番外編「ある朝の境界堂」
■境界堂・一ヶ月後
朝の光が、窓から静かに差し込む。
紅茶の香りが部屋を満たしていた。
「うーん、いい朝ー!」
ファニーが大きく伸びをする。
「あれ?」
鼻をひくりと動かす。
「……紅茶?」
窓辺ではマスターがカップを傾けていた。
「うん。おいしいねぇ」
瞳は鮮やかな赤。
左袖は空のまま。
テーブルの端には義手が静かに置かれている。
ファニーは一瞬だけ固まった。
「……ねえ」
じっとマスターを見る。
「空白体でしょ」
『正解』
口元が柔らかく緩む。
「僕もいるよ。だから同時運転」
「うわっ!」
ファニーが身を引いた。
「同じ口で交代しながら喋らないで!」
シエルは静かに頷く。
「共存状態が安定してきたようですね」
ふわり、と左肩の切断面から白い光が滲む。
肘。手首。五本の指。
半透明の左腕が、ゆっくりと形を成していく。硝子細工のような白い腕。
「また生えた!!」
ファニーが思わず叫ぶ。
白い左手は何事もないように紅茶のポットを持ち上げた。
とぽ。
とぽ、とぽ。
紅茶が静かに注がれていく。
「便利だねぇ」
『前より上手になったよ』
「まだ僕も驚いてるけどねぇ」
シエルは興味深そうに観察する。
「発現精度が以前より向上しています」
『そうだ』
空白体が何か思いついたように言う。
『これもできるかな』
半透明の左腕が、ゆっくり薄くなっていく。
指先、手のひら、肘、輪郭まで光へ溶ける。
やがて左腕は完全に見えなくなった。
それでも、ポットだけが宙へ浮き、紅茶を注ぎ続けている。
とぽ、とぽ。
ファニーが叫ぶ。
「消えたぁぁぁ!!」
『成功』
どこか得意そうな声。
「いや成功じゃないから!」
『昨日できなかったんだけど』
「できたねぇ」
マスターも苦笑する。
「僕も初めて見たよ」
シエルは静かに分析する。
「霊的投影そのものを不可視化したのでしょう」
「つまり能力が増えたってこと?」
『たぶん』
「たぶんって!」
「僕が味を見る」
『ぼくが手を動かす』
見えない左手が器用にスプーンを持ち上げる。
『細かい作業は任せて』
「僕はのんびりする係」
『それ違う』
ファニーが思わず吹き出す。
「仕事分担おかしいでしょ!」
左手がカーテンを少しだけ開ける。
朝日が部屋へ差し込んだ。
シエルは静かに呟く。
「同時に別の作業ができるということですか」
「そういうことだねぇ」
ファニーは真顔になる。
「それ普通に強くない?」
シエルも頷いた。
「戦術的価値は高いでしょう」
『でも』
少しだけ声が弱くなる。
『長く透明なのは疲れる』
「燃費悪いねぇ」
その言葉と同時に、見えない左腕が再び白い輪郭を取り戻す。
半透明の腕が静かに姿を現した。
「透明よりこっちが楽みたい」
『まだ練習中』
ファニーが腕を組む。
「成長してるんだ……」
「少しずつねぇ」
赤い瞳がゆっくり揺れる。
緑色が少しずつ戻ってくる。
『またあとでね』
「うん」
その一言を最後に、瞳は完全にエメラルドグリーンへ戻った。
同時に、半透明の左腕も指先から静かに光へほどけていく。そして、朝日に溶けるように消えた。
マスターは一度だけ瞬きをする。
「……まだ少し不思議な感じはするけど」
胸へそっと右手を当てる。
「前みたいに記憶は飛ばなくなったねぇ」
『ちゃんと繋がるようになったから』
穏やかな声が返る。
ファニーが目を丸くする。
「え?前は交代したら覚えてなかったじゃん!」
「最近は」
マスターが少しだけ笑う。
「僕が見たことも」
『ぼくが感じたことも』
「お互い分かるようになってきた」
シエルが静かに頷く。
「同期率が向上しているようですね」
「便利だけど」
マスターが苦笑する。
「たまに考えてることまで流れてくるから困る」
『昨日、冷蔵庫のプリン食べた』
「……今言う?」
『美味しかった?』
「美味しかった」
ファニーが勢いよく突っ込む。
「夫婦か!!!!」
マスターは照れくさそうに笑う。
「まあ」
少しだけ間を置く。
「結局どっちも僕だからねぇ」
『仲良くやってるよ』
ファニーは頭を抱えた。
「そこが一番ややこしいのよ!!」
マスター「でもちょっと口だけ疲れるねぇ」
『二人で使ってるからねぇ』
ファニー「同時に同じこと喋ればいいんじゃない?」
シエル「腹話術のようなものですね」
マスター「……あっ」
一拍。
窓辺へ移動する。
マスター、にっこり。
「みなさん、こんにちは!」
『こんにちはでーす!』
「今日は番外編を読んでいただき──」
『ちょっと待った!』
「え?」
『それよりぼくの新しい特技見て!』
「いや今あとがき!」
『透明化、もう一回やるから!』
「やらなくていいの!」
『見たいでしょ?』
「勝手に進行しない!」
『えー』
ファニーが腕を組む。
「だから二人で喋るのやめなさいって」
シエルの小さくため息。
「司会が二人いる番組ほど進行しないものはありません」
マスター「ごほん」
『ごほん』
「「お読みいただき、ありがとうございました!」」
一拍。
『……言えた』
「最後だけ息ぴったりだったねぇ」
ファニー「最初からそれやって!」
シエル「結局できるのですね」
二人「「えへへ」」




