11-5 返事のない夜
■病院・夜
白。
消毒液の匂い。規則正しく響く電子音。
ピッ……ピッ……ピッ……
静かな病室。
ベッドの上では、マスターが眠っていた。
掛けられた毛布は、左肩の途中で不自然に沈んでいる。
そこにあるはずの膨らみは、もうない。
カーテンの隙間から街の灯りだけが淡く差し込んでいた。
ファニーはベッド脇の椅子へ腰掛けている。肘を膝につき、顔を伏せるような姿勢。
けれど、指の隙間から視線だけは一度もマスターを離さなかった。
「……」
何も言えない。
言葉にした瞬間、何かが壊れてしまいそうで。
少し離れた場所では、シエルが静かに立っている。背筋はいつも通り真っ直ぐ。手には手術の説明書類。
それなのに、開かれたページは、ずっと変わらない。一枚も、めくられていなかった。
ピッ……ピッ……
壁時計は、誰にも急かされることなく静かに時を刻んでいる。
ぴくり。
マスターの指先が、小さく動く。
「……!」
ファニーが勢いよく顔を上げる。
椅子が、ぎい、と小さく鳴った。
シエルも静かに視線を向ける。
閉じていたまぶたが、ゆっくりと開いた。
焦点が揺れる。
白い天井。
眩しい照明。
そして、二人の姿を映した。
マスターは小さく瞬きを繰り返す。
「……あれ?」
掠れた声。
それでも、その響きはいつものままだった。
「どうしたの」
少しだけ笑う。
「そんなに暗い顔して」
返事がない。
ファニーの唇が震える。何かを言おうとして、飲み込む。
シエルも静かに立ったまま動かない。
その沈黙を不思議そうに見つめながら、マスターはゆっくり身体を起こそうとした。
「っと……」
右腕を突く。
身体が少し浮く。
その瞬間。
ぐらり。
思ったより身体が支えられず、バランスを崩した。
「あれ?」
首を傾げる。視線が、自分の左側へ落ちた。
毛布、肩、そこで動きが止まる。
左肩から先。
そこには、あるはずの膨らみがなかった。
「…………」
左肩を見つめる。
何度か瞬きをする。
「……そっか」
少し間を置いてから、
「ああ、使っちゃったんだ」
その一言で、ファニーの堪えていたものが決壊した。涙が次々とこぼれる。
「"そっか"じゃないでしょ……!そんな簡単に言わないでよ……」
マスターは困ったように笑う。
「いやぁ、でも」
言いかけたところで。
「緊急手術でした」
シエルが静かに告げる。
「命に別状はありません」
視線が、毛布の左側へ落ちる。
「ですが、左腕は……失いました」
マスターは左肩を見つめる。
少しだけ息を吐く。
それから笑う。
「……助かっただけでも、十分かな」
「十分じゃない!」
ファニーの声が弾ける。
「腕なんだよ!?」
涙が止まらない。
「もう戻ってこないんだよ!?」
マスターは少しだけ目を丸くする。
「うん。そうだね」
右手で頭を掻こうとして。
途中で苦笑した。
「あんまり慣れないな」
その何気ない仕草が、かえって胸を締めつけた。
「笑わないでよ……。そんな普通みたいに言わないで……」
マスターは困ったように眉を下げる。
「普通じゃないよ。でも、みんなで帰ってこられた」
優しく笑う。
「それが、一番よかった」
病室が静まり返る。
シエルは目を閉じる。
ほんの一瞬だけ、感情を押し込めるように。
そして静かに目を開いた。
「……あなたは」
少しだけ声が柔らかくなる。
「自分を、軽く扱いすぎです」
マスターは首を傾げる。
「そうかな」
「そうです」
即答だった。
「あなた一人が欠けても、……俺たちは喜べません」
ピッ……ピッ……
規則正しい電子音だけが流れる。
マスターは二人を見つめる。
少し照れくさそうに笑って。
「……そっか」
その一言だけ。
今度は、少しだけ受け止めたような響きだった。
ファニーはぐしゃぐしゃの顔のまま笑う。
「……ほんと、ばか」
ベッドの脇へそっと手を置く。
シエルも小さく息を吐く。
「……ええ。本当に」
やがて面会時間を告げる放送が流れた。
ファニーは何度も振り返りながら病室を出る。
シエルも静かに一礼し、その後に続いた。
病室には再び規則正しい電子音だけが残る。
そして、長い夜が明けた。
……
…
術後の経過は順調だった。
数日後。
マスターは集中管理病室を離れ、一般病棟へ移った。
昼の穏やかな光が病室へ差し込む。
ベッドの端に座ったマスターは、右手だけでコップを持ち上げる。少し傾き、ぴちゃ、と水が膝へこぼれた。
「あ」
ファニーが慌ててタオルを差し出す。
「ほら、ゆっくり!」
シエルは記録を見ながら淡々と言う。
「まだ重心が左へ寄っています」
「むずかしいねぇ」
マスターは苦笑した。
右手でコップを置く。
そして、ふと左肩へ視線を落とした。
だが次の瞬間。
「あっ」
何かを思いついたように顔を上げる。
「義手ってさ」
ファニーが即座に身構える。
「……嫌な予感しかしない」
「サイコガンとか付けられない?」
沈黙。
「できないよ!!」
病室へツッコミが響く。
シエルがため息をつく。
「医療機器ではありません」
「じゃあフック!」
「方向性が悪化しました」
「ピーター・パン!」
「著作権以前の問題です」
ファニーは頭を抱えた。
「なんで全部武装なの!?」
マスターは肩を揺らして笑う。
「いやぁ。笑っとかないと、重いでしょ」
その言葉で、病室が静かになる。
シエルはゆっくりマスターを見る。
「……ええ。あなたは、そういう人です」
ファニーも小さく笑った。
「バレバレなんだよ」
マスターは照れくさそうに頭をかく。
「でも、代わりはいくらでも考えられます。生活も、戦い方も、全部一緒に作り直しましょう」
マスターは少しだけ目を丸くして。
それから。
「……うん」
こんこん。
ノックの直後、勢いよく扉が開いた。
「失礼します!サイコガンのお話を聞きました!」
カノンが元気よく入ってくる。
「ナースステーションまで聞こえましたよ!面会簿を書かなくて良いならすぐに飛んできたのに!!」
「あ」
ファニーが口を押さえる。
マスターは肩を揺らして笑う。
「結構盛り上がってたもんねぇ」
カノンは目を輝かせる。
「発想は素敵だと思います!」
「でしょ?」
「乗らないで!」
ぺちん。
軽く叩かれる。
「いたっ」
「痛いなら黙って!」
シエルが小さくため息をつく。
「……話が進みません」
カノンは咳払いを一つ。
「もちろん、サイコガンは現実的ではありません」
「だよねぇ」
少しだけ残念そうなマスター。
「ですが」
端末を開く。
画面へ義手の設計図が映し出された。
「義手なら話は別です」
病室の空気が少し変わる。
「日常生活用だけでなく、境界堂での活動も考慮した仕様にできます」
画面を切り替える。
「保持機構、耐衝撃性、重量配分。必要なら専用装備の取り付けも可能です」
ファニーが覗き込む。
「そんなことまでできるの?」
「はい!」
カノンは嬉しそうに頷く。
「失ったものを取り戻すことはできません。でも」
少しだけ声を和らげる。
「これから使いやすいように作ることはできます」
静かな言葉だった。
マスターは画面を眺める。
「……そっか」
右手で頬をかく。
「新しく作るんだ」
「はい」
カノンは笑った。
「マスター専用です」
その一言に、マスターも自然と笑みを浮かべる。
「なんだか楽しみになってきた」
ファニーが腕を組む。
「サイコガンじゃないなら許す」
「最後までそこなんだ」
「そこだよ!」
病室に笑い声が広がる。
シエルも小さく息を吐き、口元をわずかに緩めた。
「まずはリハビリです」
「はーい」
素直な返事。
窓の外では、午後の風が木々を揺らしていた。
失われたものは戻らない。
それでも、前へ進む方法は、これからいくらでも作っていけるのだから。
■病院・夕方
窓の外では、夕陽が街を橙色に染め始めていた。
病室にも長く伸びた影が差し込み、一定の風音だけが、静かな病室を満たしている。
こんこん。
控えめなノックのあと、扉が開いた。
クロードだった。
いつもと変わらない無表情のまま病室へ入り、その視線は自然とベッドへ向かう。
マスターは身体を起こし、右手だけで紙コップを持っていた。少し傾き、水が縁からこぼれる。
クロードは何も言わず歩み寄る。
その視線は、途中で左肩へ止まった。
毛布の下にあるはずの膨らみは、もうない。
「……お前は、もう能力は使えないのか」
静かな問いだった。
マスターは少しだけ考え、それからいつものように笑う。
「代償に捧げちゃったからねぇ」
左肩へ目を向ける。
「もう、うんともすんとも言わないよ」
その笑顔を、クロードは黙って見つめていた。
「まあでもさ。異能なんて、なくても何とかなるよ」
病室に時計の音だけが響く。
クロードはゆっくり一歩踏み出した。
「……そうか」
短い返事。
しかし、その一言には納得とも諦めともつかない重さがあった。
ベッドの脇まで来ると、クロードは静かに口を開く。
「なら」
ほんのわずかに言葉を選び、
「次からは、お前を前に出さない。戦闘は俺たちがやる」
クロードは真っ直ぐマスターを見る。
「お前は後ろで見ていろ」
マスターは苦笑する。
「それ、退屈じゃない?」
「知るか」
即答だった。
そして少しだけ目を伏せる。
「……死なれるより、ずっとマシだ」
静寂。
マスターはしばらくクロードを見つめる。
「そっか」
少しだけ笑う。
「じゃあ、任せるよ」
「……ああ」
それだけ。
クロードは踵を返す。
扉へ向かいかけて、
「……クロード」
呼び止められる。
「ありがとう」
クロードは振り返らない。
「礼はいらん」
少しだけ間を置いて。
「生きて返せ」
そのまま病室を出る。
夕陽はゆっくりと街の向こうへ沈んでいく。
失ったものは大きい。
それでも、境界堂の役割はまだ終わっていなかった。
■病院・夜
病室の灯りは落とされていた。
カーテンの隙間から街の灯りだけが細く差し込み、白い天井へ淡い帯を描いている。
廊下では看護師の足音が遠く響き、どこかの病室で点滴のスタンドが小さく軋んだ。
それ以外は、静かだった。
マスターはベッドの背を少し起こし、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
右手が毛布を整える。
左肩へ視線が落ちる。
そこへ何かを探すように手を伸ばしかけ、 途中で止めた。
「いやぁ」
小さく笑う。
「今回は本当に危なかったねぇ」
そう言ってから、マスターは黙る。
いつものように、頭のどこかで返事が返ってくるのを待った。
……
何も聞こえない。
そこでようやく。
「あ」
静かに思い出す。
「……そっか」
ゆっくり息を吐く。
「僕、一人なんだ」
病室は何も変わらない。
灯りも、夜の静けさも、窓の向こうの街も。
ただ一つだけ、返事をくれる存在がいなかった。
マスターは少し照れたように笑う。
「元々は一人だったのにね」
右手がそっと左肩へ伸びる。
途中で止まる。
行き場を失った手は、そのまま毛布の上へ静かに戻った。
「いつの間にか」
少しだけ目を細める。
「いるのが当たり前になってた」
しばらく黙って窓の外を見つめる。
遠くで救急車のサイレンが小さく響き、また静けさが戻る。
「……さみしいね」
それでも、その言葉は、もう誰にも届かない場所へ静かに零れた。
「おやすみ」
返事はない。
それでも、その一言だけを置いて、マスターは静かに目を閉じた。
窓の外では、街の灯りだけが夜を照らし続けていた。
マスター「義手のギミックといったら、ロケットパンチ、巻き取り式ワイヤー、ガトリングガン、いやいや、パイルバンカー……」
ファニー「どこ目指してんの!?」
シエル「まずは日常生活をクリアしてください」
マスター「でも、やっぱりサイコガンは捨てがたい」
カノン「ですよね!」
クロード「……弾数次第だな」
ファニー「検討しないで!?」




