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10-E 見えてはいけない


■境界堂・夜


静かに扉が閉まる。

さっきまで居たはずの騒音みたいな存在だけが消えて、空気が変に広い。


ファニーがソファへ倒れ込む。


「もうやだぁ……」


シエルは額を押さえる。


「精神疲労の原因が毎回、味方側なのはどうにかならないんですか」


マスターはカフスを触る。

冷たく硬い、ただの装飾品。

でも、内側では何かが静かに脈打っている。


「一ヶ月固定、かぁ」


ぽつり。


「軽く言ってるけどね!?それ爆弾首輪宣言だからね!?」

「首輪ではないかなぁ」

「ニュアンスの問題じゃない!!」


シエルが冷静に整理を始める。


「現状を確認します」


「第一。“金”への再接続経験あり」

「第二。固定処理により感情振幅が減衰」

「第三。カフス破損時、“再接続”の危険性あり」


「つまり。今のマスターは、“壊れないよう封印された危険物”です」

「物騒だねぇ」

「実際物騒なんだってば!!」


時計の針だけが、こち、と鳴る。


その時、マスターがふと視線を窓へ向ける。


「……雨、降るね」


ファニーが窓を見る。まだ降っていない。

シエルも外を見る。雲はある。だが、降るには早いはず。


五秒後。


ぽつ、と窓へ小さな水滴。


「……え」


ぽつ、ぽつ、ぽつ。

雨。


シエルの目が細まる。


「観測精度が上がっていますね」

「んー……分かりやすくなった感じかな。空気の重さとか。音の反射とか。流れとか」


淡々。

ただのデータ説明のように。


ファニーはじっとマスターを見る。


「……ねえ」

「ん?」

「今、雨好きだなって思った?」


間。

マスターは考える。

長く、静かな時間。


やがて。


「……嫌いではない、かなぁ」


ファニーがぐしゃっと顔を覆う。


「うわぁこの微妙な回復具合!!」

「ゼロではありません」

「採点厳しいねぇ」


シエルは静かにマスターを見る。


「厳しくもなります。マスター、”あの時”出来ると思ったでしょう」


空気が止まる。


「……何が?」


シエルはマスターから視線を逸らさない。


「学園の怪異を見つけた時です。一瞬で“核”へ到達していた。本来、探索と解析が必要な深度でした。なのにあなたは、“そこにいるね”と言った。……見えていたんですか」


沈黙。

雨音だけが、静かに続く。


やがて、マスターが小さく笑う。


「……見えてた、ねぇ」


ファニーの肩がびくりと揺れる。


「建物全部、薄かった。壁も、祈りも、人も。奥に、“本体だけ”居た」


声が静かすぎる。感情の波がない。だから余計に怖い。


「その時、何をしようとしました?」


マスターは悪気ゼロで答える。


「学院ごと消そうかなって」


「は!?!?」

「やはり」


「効率は良かったからねぇ。広域ごと定義を書き換えれば、怪異だけ剥がせそうだったし」


「待って待って待って意味が分からない!!」

「それは人間の出せる出力ではありません」


マスター、瞬き。


「やれば、戻れなくなっていました」


静寂。

雨音。

カップから立つ湯気。


その中で、マスターの目が、ほんの少しだけ揺れる。

緑。固定された、安全色。

でも、奥底で何かが静かに沈んでいる。


「……ああ」


ぽつり。


「そうか」


自分の手を見る。

指を開く。

握る。


「“出来る”と、“やっていい”は違うんだねぇ」


ファニーが即座に前へ出る。


「そうだよ!!」


勢いそのまま、マスターの両頬を挟む。


「消し飛ばすな学園を!!」

「うん」

「うんじゃなーい!!」


マスターは少し困ったように笑う。

ほんの少しだけ、人間っぽく。


「……やらないどこうか」


シエルは静かに息を吐く。


「それが賢明です」

「寿命縮むってぇ……」


その時、カフスがぴ、と小さく点灯する。


『危険思考検知。再逸脱率、微増』


三人。

沈黙。


「監視してるーーーっ!!」

「高性能だねぇ」

「笑う所ではありません」


雨は、まだ降っている。

窓の外で街の灯りが滲む。


そして、カフスの緑光だけが、静かに脈打っていた。



……




■境界堂


雨。

窓を打つ水音が、一定のリズムで続いている。


床は少し湿っている。

誰かが持ち込んだ雨粒が乾き切っていない。


マスターは棚の上へ手を伸ばす。


「あったあった」


いつもの距離。いつもの動き。


――ほんの少しだけ、ズレる。


靴底が滑る。体勢が流れる。榛色の髪が揺れる。反射的に壁へ手をつこうとして。


ガッ。


硬い音。

耳のカフスが、本棚の角へ直撃する。


雨音だけが続く。


「……嫌な音したよ!?」

「今のは……」


ゆっくり耳へ触れる。

指先に冷たい金属。


その中央、細い線。“ひび”。


空気が変わる。


「……軽くなったねぇ」

「それ言っちゃダメなやつ!!」


シエルが即座に近づく。

耳元を確認。

呼吸が浅くなる。


「……固定出力、低下。位相安定率、急落しています」


マスターは瞬きを一つ。

その瞬間、雨音が遅れて聞こえる。


「今、変じゃなかった?」


マスターは答えない。

代わりに視線だけが動く。


窓。雨粒。空気。流れ。全部が、近い。

指先がわずかに揺れる。

空気が、従う。

カーテンが、風もないのに揺れた。


「……寄っています。“上”へ」


ひびがほんの少しだけ広がる。

音はしない。でも、見える。


「ダメだって、それ……」


シエルは即座に耳元へ固定具を当てる。

携帯工具。補助フレーム。応急用の抑制布。


「固定シークエンス、再起動なし……。このまま負荷が増えれば、破断します」


マスターがひびへ触れる。


「壊れると、まずいんだよねぇ」


その瞬間。


ぱき。


ひびが、ひとりで広がった。


「……え?」


部屋中の本が、ふわりと数センチ浮く。

照明が明滅する。

雨音が、一瞬だけ止んだ。


「使わないでください!」

「今それやると逆に割れる!!」


はっとする。視線を落とす。

本。空気。床。全部が、“従いかけていた”。


「……ごめん」


珍しく反応が早い。


シエルがさらに耳元を補強。

固定布を巻き、補助フレームで負荷を逃がす。


ファニーは窓を閉める。

照明を落とす。音を減らす。刺激を削る。


「静かにして、考えないで、見すぎないで」


矛盾みたいな指示。

でも、今はそれしかない。


ソファへ座り目を閉じる。

“定義しない”。

“見ない”。

“届かない”。

無理やり、人間側へ留まる。


時間だけが進む。

雨。時計。呼吸。


やがて、ひびは止まる。

完全ではない。でも、広がっていない。


「……臨界は越えました」

「寿命縮んだぁ……」

「僕もだねぇ」


その軽口。

少しだけ、戻っている。



静かに灯りは落ちている。

窓の外。遠い雨音。


マスターはひとり、左耳へ触れる。

固定布の下、ひびの入ったカフスは、まだ熱を持っている。


そして、内側。

声ではない“何か”。


――外せばいい。


思考。

でも、感情じゃない。


――もっと楽になる。

――均されなくていい。

――全部、見える。


マスターは目を閉じる。

緑の奥。

金色。

記憶として残った光。


「……便利そうだねぇ」


ぽつり。

本音に近い、危うい距離。

指先が、カフスの留め具へ触れる。


「マスター?」


扉が開く。

ファニーの少し早い呼吸。


「……何してたの」

「うん」


耳元。

固定布。

触れていた指。

全部見える。

一歩近づく。


「……外そうとした?」

「……考えただけだよ」

「同じだよ、それ」


軽く言う。

でも、指先は震えている。

静かにシエルも来る。


「……誘惑です。最短経路の提示」


マスターは小さく笑う。


「合理的なんだよねぇ」

「だから危険です」


沈黙。

マスターはもう一度耳へ触れる。

今度は長い。


「外したら、たぶん」


言葉を選ばない。


「全部、早くなる」


理解。判断。結果。

そして、“人間”が遅くなる。


ファニー、そっと手を重ねる。

耳元へ。


「遅くていい。遠回りでいい」


もう一度。


「ちゃんと、こっちで考えよう」


“こっち”。

人間側。


「効率より、可逆性を優先します。戻れなくなる選択は却下です」


マスターは少しだけ笑う。

今度は、ちゃんと、困ったみたいに。


「……二人とも、強いねぇ」

「マスターが弱ってるだけ」

「今はそれで問題ありません」


短い沈黙。

やがて、耳から手を離す。


「……外さないよ」


カフスは、動かない。

ひびも、消えない。

今はそれでいい。




窓の外はまだ雨。

その向こう、見えないどこかで。


糸が、張る。


シエルは目を細める。


「……来ます」

「今度は何」

「外側からです」


糸。

振動。

見えない“網”。


マスターは静かに耳元へ触れる。

ひびがまだ残っている。


「……守り切れるといいねぇ」



誰も気づかないほど、ほんの一瞬だけ。


金色が、灯った。





■世界の狭間


どこまでも白い世界。

境界も、時間も、音も曖昧な場所。

その中央で、一匹の白猫が静かに目を開く。


金の瞳。


その奥に映るのは、境界堂。


左耳へ触れる青年。ひびの入ったカフス。

そして、ほんの一瞬だけ灯った、金色。


シロは小さく目を細める。


「……芽吹いたか」


白い尾がゆるりと揺れる。


「あやつも、ようやくここまで来た」


誰へ語るでもなく、静かな独白。


「重しを得るか」


一拍。


「すべてを手放すか」


金の瞳が、遠くを見る。


「人は重くなるほど、人になる。されど、重さは神には要らぬ」


長い沈黙。


「選ぶ時が来る」


白い世界に、言葉だけが落ちる。


「人として重く生きるか」


「神として軽く在るか」


シロは静かに目を閉じた。


「……急がずともよい。じゃが、その時は近い」


白い姿は、ゆっくりと世界へ溶けていく。

最後まで残ったのは、金色の瞳だけだった。



――ちりん。




マスター「このぐるぐる巻きの固定布、もう取っていいかなぁ。左側だけ重くて首が痛くなってきたかも」

ファニー「まだガマン!」

シエル「必要な重さです」

マスター「……あっ!」


その瞬間、固定布の端を持つと、すたすたと洗面所へ消えていく。


ファニー「待って!?どこ行くの!?」


返事はない。

数分後。

満足げな顔で戻ってきたマスターの頭は、綺麗にミイラ化していた。


二人「「……は?」」

マスター「重さが均等になったよ」

ファニー「なんで巻いたの!?」

シエル「その発想より、実行速度の方が問題です」


マスター「……あれ?」


くい。くい。


「取れない」


ファニー「だから何やってんのぉぉぉ!!」

シエル「応急処置が要救助者を生みましたね」

マスター「ごめんねぇ」

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