11-6 観測者ではなく
■境界堂・退院の日
境界堂の扉が、カチャリ、と小さく鳴る。
柔らかな陽射しが玄関から差し込み、見慣れた床を明るく照らしていた。
マスターは一歩、中へ足を踏み入れる。
「やっと帰ってこれたー」
右腕を大きく伸ばし、そのまま背中を反らす。
ごきり。
身体の奥で小さく音が鳴った。
「ちょっ!」
ファニーが慌てて駆け寄る。
「無理しないでよ!?まだ退院したばっかりなんだから!」
口では怒っているのに、その表情はどこか安心しきっていた。
「ごめんごめん」
マスターは苦笑しながら肩をすくめる。
店の奥では、シエルがコーヒーを机へ置いていた。
「おかえりなさい」
変わらない声。
変わらない所作。
湯気の立つカップ。紙をめくる音。窓から吹き込む風。
境界堂は、何一つ変わっていない。
マスターは事務所をゆっくり見渡した。
本棚。ソファ。自分のデスク。
一つ一つを確かめるように眺めてから、小さく笑う。
「……やっぱり、ここが一番落ち着くねぇ」
その時だった。
事務所の奥。
陽の届かない場所に、一匹の白猫が静かに座っていた。
白い体。金の瞳。
シロは何も言わず、じっとマスターを見つめている。
病室とは違う静けさが、店内をゆっくり包み込んだ。
ファニーもその視線を追い、
「あ……」
と小さく声を漏らす。
シエルも静かに姿勢を正す。
マスターだけが、いつも通り軽く手を振った。
「やあ」
シロはしばらく黙っていた。
やがて静かに口を開く。
「……ぬしは、人間を選んだの」
その声音には責める色も、惜しむ色もない。
ただ事実を告げるような響きだけがあった。
「妾は過去、多くの観測者を見届けてきた。ぬしもまた、その候補であった」
その視線が、左肩へ落ちる。
「じゃが、力を失った今……観測者としての道は閉ざされた」
静かな沈黙。
「失格じゃ」
空気が少しだけ重くなる。
ファニーは思わず拳を握った。
シエルも何も言わない。
そんな中で、マスターだけが少し考えるように首を傾げた。
「そっか」
そして、いつもの笑顔を浮かべる。
「じゃあ、クビだねぇ」
「軽い!」
ファニーのツッコミが飛ぶ。
「その受け止め方はどうなんですか……」
シエルも珍しく困ったように眉を寄せた。
シロは二人の反応を眺め、小さく笑う。
「……だが、主上から言伝を預かっておる」
真っ直ぐにマスターを見る。
「『良いものを見せてもらった』」
短い言葉。
けれど、その重みは十分だった。
マスターは少しだけ目を細める。
「へぇ」
それから照れくさそうに笑った。
「それは、どうも」
シロは満足そうに頷く。
「観測は終わらぬ」
その姿がゆっくりと薄れていく。
「ただ、形が変わるだけじゃ」
光の中へ溶けるように消え、店内には静けさだけが残った。
「……結局、褒められたってことでいいのかな」
マスターが首を傾げる。
「ええ」
シエルは静かに頷く。
「観測者ではなく、一人の人間として認められたのでしょう」
「人間として、かぁ」
マスターは椅子へ腰を下ろした。
右手だけで机へ肘をつく。
少しだけぎこちない。
それでも自然に笑う。
「じゃあ、改めて頑張りますか」
ファニーがにやりと笑う。
「仕事、山積みだけどね」
「えぇー」
笑い声が広がる。
午前の光が境界堂を優しく照らしていた。
……
…
それから数日後。
午後の光が少しずつ橙色へ変わり始めていた。
境界堂の窓から差し込む夕陽が床を長く照らし、紅茶の湯気もゆっくりと色を帯びていく。
そんな静かな時間に、扉が控えめに叩かれた。
こんこん。
「はーい……」
ソファへ半分沈み込んでいたファニーが、だらけた声で返事をする。
扉を開けると、そこには新渡戸とトルクが立っていた。
「失礼する」
新渡戸は軽く頭を下げる。
「今回は……助かった」
その言葉のあと、一瞬だけ間が空く。
「……だが、悪いことをしたな」
視線が自然とマスターの左側へ落ちた。
そこにあるはずのものは、もうない。
事務所の空気が少しだけ静まる。
だが、当の本人はいつも通りだった。
「大丈夫だいじょうぶ」
マスターはにへらと笑いながら、右手をひらひら振る。
「そのうち慣れるよ」
新渡戸は少しだけ目を細めた。
「……お前は、本当に変わらないな」
呆れたような口調だったが、その奥には確かな安堵が滲んでいる。
そして、その隣。
トルクだけが妙に静かだった。
ファニーがじっと顔を覗き込む。
「……ねぇ、どうしたの?さっきから一言も喋ってないけど」
新渡戸は肩をすくめた。
「ああ、こいつか。学園で一番最初に寝たから落ち込んでんだ」
「最悪のタイミングで退場してる!!」
ファニーのツッコミが即座に飛ぶ。
トルクはゆっくり顔を上げた。
被っている紙袋はなぜかびしょ濡れで、端から水滴がぽたぽたと落ちている。
「……寝て、起きたら」
声が震えていた。
「すべてが終わっていました……」
ぽた。
ぽた。
「エメラルドから金へ移行する過程も……」
ゆらりと前へ出る。
「制御崩壊直前の挙動も……」
肩が小刻みに震える。
「観測できなかった……!!」
そのまま床へ崩れ落ちた。
「アアアアアァァッッッ!!」
境界堂に絶叫が響き渡る。
「発狂した!?」
ファニーが思わず後ずさる。
シエルは紅茶を置いたまま冷静に答えた。
「いえ。研究者としては極めて正常な反応です」
「どこの研究界隈!?」
トルクは床に両手をつき、紙袋越しに天を仰ぐ。
「私は……何をしていたんだ……」
その横で、クロードがぼそりと呟いた。
「寝てた」
「言わないでください!!!!!」
トルクの悲鳴と同時に、紙袋がさらに崩壊して水が飛び散る。
新渡戸は深いため息をついた。
「ほっとけ。毎回こうだ」
マスターはその様子を見ながら、くすっと笑う。
「そんなに見たかったの?」
トルクは勢いよく顔を上げた。
「当然です……!」
その目だけは異様に真剣だった。
「カフスが限界性能を発揮する瞬間を!」
「言い方ァ!!」
ファニーが全力で突っ込む。
マスターは肩を揺らして笑う。
「今度は見逃さないようにねぇ」
その瞬間、トルクの動きが止まった。
「……次」
ゆっくりと復唱する。
顔色がみるみる変わっていく。
「次が、あるんですか……?」
「ないと困るけど、あるのも困る!!」
ファニーが頭を抱える。
シエルは真顔で補足した。
「統計的には、再び大規模事案が発生する可能性は高いですね」
「統計で追い打ちしないで!?」
トルクは震えながら立ち上がった。
紙袋からは相変わらず水が滴っている。
「……次は」
ぐっと拳を握る。
「絶対に、観測します」
ファニーは、びしっとトルクを指差した。
「ほら!とりあえずそのベチョベチョの紙袋、何とかしなよ!」
「どうぞ」
すでにシエルはタオルを持ってきていた。
トルクは静かに受け取り、小さく頭を下げる。
「……ありがとうございます」
そして、濡れきった紙袋へ手を掛けた。
ずるり。
ゆっくりと紙袋が外れる。
その瞬間、夕陽が窓から差し込み、隠れていた素顔を照らした。
さらりとした金髪。
均整の取れた輪郭。
澄んだ碧眼。
目元には、小さな泣き黒子。
まるで物語から抜け出してきたような、非の打ちどころのない王子様のような顔立ちだった。
……ただし。
髪はびしょ濡れで前髪が額に張り付き、頬には水滴が伝い、服までしっとり湿っている。
完璧な素材を、全力で台無しにしていた。
ファニーは固まる。
「……は?」
思わず二度見する。
「はぁぁぁ!?」
シエルは静かに観察し、
「……整っていますね」
一拍置いてから付け加えた。
「顔は」
「"顔は"って何!?」
ファニーが勢いよく振り返る。
トルクはそんな騒ぎなど気にも留めず、タオルで髪を拭き始めた。
「……観測対象としての信頼性は、外見とは無関係です」
「いや、あるよ!?初対面の印象って大事だからね!?」
クロードもちらりと一度だけ視線を向ける。
「……無駄に整ってるな」
トルクの手がぴたりと止まる。
「"無駄"ではありません」
珍しく少しだけ強い口調だった。
「観測者は、対象へ不要な警戒心を抱かせない外見であるべきです」
理屈だけは妙に筋が通っている。
ファニーはすかさず指を突き付けた。
「じゃあ、なんで紙袋かぶってたの!?」
「私の憧れが止められなかったためです」
トルクは真面目な顔で答える。
「以前お会いした紙袋の闇医者。あの姿には、観測者として完成された機能美を感じました」
ファニーは目をぱちぱちさせる。
「そこ憧れるところ!?」
「ええ。憧れは、止められません」
シエルは静かに頷く。
「合理的ですね」
「どこがぁ!?」
境界堂にファニーの叫びが響く。
マスターは肩を揺らして笑った。
「いいねぇ」
トルクを見ながら、楽しそうに続ける。
「そのギャップ」
トルクは少しだけ視線を上げた。
「……評価、ありがとうございます」
「褒めるとこそこ!?」
ようやく髪を拭き終え、金髪がさらりと整う。
今度こそ、本当に王子様だった。
……しかし、泣き腫らしたせいか目元だけはまだ少し赤い。
シエルがそこへ視線を留める。
「……泣き黒子」
「はい」
「特徴的ですね」
トルクは真面目な顔で答えた。
「観測時の視線誘導に有効です」
「全部観測に結びつけるのやめて!!」
新渡戸は腕を組み、その様子を眺めて苦笑する。
「まあ、見た目はいいんだ」
少し間を置き、
「中身はアレだが」
「否定はしませんネ」
ファニーは思わず力が抜ける。
「否定しないんだ……」
その光景を眺めながら、マスターは穏やかに笑う。
「にぎやかでいいねぇ」
その言葉に、今度は誰も反論しなかった。
タオルで髪を拭き終えたトルクは、几帳面にそれを畳み、シエルへ返した。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
静かなやり取りのあと、トルクは何事もないように付け加えた。
「一応、私はアルカディア王国の王子ですヨ」
その一言で、事務所の空気が止まる。
「…………」
全員の視線が、新渡戸へ向く。
新渡戸はため息をついた。
「事実だ。王国の第十二王位継承者」
「めっちゃ後ろぉ!!」
ファニーが即座に叫ぶ。
「継承順位は本質ではありません」
トルクは真顔で首を振る。
シエルが尋ねる。
「現在も学園専属呪具師を?」
「ええ」
トルクは頷いた。
「日本の呪具技術は独自の発展を遂げています。私は研究員として招聘され、学園の装備開発を担当していまス」
マスターが笑う。
「だから僕のカフスも作ってくれたんだよねぇ」
「はい」
ほんの少しだけ口元が緩む。
「あれは私の代表作の一つです」
ファニーが腕を組む。
「だからあんなに落ち込んでたんだ?」
トルクは静かに頷いた。
「自分が設計した呪具が、実戦でどこまで役目を果たせるのか」
一度だけ目を伏せる。
「その結果を、この目で見届けたかったのです」
ファニーがぼそりと呟く。
「寝てた」
「…………」
トルクはゆっくり目を閉じた。
「はい。……研究者として、一生悔やむ失態です」
マスターは苦笑する。
「そんなに?」
「もちろんです。自分の作品が、最後まで役目を果たす瞬間ですから」
事務所が少しだけ静かになる。
クロードが肩をすくめた。
「記録できなかった事実も、記録しておけ」
「……はい」
そこへ、事務所の奥から足音が近づいてきた。
「みなさん、お揃いですね!」
明るい声とともにカノンが姿を現す。
その姿を見た瞬間、トルクの表情がぱっと輝いた。
「カノンさん!」
一歩前へ出ると、胸へ手を当てて深々と一礼する。
「私の女神!どうか結婚してください!」
カノンは首をこてんと傾げた。
「あれ?あなたは……どなたでしたっけ?」
「そんな!?」
トルクはその場に崩れ落ちる。
「このトルクをお忘れになるとは……!」
「ああ、トルクさんでしたか」
思い出したように頷いたかと思えば、
「まあ、それは置いておいて」
あっさり話を切り替えた。
「華麗に流しましたネ!そういうところも好きです!」
「褒めてないからね?」
ファニーが即座に突っ込む。
クロードも低い声で口を開いた。
「……あとで詳しく話を聞かせてもらおうか」
「喜んで」
「なんで前向きなの!?」
カノンは気にした様子もなく、大事そうにケースを机へ置いた。
「では、本題です!」
ぱかり。
ケースの中には義手が収められていた。
マスター「その闇医者ってどんな人なの?」
トルク「身長は二メートル半近くありますネ」
ファニー「高っ!」
トルク「手術中は腕が増えたり、関節が信じられない方向へ曲がったりします」
シエル「……人間ですか?」
トルク「手術器具も、どこに隠しているのか分からないほど次々と取り出します」
ファニー「その時点でホラーなんだけど!?」
トルク「それでいて手術の成功率は極めて高く、どんな重傷でも助けてしまうことで有名です」
マスター「へぇ。不思議な人なんだねぇ」
トルク「ええ。患者からは『目を閉じて、開いたら治っていた』という話も珍しくありません」
ファニー「治ってるのに全然安心できないよ!」
シエル「優秀なのは理解しました」
トルク「はい。見た目以外は完璧な医師ですネ」
ファニー「見た目が一番大事じゃない!?」




