番外編「揚げたてコロッケ」
■商店街・夕方
特売日の赤い紙。
『コロッケ 一個五十円』
油の弾ける音。衣の香り。人の流れの中に、肉屋の前だけ小さな熱気が渦巻いている。
「はいよ、揚げたて!」
紙袋からじわり、と底に染みる油。
ファニーがどこか誇らしげに受け取る。
「ふっふっふ。商店街のコロッケを侮ってはいけないのです」
マスターが一口。
「……あちっ」
口を押さえる。
湯気。ほくほくの芋。甘い玉ねぎ。あとから追いかけてくる肉の旨味。
「あっついけど美味しいねぇ」
シエルも小さく齧る。
衣がさくり。
静かな目が、わずかに細くなる。
「……風味が違いますね」
「でしょう!」
ファニーは得意顔。胸を張る。ほぼ店員。
「こういうのはねぇ、揚げたてが最強なの!」
夕暮れのアーケードの光が全てをオレンジ色に染めている。買い物袋を提げた人々が横を通り過ぎる。
その中で、コロッケを見つめたまま、ぽつり。
「昔さ」
少しだけ声色が変わる。
「中学校の近くに肉屋さんがあってね。そこの揚げたてコロッケも美味しかったんだ。家に帰りたくない時にさ。あそこで時間潰してると、店主さんがコロッケくれたっけなぁ」
笑う。
でも、少しだけ遠い笑い方。
「ほら、閉店前とかだと『余ったから食べる?』って」
コロッケを齧る。
さくり。
「今思うと、絶対余ってなかったよね!」
油紙が、かさりと鳴る。
少しだけ間。
マスターが何でもない調子で言う。
「じゃあ、その店主さんの作戦勝ちだねぇ」
「作戦?」
「ファニーを常連化する作戦」
「なにそれ」
「“この子、コロッケ与えれば帰らずに済む場所に寄るな……”って」
「犬猫みたいに言うな!」
ファニーが笑う。
ちゃんと、今の笑い方で。
シエルは小さく呟く。
「……良い店主ですね」
「うん」
短く返す。
夕方の風。ソースの匂い。遠くで自転車のベル。
ゆっくりと歩く三人。
コロッケの紙袋を抱えたファニーが、急にぴたりと止まる。
「……見つけた」
視線の先は団子屋。
カラフルな電球。甘いあんこの匂い。その横で並ぶ、艶やかな一本たち。
「そして!」
びしっと指差す。
「なんとここにはチョコバナナもあるのだー!」
マスターがそちらを見る。
「急に祭り感が出てきたねぇ」
「甘い、しょっぱいで、もう最強」
得意げに胸を張る。
「人類が辿り着いた答え!」
「規模が大きいなぁ」
シエルは静かにチョコバナナを見る。
カラースプレー。ぱりっと固まったチョコ。少しだけ斜めに刺さった棒。
「……食べづらそうですね」
「そこがいいの!」
一本受け取る。
ぱきっ。
チョコが割れる音。
「んふふー」
幸せそう。
コロッケを齧って、チョコバナナを食べて、またコロッケへ戻る。
忙しい。
マスターが笑う。
「味覚がジェットコースターだ」
「いいのいいの。商店街って、こういう自由な食べ方する場所だから」
アーケードの灯りがポツポツと点き始める。
その下で、ファニーは両手いっぱいに幸せを抱えていた。
「んー!」
頬を押さえる。
「幸せってこういうことだよねぇ……」
マスターが紙袋を片手に笑う。
「語彙が溶けてる」
「だって美味しいんだもん!」
そのまま、ファニーは隣を見る。
「シエルはこういう買い食いしないの?」
シエルは少しだけ考える。
歩きながら食べる人々。
その光景を見つめてから、静かに答える。
「……したことはありません」
「えっ!人生損してる!」
「そういうものでしょうか」
「そういうものです!」
びしっ。
断言。
シエルはわずかに視線を落とす。
「……ただ」
少し間。
「塾の講師からは、よくチョコレートを貰っていました」
「へぇ?」
マスターも静かに聞く。
シエルの声は、いつも通り淡々としている。
「授業後に。“お疲れ様”と」
「頑張ってたんだねぇ」
「別に」
即答。
けれど。
「……帰宅してからも勉強していたので、糖分補給の意味もあったのでしょう」
「絶対心配されてるやつじゃん。シエル、真面目すぎるもん」
「普通です」
「普通の中学生は“帰宅後も追加で三時間勉強”とかしませんー」
「…………」
否定しない。
マスターがくすりと笑う。
「その講師の人、たぶんシエルが倒れないかヒヤヒヤしてたんじゃないかなぁ」
シエル、 少しだけ黙る。
商店街の灯りが、横顔を淡く照らす。
「……どうでしょう」
そう言いながら。
ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。
「……ですが」
ぽつり。
「好きな料理はあります」
「おっ」
マスターが反応する。
ファニーも身を乗り出す。
「なになに?」
淡々と答える。
「麻婆豆腐の辛口」
「渋っ」
「理由は?」
「豆腐で胃に負担無くタンパク質を摂取できます」
すらすら。
「加えて、辛味で眠気が覚めます」
「勉強用だった」
「好きな料理の理由じゃないよそれ!」
「合理的です」
「もっとこう、“美味しいから”とかないの!?」
シエル、 少し考える。
「……美味しいのも事実です」
付け足しみたいに言う。
マスターが笑いを堪えている。
「シエルらしいねぇ」
「あと、発汗作用で集中力も」
「まだ続くの!?」
ファニーはついに笑い出す。
「もー、ほんと変な子!」
シエルはわずかに眉を寄せる。
「変でしょうか」
「変」
「変だねぇ」
二方向から即答。
商店街の灯りが揺れる。
その中で、シエルは少しだけ困った顔をして、でも否定はしなかった。
たぶん、昔より、そう言われることが嫌ではなくなっていた。
ファニーは笑いながら、次の標的を向く。
「じゃあさじゃあさ、マスターの買い食い歴は?」
「歴史の授業みたいだねぇ」
マスターは少し考える。
夕方の商店街。コロッケの湯気。遠くの呼び込み。
その中で、ぽつり。
「んー、学生の頃は、周りの友達に合わせて何かを買い食いしてたと思うけど……」
「けど?」
「覚えてないや」
「えぇー!?」
ファニー、盛大にずっこける。
「そんなことある!?」
「あるんだよねぇ」
マスターは困ったように笑う。
「なんか、“友達が先生のくだらない話しをした”のは覚えてるんだけど、“何食べたか”は曖昧で」
「ちなみにその話は?」
「黒板に板書する時に、先生のお尻が揺れる」
「くだらなっ!」
「記憶のフォルダ分けが独特なだけだよぉ」
マスターは少し考えてから、ふと思い出したように言う。
「あ、メロンパンは食べてた」
「急に具体的!」
「たまに凄く甘いやつ食べたくなってねぇ」
「へー」
じっと見る。
「……なんか分かる」
「分かるんだ」
「マスターって、“ふわふわした甘いパンを片手でちぎって食べてる人感”ある」
「どんな人物像?」
「似合いますね」
「シエルまで」
マスターが笑う。
「でも、買い食いって不思議だよねぇ」
歩きながら、ぽつり。
「ちゃんとした食事でもないのに、妙に記憶に残る」
夕暮れ。
商店街の灯りの下。
コロッケ。チョコバナナ。メロンパン。
たぶん、そういうどうでもいいものほど。
後になって、人生の匂いみたいに残るのかもしれなかった。
マスター「ところで、なんで団子屋にチョコバナナが置いてあったの?」
ファニー「ん?店主さんが、『これは儲かりそうだ!』って思いつきで置いたら大人気になって引っ込みがつかなくなったんだって」
マスター「商売って分からないものだねぇ」
シエル「需要があれば正解です」
ファニー「今じゃ団子より売れる日もあるらしいよ」
マスター「団子屋さんなのに?」
ファニー「団子屋さんなのに」




