11-4 ただいま
マスターは小さく笑う。
「ねぇ」
振り返る。
金色だった瞳は、少しだけエメラルドを取り戻していた。
「みんな」
その笑顔は、いつもの境界堂のマスターだった。
「手を貸してくれる?」
返事は、一つも遅れなかった。
「当たり前でしょ!」
ファニーが前へ飛び出す。
赤い衝撃が白い世界を叩く。
揺らぐ。
蜘蛛が積み重ねてきた"唯一の答え"が、感情によって乱される。
「そのまま!」
シエルが両手を重ねる。
青い結界が幾重にも展開し、揺らいだ空間を包み込む。
「位相固定。収束を拒否」
散ろうとする世界を、その瞬間だけ留める。
クロードが一歩踏み出す。
「道は開いた」
餓狼が白い糸を打ち砕き、中核まで一直線の突破口を穿つ。
カノンが端末を掲げる。
「位相固定、完了!」
青白いアンカーが中枢へ食い込み、逃げ場を奪う。
シエルが静かに目を閉じた。
「三位一体、接続」
青い光がマスターとファニーを結ぶ。
ファニーが拳を握る。
「出力最大!」
赤い衝撃が一気に流れ込み、同期した波形が共鳴する。
緑。赤。青。
三つの光が、一本へ収束する。
その中心で、エメラルドが静かに輝いた。
「――《定義》」
マスターが前へ手を伸ばす。
キィィィィィンッ!!
世界を貫く金色の奔流が放たれた。
太陽を凝縮したような極光。
白い空間を一直線に裂き、巨大な蜘蛛へ突き刺さる。
蜘蛛は避けない。
金色が触れた瞬間。
巨大な脚が、さらさらと光へ変わり始める。
「……!」
ファニーが息を呑む。
外殻が崩れる。
糸がほどける。
黒い胴体さえ、雪が陽射しへ溶けるように輪郭を失っていく。
『…………』
蜘蛛は最後まで暴れなかった。
ただ静かに、受け入れるように、世界へ溶けていく。
やがて、
頭部が消え。
胴が消え。
最後の一本の糸だけが、ふわりと風へ舞った。
『……三位一体運用』
声が遠ざかる。
『……成立、確認』
金色の光が静かに収束する。
白が崩れる。
蜘蛛のいた場所には、もう何も残っていなかった。
『……観測、終了』
その言葉だけを残し、蜘蛛は完全に消滅した。
静寂。
誰も動かない。
やがて。
「……勝った?」
ファニーがぽつりと呟く。
誰も答えない。
本当に終わったのか。
やがてシエルが静かに周囲を見渡し、小さく息を吐く。
「……怪異反応、消失」
その一言で、ファニーの表情が一気に崩れる。
「やったぁぁぁ!!」
勢いよくマスターへ飛びつく。
「ちょっ」
受け止めきれず、マスターが一歩よろめく。
「無茶しすぎなんだよ!」
ぐいっと抱き締める。
「帰ってきてよかったぁ……」
その声は少しだけ震えていた。
マスターは困ったように笑う。
「ごめんねぇ」
その隣へ、シエルが静かに歩み寄る。
少しだけ迷ってから、そっと、マスターの服の裾を掴んだ。
「……おかえりなさい」
その一言だけ。
マスターは目を細める。
「ただいま」
少し離れた場所で、クロードは静かに息を吐き、ボロボロの餓狼を擦る。
「……終わったか」
カノンは目元を拭きながら笑った。
「よかったですぅ……!」
その時。
ぱきり。
足元で、小さな音が鳴った。
白い床へ細い亀裂が走る。
その裂け目は瞬く間に世界中へ広がり、天井も地面も境界さえ、光の粒となってほどけ始めた。
「……何、これ」
ファニーが息を呑む。
シエルは崩れていく空間を見上げ、静かに告げる。
「位相崩壊です」
端末へ視線を落とす。
「怪異の消滅により、この空間を維持する基点が失われました」
光の欠片が降り注ぐ。
表示された数値を見たシエルの表情が変わる。
「崩壊速度が速い……!脱出しなければ!」
「……待って」
穏やかな声だった。
振り向くと、マスターは崩れゆく世界を静かに見上げている。
「逃げても間に合わないね」
白い世界へ視線を巡らせる。
「崩壊の中心が、ここだ」
短く、それだけ告げた。
足元へ淡いエメラルドが広がる。
緑の膜が音もなく五人を包み込んだ。
「だから、終わるまで耐えるよ」
崩れ落ちる光が結界へ触れる。
ぱきっ。
弾かれる。
また、ぱきっ。
光は防げている。
だが、そのたびに結界へ細かな亀裂が刻まれていった。
「なら、大丈夫なんだ!」
安堵したファニーとは対照的に、シエルの表情は険しい。
「……違います」
マスターの身体から、エメラルドの粒子が静かに流れ続けていた。結界へ吸い込まれるたび、金色だった瞳の輝きが少しずつ失われていく。
神々しい黄金は霞み、奥で灯るエメラルドだけが、細い命綱のように揺れていた。
「この結界は《定義》そのものを燃料にしています」
カノンが端末を見た瞬間、息を呑む。
「異能出力、限界値を突破!」
表示は警告色で埋め尽くされていた。
「《定義》が崩壊します!」
クロードが低く問う。
「解除できるか」
「解除したら一分も保たないよ」
マスターは苦笑する。
「まあ、異能が無くなっても死ぬわけじゃないし。みんなで帰れるなら、それでいい」
「よくない!」
ファニーが叫ぶ。
その横でクロードが腕を組む。
「なら俺が払う」
カノンも端末を抱き締めた。
「わ、私も!」
シエルも迷わず頷く。
「全員で分担すれば」
マスターは静かに首を振った。
「ありがとう」
結界へそっと手を添える。
「でも《定義》は、僕のものしか本当の代償にならない」
四人が息を呑む。
「みんなの異能は変換効率が悪いんだ」
ぱきり。
結界へ細い亀裂が走る。
「だから」
少しだけ困ったように笑う。
「僕自身で、失ったら二度と戻らないものほど、大きな力になる」
ぱきり。
また一つ。
結界が軋む。
試すように、マスターが四人の力を結界へ流す。
赤、青、琥珀、黄。
淡い光が膜へ溶ける。
しかし。
ぱきっ。
新しい亀裂が走った。
「ね?ほとんど変わらない」
カノンが悔しそうに唇を噛む。
「そんな……」
クロードは拳を握り締めた。
「役に立たんか」
マスターは四人を見渡す。
少しだけ照れたように笑う。
「でもさ、僕はみんなと生きたい」
その一言で、空気が静かに変わる。
結界へ手を添える。
「みんなで帰ろう」
ぱきっ、ぱきり。
今度は結界全体へ蜘蛛の巣のように亀裂が広がっていく。
シエルが息を呑んだ。
「……足りません」
結界は維持されている。
それでも崩壊を押し返し切れない。
あと一歩。決定的に、足りない。
マスターは崩れゆく結界を見上げ、小さく息を吐いた。
「……そっかぁ」
少しだけ考える。
今度は、思いつきではない。
必要な代償を冷静に計算するように。
右手を、ゆっくりこめかみへ添えた。
「じゃあ、三十年分の記憶をもらおう」
エメラルドが静かに灯る。
「待ってください!《定義》は代償量を保証しません!」
「うん」
マスターは頷く。
「だから、三十年分って、きっちり決める」
その一言に、全員が息を呑んだ。
「足りなかったら、その時また考えよう」
「そんなこと言ってる場合じゃない!」
ファニーが叫ぶ。
「勝手に決めないでよ!」
クロードが腕を掴む。
「待て。まだ他を探せる」
理屈では理解している。
三十年なら、生きられる。
それでも、その三十年は誰にも代われない。
手の平をきつく握り締め、シエルは唇を噛み締めた。
止めたい。だが、この場で最も成功率が高い選択なのも理解している。だから言葉が出ない。
カノンは目に涙を浮かべながら首を振る。
「マスターさんが大切にしてきたものを、そんなふうに使わないでください……」
マスターは四人を見渡し、少しだけ寂しそうに笑った。
「みんななら」
優しく目を細める。
「そう言うと思った」
右手へ光が集まる。
「《定義》の代償を変更」
「マスター!!」
「君たちと出会う前なら、ちょうど三十年くらいだから」
優しく笑う。
「なくても、きっと何とかなるよ」
その瞬間。
世界のどこからともなく。
静かな声が響いた。
『……それは駄目』
マスターが振り返る。
そこには、空白体が立っていた。
輪郭は淡く揺らぎ、今にも風へほどけてしまいそうだった。
それでも、その表情だけは穏やかだった。
『それは、ぼくの役目だから』
「待っ──」
制止の声より早く、空白体は一歩踏み出す。
その足元へ小さな影が二つ駆け寄った。
黄色い小鳥。
水色のリス。
『マスター!』
小鳥が嬉しそうに羽を震わせる。
『今度は、一緒!』
『一人にはさせません』
リスも力強く頷いた。
『……困ったなぁ』
二匹を見下ろし、優しく目を細める。
そして。
『じゃあ、一緒に行こうか』
その言葉に、小鳥が羽ばたき、リスが静かに寄り添う。
三つの存在は並んだまま、ゆっくりとマスターの前へ歩いてくる。
空白体が、そっとマスターの胸へ手を添えた。
その前に、二人の視線が絡む。
一瞬だけ。
「行くの?」
『うん』
穏やかな声だった。
「じゃあね」
『うん』
境界が溶ける。
小鳥の身体が、柔らかな金色の粒子へ変わる。
リスも、水色の光となって舞い上がる。
最後に、空白体自身の輪郭が静かに崩れ始めた。
『ありがとう』
その一言だけを残して。
三つの光が一つとなり、《定義》へ吸い込まれていく。
瞬間、マスターの足元へ、淡いエメラルドが広がった。
ひび割れていた結界が、新たな光を受けてゆっくりと再構成される。
砕けていた膜が幾重にも重なり。
薄れていた輝きを取り戻し。
五人を包む球体は、もう一度世界を拒むように厚みを増していく。
崩れ落ちてきた白い光が、結界へ触れた瞬間、ぱちり、と弾け散る。押し返される。
ほどけかけていた世界が、少しずつ縫い直されていく。
光に変わった三人の粒子に思わず手を伸ばす。
「あっ……」
けれど、光は指先をすり抜け、静かに結界へ溶けていった。
しばらくその手を見つめ、マスターは、小さく笑う。
「……ありがとう」
少し照れたように。
「また助けられちゃったねぇ」
結界は淡いエメラルドをまとい、安定を取り戻していた。
ファニーが嗚咽を漏らす。
「そんな……空白体達が消えちゃった……」
それでも。
ぱきり。
乾いた音が響く。
今度は結界そのものへ、細い亀裂が走った。
ぱきり。
ぱきり。
一つ。
また一つ。
修復よりも僅かに早く、新たな裂け目が生まれていく。
シエルの表情が凍る。
「……維持率、低下」
カノンも端末を見つめる。
「八十七パーセント……!」
数字はゆっくりと下がり続けていた。
「崩壊速度に、防御が追いついていません!」
結界は確かに五人を守っている。だが、それでも少しずつ削られていた。
マスターだけが、軋む結界を見上げる。身体から零れるエメラルドは止まらない。
あと少し。
本当に、あと少しだけ足りない。
「……そっかぁ」
困ったように笑う。
どうしようかな。
そう考えながら視線を落とした、その先。
左腕。
「あ」
思いついた。
記憶なら、また"きっちり決める"必要がある。
でも、今はもう、迷ってる時間がない。
「これなら、足りるね」
エメラルドの光が腕へ集まり始める。
ファニーの表情が凍りついた。
「……え?」
シエルも気付く。
「待ってください!」
クロードが踏み出す。
「何を考えてる」
「ん?」
本当に不思議そうに首を傾げる。
「これが、一番なんだよ」
「ダメッ!!」
ファニーが飛び出す。
クロードも腕を掴もうと駆ける。
けれど。
「《定義》」
静かな声が響いた。
左腕が、音もなく光へ変わり始める。
肩口から先が、皮膚も、骨も、存在そのものが粒子となり、結界へ吸い込まれていく。
その瞬間。
轟音。
エメラルドの奔流が一気に噴き上がった。
幾重にも重なった結界がさらに外側へ広がる。
二重。
三重。
四重。
新たな膜が次々と生まれ、崩壊する世界を包み込んでいく。軋んでいた亀裂は光に呑まれ、音を立てて塞がった。崩壊そのものを押し返すように、結界が脈動する。
遅れて、激痛だけがマスターの全身を貫く。
マスターは耐えながらも苦笑する。
「これで……最後まで保つ」
眩い光が溢れる。
ほどけていた世界が、ゆっくりと縫い直されていく。
白が消える。
風が戻る。
空の青が、帰ってくる。
淡いエメラルドの膜が、五人を包んだまま、静かに実像を取り戻していく。
校庭の輪郭が滲むように現れ、白い異空間と重なり合う。
ふっ、と。
結界が、溶けるように消えた。
気づけば、五人は見慣れた校庭に立っていた。
乾いた土の匂い。
遠くで鳴く蝉の声。
何もかもが、あまりにも普通だった。
誰もすぐには動けない。
生きている。
その実感だけが、静かに胸へ落ちていく。
「……帰ってきた」
ファニーが小さく呟く。
返事はない。
ぽた。
小さな音が響く。
ぽた。
もう一度。
赤い雫が、乾いた土を濡らした。
誰もが、その音の先を追う。
マスターは立っていた。
けれど、何かがおかしい。
右腕だけが力なく垂れ。
左肩から先だけが、不自然なほど軽かった。
そこには。
左腕が、なかった。
シエルの表情が変わる。
「マスター」
血が、止まらない。
顔色はみるみる白くなり。
呼吸も浅くなっていく。
呼びかけに、マスターはゆっくりと振り向いた。
「あれ」
空を見上げる。
「なんだか……景色が回ってるねぇ」
「回ってるんじゃないでしょ!!」
ファニーが駆け寄る。
支えようと伸ばした右腕は、驚くほど軽かった。
力が抜ける。
身体が傾く。
「マスター!」
崩れ落ちる寸前、シエルが支えた。
「横にしてください」
落ち着いた声。
けれど、震える指先が隠せない。
「圧迫止血を」
「うん!」
ファニーが頷く。
失われた左腕の付け根を、両手で強く押さえる。
温かい。
流れ続ける血の熱だけが、残酷なほど現実だった。
マスターはぼんやりと空を見つめる。
「いやぁ……。ちょっと計算違いだったかなぁ」
「ちょっとじゃない!!」
涙声が響く。
「みんなで帰ってきたのに、何やってるの!」
マスターは少しだけ笑って。
ゆっくりと視線を動かす。
ファニー。
シエル。
クロード。
カノン。
一人ひとりの顔を確かめる。
「……よかった」
小さく息を吐く。
「みんな、いる」
その一言で、ファニーは何も言えなくなった。
押さえ続ける手の甲へ、涙がぽたりと落ちる。
シエルも静かに目を伏せた。
「……ええ」
それしか言えなかった。
マスターの瞼が閉じかける。
「寝ないで!」
ぺちん。
軽く頬を叩く。
「痛いなぁ」
「痛いなら生きてる!」
涙と怒鳴り声が入り混じる。
クロードが短く息を吐いた。
「……その調子だ」
カノンも小さく頷く。
「意識は保てています」
その中で、マスターが、ふと思い出したように口を開く。
「……あ」
ファニーが顔を寄せる。
「なに!?どこか苦しい!?」
マスターは少しだけ考えて。
困ったように笑った。
「お腹、すいた」
数秒。
誰も動かなかった。
そして。
「この状況でそれぇぇぇぇぇっ!!」
ファニーの叫びが青空へ響く。
驚いた鳥たちが、一斉に飛び立った。
風が吹く。
救急車のサイレンが近付いてくる。
世界は、何事もなかったかのように動き始めていた。
けれど、その輪の中には、もう空白体はいない。
黄色い小鳥も。
水色のリスも。
どこにもいなかった。
マスターは静かに空を見上げる。
無意識に、もうない左腕へ右手が伸びた。
指先は空を掴む。
何もない。
右手はゆっくりと下りていく。
そして、少しだけ寂しそうに笑った。
「……ちゃんと帰れたよ」
風だけが、その言葉を運んでいった。
マスター「あー……もうだるいよー。ファニー、膝枕してー」
ファニー「無茶するからでしょ!!……ほら」
結局、膝を貸す。
マスター「シエルー、日傘さしてー」
シエル「……おつかれさまでした」
黙って日傘を傾ける。
マスター「カノン、コーラ買ってきてー」
カノン「喜んで!」
カノンが小走りに駆けていく。
マスター「クロードは団扇で扇いでー」
クロード「……」
気付けばマスターの止血は済み、救急車の手配も終わっていた。
クロードはスマホをしまい、静かに告げる。
「救急車は五分で着く」
マスター「仕事が早いねぇ」
クロード「応急処置も終わった」
ファニー「だから大人しくして!」
マスター「病院は嫌だねぇ」
クロード「却下だ」
マスター「えぇぇぇ……」
シエル「拒否権はありません」
カノン「ちゃんと診てもらってください!」
マスター「みんな冷たい……」
ファニー「誰のせいだと思ってるの!!」




