこから声だけが響く。
『人は愚かだ』
『導かねばならない』
『私の言葉が救いだった』
鏡の奥に。
ぼんやり浮かぶ影。
信者たち。
『教祖様……』
『導いてください……』
声が重なっていく。
マスターはその光景を見て、
少し困った顔をする。
「……あーあ」
頭をかく。
「重いねぇ」
『彼らは救われた!』
「いや」
軽く首を振る。
「考えるのやめただけだね」
『人は弱い!』
『私の言う通りにすれば全てうまくいく!』
マスターが笑う。
「それ」
指を立てる。
「救いじゃないよ」
『何?』
「支配だ」
静かに言う。
「人はさ」
鏡の一枚に映る自分を見る。
「勝手に転んで」
別の鏡を見る。
「勝手に立つから面白いんだ」
怪異が震える。
鏡が軋む。
信者の影が揺れる。
『だから世界は失敗する!』
怒声が空間を震わせる。
マスターは肩をすくめる。
「それもまた人生」
少し笑う。
「面白いじゃない」
白い空間に沈黙が落ちる。
その時。
遠くの鏡の一枚に、
わずかな波紋が走る。
マスターがちらりと見る。
「……お」
小さく呟く。
「迎えに来たかな」
マスター「同級生からの久しぶりの連絡は危ない」
ファニー「地雷確定」
シエル「“いい話がある”ですね」
カノン「怪異的誘導!」
マスター「で、最後にこう来る」
少し間。
「“導かれませんか?”」
沈黙。
ファニー「蹴る」
シエル「解析して破壊」
カノン「捕獲します!」
クロード「割る」
マスター「満場一致で物理だねぇ」




