11-3 選べ
■中核・合流
白い膜が完全に剥がれ落ちる。
その瞬間。
ファニーの足元が、ぐにゃりと歪んだ。
「えっ」
踏みしめていたグラウンドが消える。
代わりに、白い糸が幾重にも重なる空間が足元へ広がっていた。
「わぁっ!」
身体が前へ投げ出される。
その腕を、誰かが掴んだ。
「危ないよ」
聞き慣れた声。
「……マスター!」
にへらと笑う顔。
いつも通り。
肩には血が滲んでいるのに、その笑顔だけは変わらない。
「無事だった!」
勢いのまま抱きつこうとして、
「今はやめてねぇ」
苦笑される。
「肩、ちょっと切れてるから」
「あっ、ご、ごめん!」
その横へ、青い光が落ちる。
空間が波打ち、シエルも静かに着地した。
周囲を一瞥する。
「……座標が移動しています。外部空間は消失。中核領域へ強制転移したと判断します」
返事をするように、黒い空洞の奥で巨大な脚がゆっくり持ち上がる。
ギギギ……
空間そのものが軋む。
シエルが静かに構えた。
「観測対象、更新」
ファニーが拳を握る。
「今度は三人!」
マスターは首を横に振る。
「違うよ」
その視線は、さらに奥へ向いていた。
「まだ全員じゃない」
白い糸が一本、静かに震える。
返事はない。
代わりに、世界そのものがこちらを見た。
『……完全観測、開始』
空気が沈む。
肺へ空気が入らない。
立っているだけで身体が軋む。
存在そのものへ、重しが載せられたような圧力。
ファニーが歯を食いしばる。
「……これ、ヤバい」
シエルも小さく息を吐く。
「観測圧です。存在情報を直接読まれています」
マスターだけは、静かに前を見ていた。
その時、
バキンッ!!
背後で何かが爆ぜる音が響く。
張り巡らされていた白い糸が、一斉に弾け飛ぶ。
裂け目の奥から一人の影が現れた。
ゆっくりと。
迷いなく。
「……そこか」
低い声。
クロードだった。
黒いコートは裂け、腕からは血が流れている。
それでも歩みは乱れない。
その後ろから、勢いよく白い空間へ転がり込む影。
「ふぅぅ……なんとか間に合いましたぁ!」
カノンだった。
白衣はぼろぼろ。
髪にも糸が絡みついている。
それでも胸を張って、工具ポーチを叩く。
「位相アンカー、大活躍です!」
ファニーの表情が、一気に明るくなる。
「クロード!カノン!」
クロードは短く頷く。
「遅れた」
マスターが、ふっと笑う。
「おかえり」
「はい!」
カノンが元気よく返事をする。
クロードも小さく息を吐いた。
「待たせたな」
五人の視線が、自然と中央へ集まる。
欠けていた輪が、静かに繋がる。
シエルが一歩前へ出た。
「戦力、再集結を確認」
その声は、いつもより少しだけ力強い。
「五人でのフォーメーションへ移行します」
ファニーが拳を合わせる。
「今度こそ!」
カノンが装置を構える。
「支援は任せてください!」
クロードが餓狼を握り直す。
「道は俺が開く」
四人の視線が、マスターへ向く。
マスターは少しだけ目を細めた。
「うん」
そのエメラルドが静かに輝く。
「じゃあ、いこう」
五人は、同時に前を向いた。
黒の奥。
世界の外側から覗く巨大な蜘蛛が、ゆっくりと身じろぎする。
『……観測対象、更新』
『三位一体……再構成』
白い空間が、低く軋んだ。
五人が並ぶ。
誰も言葉を発しない。
視線の先には、本体。
世界の外側から覗き込むように、巨大な蜘蛛が静かにこちらを見つめていた。
その存在だけで、空間が軋む。
白い糸は震え、地面は呼吸をするように脈打ち続ける。
シエルが小さく息を吸う。
「……来ます」
蜘蛛の脚が、ゆっくりと持ち上がる。
「散開!」
クロードの声と同時に五人が飛ぶ。
蜘蛛の脚が振り下ろされる。
轟音はない。
それでも世界が裂けた。
白い空間へ、深い亀裂が走る。
真正面から踏み込む。
「止める!」
餓狼が唸り、蜘蛛の脚を押し返す。
「まだだ!」
押し切れない。
その隙へ、ファニーが一直線に飛び込む。
「うおぉぉぉっ!」
赤い衝撃が蜘蛛の脚を弾き上げる。
同時に。
「位相アンカー、最大出力!」
カノンが撃ち込んだ青白い杭が空間へ食い込み、揺らぐ位相を縫い止める。
蜘蛛の動きが、ほんの一瞬だけ鈍った。
「今です!」
シエルが両手を重ねる。
青い結界が幾重にも展開する。その中心で、マスター、ファニー、シエルの三人だけが一本の線で結ばれた。
「三位一体、接続」
空気が変わる。
呼吸。
鼓動。
波形。
互いの存在が、一本の線で静かに結ばれていく。
ファニーの爆発的な出力。
シエルの精密な制御。
その二つが、マスターの中へ流れ込む。
混ざらない。
奪わない。
ただ一本へ束ねられる。
「……流すよ」
マスターが小さく呟く。
緑の光が静かに脈打つ。
暴れていた赤は真っ直ぐな熱へ。
研ぎ澄まされた青は一本の軌道へ。
二つの力が絡むことなく、一本の流れへ変わっていく。
マスターが蜘蛛を見据える。
「行こう」
緑。赤。青。
三色の光が完全に重なり、一条の奔流となって蜘蛛へ突き抜けた。
白い外殻へ、一本の亀裂が走る。
ギィィィィィ……
初めて、巨大な蜘蛛が苦悶の声を漏らした。
張り巡らされていた糸が一斉に震え、数百本が音を立てて千切れる。
世界そのものが悲鳴を上げた。
その瞬間だった。
耳元のカフスが、小さく震える。
ピシッ。
細い亀裂が一本、静かに走る。
マスターがわずかに眉を寄せる。
「……あれ」
もう一度。
ピシッ。
今度は亀裂が枝分かれする。
淡いエメラルドが隙間から滲み出した。
シエルが目を見開く。
「まずい!」
カノンも叫ぶ。
「制御装置が負荷限界です!」
ファニーが振り返る。
「え?」
シエルは歯を食いしばった。
「三位一体で増幅された《定義》を、カフスが抑え切れていません!」
クロードが短く舌打ちする。
「限界か」
マスターは苦笑した。
「やっぱり無理させちゃったねぇ」
堰き止められていた川が、少しずつ溢れ始めるように。
マスターは耳へ触れる。
その指先に伝わる振動だけで分かった。
「……もう保たないか」
苦笑する。
どこか覚悟を決めたような笑みだった。
蜘蛛が再び脚を振り上げる。
世界が悲鳴を上げる。
シエルが叫ぶ。
「マスター!離脱してください!」
カノンも声を重ねる。
「今そこで制御を失えば、この空間ごと共鳴します!」
ファニーは歯を食いしばる。
「お願いだから下がって!」
三人の声を聞きながら、マスターは静かに笑った。
「大丈夫」
誰を見るでもなく、穏やかな声だった。
「みんなで帰ろう」
その一言だけ。
ファニーが目を見開く。
「マスター……」
シエルの演算が、一瞬だけ止まる。
クロードは何も言わなかった。ただ、その背中を見つめる。
カノンは唇を噛みしめる。
マスターはゆっくりと前を向く。
「ごめんね」
蜘蛛の脚が再び落ちる。
マスターは逃げない。
一歩だけ、前へ踏み出す。
エメラルドの瞳が強く輝いた。
それと同時に。
──バキン。
乾いた破砕音が響く。
耳元のカフスが砕け散った。
破片が白い空間へ舞う。
その一つ一つが光となり、消えていく。
そして、今まで抑え込まれていた緑の光が、一気に溢れ出した。
空間が震える。
糸が逃げるように後退する。
蜘蛛の脚さえ、一瞬だけ止まった。
シエルは息を呑む。
「……制御、消失」
その姿は変わらない。
でも、どこか、人間ではない何かが立っているように見えた。
マスターはゆっくりと拳を握る。
緑の光が指先へ集まり、空間を揺らす。
「……久しぶりだねぇ」
その声はいつもと同じだった。
けれど、その奥には、境界堂の皆でさえ知らない"誰か"が、ほんの少しだけ顔を覗かせていた。
糸が逃げるように後退し、蜘蛛の脚が初めて動きを止めた。
カノンが計測器へ視線を落とす。
表示された数値が次々と書き換わり、やがて画面そのものが白く染まる。
「測定不能……」
クロードが低く呟く。
「来るぞ」
蜘蛛が動く。
今までで最も速く。
最も重く。
空間そのものを押し潰すような一撃。
誰も反応できない。
そのはずだった。
ふっ。
マスターの姿が消える。
「……え?」
ファニーの声だけが残る。
次の瞬間。
キィィン。
澄んだ音。
蜘蛛の脚が宙で止まり、ゆっくりと横へ滑り落ちる。
切られた。
そう理解した時には、もう終わっていた。
マスターは蜘蛛の背後に立っている。
「……あれ?」
自分でも少し驚いたように首を傾げる。
「速いねぇ」
その声は穏やかだった。
けれど、何かが違う。
ファニーは思わず息を止める。
「マスター……?」
振り向いたその瞳は、もうエメラルドではなかった。
金色。
朝焼けのような、神々しい輝き。
感情を映すはずの瞳が、世界そのものを映している。
シエルの喉が小さく鳴る。
「観測精度が……上昇しています」
「それって」
「人間の認識速度を超えています」
蜘蛛が咆哮する。
何百本もの脚が同時に襲いかかる。
だが、一本も届かない。
マスターは避けていなかった。
蜘蛛が動くより先に、その軌道からいなくなる。結果だけが決まっている。
脚が折れる。
糸がほどける。
白い空間が静かに崩れていく。
まるで戦いではない。
未来を一枚ずつめくっているだけだった。
「すご……」
ファニーの声が震える。
「強すぎる……」
シエルは首を横に振った。
「違います」
その瞳はマスターだけを見つめている。
「あれは……危険です」
マスターはゆっくりと拳を開く。
金色の光が指先から零れ落ち、空間そのものを書き換えていく。
蜘蛛が後ずさる。だが、その一歩ごとに、マスターはいつの間にか真正面に立っていた。
歩いた記憶はない。飛んだ記憶もない。ただ、そこに立っていた。
蜘蛛は動けない。
金色の瞳が、静かに蜘蛛を見つめている。
マスターはゆっくりと両腕を持ち上げた。
まるで、大きな球体を抱え込むように。
その指先が、空間そのものへ触れる。
ゆっくり。
ゆっくりと。
両手を閉じる。
ぎり。
見えない何かを握り潰すように。
それと同時に、巨大な蜘蛛の全身が軋んだ。
ギギギギギ……
外殻がひしゃげる。
脚が折れ曲がる。
張り巡らされた白い糸が一斉に悲鳴を上げ、世界そのものが押し潰されるように歪んだ。
蜘蛛は暴れる。
逃げようと脚を動かす。
だが、動けない。
まるで存在そのものを、巨大な手で掴まれているかのように。
金色の瞳は瞬きもしない。
ただ静かに。
世界を握るように。
両手が、さらにわずかに閉じられた。
「……もう終わりだねぇ」
ギィィィィィッ!!
蜘蛛の悲鳴が白い空間へ響き渡る。
その瞬間。
世界から色が消えた。
音も。
風も。
時間さえ。
マスターは、ふわりと身体が軽くなるのを感じた。
足元はない。
落ちてもいない。
淡く虹色を帯びた透明な膜。
自分を包む、大きな球体。
シャボン玉。
その内側だけが、静かに時間を止めていた。
膜の向こうでは、蜘蛛も仲間たちも、水面越しに見る景色のようにゆっくりと歪んでいる。
声は届かない。
けれど、誰かが必死に叫んでいることだけは分かった。
「――選べ」
静かな声。
振り向くと、いつの間にかシロが座っていた。
白い尾をゆっくり揺らし、マスターを見つめていた。
「ここから先は、おぬしが決めることじゃ」
シロが膜へそっと触れる。
波紋が広がり、その向こうには。
街。
人。
仲間。
世界が、小さな箱庭のように映し出された。
「観測者となり、この世界を俯瞰するか」
金色が、静かに深まっていく。
「それとも、人間として歩み続けるか」
マスターは答えない。
ただ、膜の向こうを見つめる。
その頃、現実では。
マスターは両腕を掲げたまま、微動だにしなかった。
指先は何かを掴むように固く閉じられている。
その姿勢のまま。
蜘蛛は目前で身を軋ませ、逃れようともがいていた。
一本、また一本と脚が砕ける。
だが、金色の光は少しずつ薄れていく。
握り潰されかけていた世界が、ゆっくりと軋み返した。
「マスター!」
ファニーが駆け寄り、その腕を掴む。
「ねえ!聞こえる!?」
返事はない。
瞬きさえしない。
蜘蛛が目前で蠢いても。
金色の瞳だけが、誰もいない遠くを見つめている。
シエルが息を呑む。
「……意識が外側へ引き込まれています」
「そんな……!」
「マスター!聞こえる!?」
クロードが低く言う。
「呼べ」
カノンも涙声になる。
「帰ってきてください……!」
四人の声が重なる。
「「マスター!!」」
その声が。
初めて、膜を震わせた。
ぴちゃん。
雨粒が落ちたような、小さな波紋。
マスターがゆっくり顔を上げる。
もう一度。
――マスター!!
ぱきり。
膜へ細い亀裂が走る。
重なる声。
――帰ってきて!
――戻れ!
――お願い!
蜘蛛の巣のように、ひびが一気に広がった。
シロは静かに微笑んだ。
「聞こえておるじゃろう」
マスターは小さく頷く。
「……うん」
「答えは、もう出ておる」
ぱん。
軽い音とともに、シャボン玉は弾けた。
風が戻る。
音が戻る。
蜘蛛の咆哮。
仲間たちの叫び。
現実が、一気に押し寄せる。
マスターがゆっくりと瞬きをする。
静かに四人を見渡す。
金色だった瞳の奥で、小さなエメラルドが灯る。
火種のように揺れながら。
少しずつ。
少しずつ。
人間の色を取り戻していく。
「……ねぇ」
少し照れたように笑う。
「みんな」
四人を見渡す。
「手を貸してくれる?」
一瞬。
全員が息を呑む。
金色の奥で灯ったエメラルドは、確かにさっきより大きくなっていた。
「当たり前だぁぁぁっ!!」
ファニーが真っ先に飛び出した。
マスター「震えるぞハート!燃え尽きるほどヒート!おおおおっ!刻むぞ血液のビート!」
ファニー「ちょ、待って!?何!?よく分かんないけどジャンル変わってるよね!?」
シエル「……それは山吹色の波紋疾走です」
マスターがジョジョ立ちをキメる。
バアァァァ〜〜ン!!
マスター「ジョナサン・ジョースター!」
シエル「出典は『ジョジョの奇妙な冒険』第一部です」
ファニー「なんで二人とも通じてるの!?」
カノン「カッコいいですね!」
ゴッ。
クロードが無言で拳骨を落とす。
マスター「……いたいよー」
クロード「現実に戻れ」




